天神様の門前の花柳界・路地裏に現われた黒板塀・現役の復興小学校
★夜の天神様、小さく写っておりますが、こんな時間だというのにうら若き女性が一人で参拝・・・なんだか怖い・・・。
前回の不忍『池の端』に続きますのは、すぐ目と鼻の先、隣接する高台に位置する湯島天神の門前にひろがっていた花街跡を訪ねます。菅原道真公を祀る学問の神様、そして梅の名所として広く知られる天神様、初めて訪れたのは高校受験を控えた正月でした。国立競技場でアメフトのライスボールを友人と観戦した帰りに寄ったんだよなあ・・・当時もそうでしたが、未だにアメフトのルールを理解していないんですよね(笑)そのおかげか、私の努力の賜物か、はたまた単に運が良かっただけなのかは分かりませんが、何とか第一志望に合格することができたわけです。まあ、その頃から普段は無神論者なのに、苦しいときの何とやらという都合のいい人間というのは一貫しておりますが・・・。『全国花街めぐり』による昭和初期の様子からどうぞ。
『昔、ころびの本場 菅公を祀る湯島神社を中心に起つた花街で、余り古いことは知らない寛政時代にはすでに若干の芸妓が居つたらしく「ころび芸妓」の名府内に喧伝されて居つたところから察すれば、発展家ぞろひであつたと見える。「ころんだら食はふふとついてゆく、芸妓の母のおくり狼」などといふ狂歌さへ出来てゐた。池の端の花街と殆んど接してゐるだけに常に池の端に圧されてゐる気味がある。しかし池の端が水に望んで独特の風趣を有せるに対して、ここは天神の台地を舞台として下町の夜の灯の海を一目に見おろし、忍ヶ丘の翠色を一望に収むる趣き、また甚だ捨てがたいものがある・・・』
当時で芸妓置屋59軒、芸妓120名、料理屋15軒、待合31軒とのことですので、規模的には中くらいの花街だったようです。天神様から南に伸びる参道沿い、三組坂上辺りまでが嘗ての花街だったと思われます。『東京 花街・粋な街』によりますと、元々は界隈にあった訳ありカップルの密会用の出会い茶屋と、三大メッカでもあった陰間茶屋が由来とされているみたいです。それで上記の『ころび芸妓の本場』と呼ばれたのかもしれませんね。一応説明しておきますが『転び芸者』とは、本業としての芸事はもちろんですが、場合によっては娼妓にもなる芸妓ということです。客からしたら、理想的な女性なんじゃないかと思うのですが(笑)あ、もちろん現代の芸者さんは『ころびません』ので、くれぐれもお馬鹿な言動は謹んでくださいよ。
幸いにもこの界隈は空襲の被害から逃れることができました。しかし、どこの花街も同様ですが、ゆっくりと衰退していくことになります。昭和34年(1959)には11軒あった料亭が、昭和47年(1972)には3軒、同52年(1977)で2軒・・・天神様の鳥居の向かいに見番があったそうですが、その頃には三業組合も解散し江戸時代から続いた花柳界は消え失せてしまうのでした。
註)各画像のキャプションに付けられた☆は2009年5月、★は2012年10月、◆は2013年5月に撮影されたことを示しています。
☆前回の続きになります。春日通りの南を並行する通り、この辺りが『池の端』の南端。通りの向かいには銅板張りの看板建築。引き分けの雨戸が珍しいと思いました。亀甲模様が綺麗ですね。
◆同じ並びにあるのがCaféシャルマンさん。絶妙な位置にあるステンドグラス、ストライプの目地の所々に貼られているのは大理石、このシンプルなファサードが妙に気に入ってしまったわけ。やっていなかったのが残念。
◆シャルマンさんの隣に校門があります。台東区立黒門小学校・・・あ、この辺りはまだ台東区なんだ・・・えーと、細かいツッコミはなしの方向で(笑)
◆黒門小学校の現校舎が建てられたのは昭和5年(1930)、所謂復興小学校です。復興小学校とは・・・関東大震災で倒壊・焼失した校舎を、帝都復興事業の一環として建設し直したものをいいます。鉄筋コンクリート造、先進的な設備、革新的な意匠等、当時としては最先端を行く建物でした。現在23区内に20校ほど残っておりますが、此処のように今も学校として現役なのは数えるほど・・・貴重な存在なのです。
◆昇降口廻りはアールデコです。
◆なんといっても表現主義的デザインのモダンな3階の窓が目を引きますよね。アーチというよりもオニギリに近いですけど(笑)戦後になると、標準設計なる画一的な基準が定められ、どれも似たような校舎が大量生産されるようになります。以前、そういった校舎の改修や耐震補強に結構携わったことがあるのですが、子供たちはこんな校舎でいいのかな?楽しいのかな?・・・と思うこと度々でした。まあ、私もそんな校舎で学んできた一人なんですけどね・・・。
☆近くの路地裏に凄い三階建てが・・・明らかに後から上に乗っけていますな。それにしても盛りすぎ(笑)
☆シンプルな看板建築のオフィス、それの角を隅切って造った入口。見上げるとこんなオシャレな軒天。こういうの大好きです。
☆東京メトロ千代田線が通る都道452号線に面して、いい感じに廃れた長屋形式の看板建築商店が並んでいます。レリーフがステキです。
☆すぐ背後にはタワーマンションが迫っております。
☆こちらは一色菓子店さん、もうやっていないみたい。いちばん上のがダミーに見えてしまうアーチ窓の並びが面白いですね。それでは通りを渡って天神様に向かうと致しましょう。
☆天神様のある高台の麓、空襲を逃れたと思われるお宅とラブホ・・・もしかすると、出会い茶屋や陰間茶屋の名残なのかもしれません。
☆近くにはこんなバラックみたいな三階建て・・・。
☆この日は天神様の例大祭でした。
☆近くのポケットパークの木陰では、祭りなど我関せずといった感じでニッカボッカ姿の職人さんが昼寝中・・・気持ち良さそう。
☆天神様の境内へ登る女坂の下にこの謎のお宅?があります。古びた押縁下見板張りの純和風建築です。
☆花街と関係あるのか不明ですが、『東京 花街・粋な街』によりますと、劇作家の久保田万太郎が此処にしばらく住んでいたそうです。
★夜の様子・・・今は空き家みたいですね。
☆例大祭の境内、屋台でいっぱいでした。
◆関係ない日でも出ているみたいですけど(笑)参拝を済ませたら、参道沿いにあったとされる花街の痕跡を探しましょう。
☆その前に・・・天神様がある高台の高低差がよく分かるのがこの実盛坂。かなりのものでしょ。
◆鳥居から続く通りに戻ってきましたよ。右はがまぐちやさんという喫茶店、戸袋の鏝絵・・・コレとそっくりなのを新小岩で見ているのですが・・・同じ職人さん???問題は左、かなり直されているようですが、雰囲気残っていると思いません???
◆脇の路地に入ると、界隈唯一の現役料亭である満川さんがあります。昭和23年(1948)創業の老舗、花街の盛衰を見守ってきたお店なんでしょうね。うどんすきが名物らしいです。
◆・・・路地を抜けると立派な黒板塀が現れましたぞ。佇まいは明らかに遺構そのものに見えるのですが・・・如何でしょう。
◆このアングルがお気に入りです。
◆タタキはごろた石の洗い出し、これ歩きにくいんですよね。表札には『杵屋』とあります。試しに検索してみたら意外な結果が・・・なんとコチラ、長唄のお師匠さんらしいです。花街跡の長唄師匠・・・遺構とするにはちょっと無理があるよなあ。
◆別の路地で見つけたお宅、角の出格子がいいですねえ。置屋さんではないかと・・・どうして?と聞かれても、なんとなく・・・としか答えられないのですが(笑)でも、2階の窓の位置が普通のお宅とは違うんですよ。
◆奥のお宅の造りも気になりませんか???トリコロールの旗が見えますが、現在は仏料理店みたいです。この界隈、こういった大人の隠れ家的なお店がたくさんあります。
◆次の目的地に向かうため三組坂上の先へ・・・すぐに出会ったのがコチラ。これも窓の配置が妙だなあ。そのうえ全ての窓に小庇をつけたものだから、更にカオスに・・・かといって破綻寸前でギリギリ留まっている・・・まあ、簡単に言えばカッコイイということです(笑)
◆正体は不明ですが、もしかするとこの辺りまで花街がひろがっていたのかもしれませんね。
◆気に入ったのが反対側の窓の配置・・・ちょっとしたアートですな。いいでしょコレ。
◆向かいのお宅もちょっと変、入母屋造りの一見すると料亭風・・・に見えなくもないわけ。地図には壷屋工場とあります。壷屋って最中で有名な和菓子屋さん、湯島天神の近くに総本店があったはず。此処で作っているわけ???
◆表札には湯島新花町と旧町名が・・・それにしてもいい雰囲気ですな。
実はレポのためにいろいろと調べ物をしていましたら、料亭満川さんの近くにまだ遺構らしきものが幾つか残っているという事実を知ってしまったわけ・・・相変わらず杜撰で申し訳ない。いずれ再訪しないとならないみたいです。このまま少し南へ行きますと、次回の神田明神下の花街跡に出るはずです。
★夜の天神様、小さく写っておりますが、こんな時間だというのにうら若き女性が一人で参拝・・・なんだか怖い・・・。
前回の不忍『池の端』に続きますのは、すぐ目と鼻の先、隣接する高台に位置する湯島天神の門前にひろがっていた花街跡を訪ねます。菅原道真公を祀る学問の神様、そして梅の名所として広く知られる天神様、初めて訪れたのは高校受験を控えた正月でした。国立競技場でアメフトのライスボールを友人と観戦した帰りに寄ったんだよなあ・・・当時もそうでしたが、未だにアメフトのルールを理解していないんですよね(笑)そのおかげか、私の努力の賜物か、はたまた単に運が良かっただけなのかは分かりませんが、何とか第一志望に合格することができたわけです。まあ、その頃から普段は無神論者なのに、苦しいときの何とやらという都合のいい人間というのは一貫しておりますが・・・。『全国花街めぐり』による昭和初期の様子からどうぞ。
『昔、ころびの本場 菅公を祀る湯島神社を中心に起つた花街で、余り古いことは知らない寛政時代にはすでに若干の芸妓が居つたらしく「ころび芸妓」の名府内に喧伝されて居つたところから察すれば、発展家ぞろひであつたと見える。「ころんだら食はふふとついてゆく、芸妓の母のおくり狼」などといふ狂歌さへ出来てゐた。池の端の花街と殆んど接してゐるだけに常に池の端に圧されてゐる気味がある。しかし池の端が水に望んで独特の風趣を有せるに対して、ここは天神の台地を舞台として下町の夜の灯の海を一目に見おろし、忍ヶ丘の翠色を一望に収むる趣き、また甚だ捨てがたいものがある・・・』
当時で芸妓置屋59軒、芸妓120名、料理屋15軒、待合31軒とのことですので、規模的には中くらいの花街だったようです。天神様から南に伸びる参道沿い、三組坂上辺りまでが嘗ての花街だったと思われます。『東京 花街・粋な街』によりますと、元々は界隈にあった訳ありカップルの密会用の出会い茶屋と、三大メッカでもあった陰間茶屋が由来とされているみたいです。それで上記の『ころび芸妓の本場』と呼ばれたのかもしれませんね。一応説明しておきますが『転び芸者』とは、本業としての芸事はもちろんですが、場合によっては娼妓にもなる芸妓ということです。客からしたら、理想的な女性なんじゃないかと思うのですが(笑)あ、もちろん現代の芸者さんは『ころびません』ので、くれぐれもお馬鹿な言動は謹んでくださいよ。
幸いにもこの界隈は空襲の被害から逃れることができました。しかし、どこの花街も同様ですが、ゆっくりと衰退していくことになります。昭和34年(1959)には11軒あった料亭が、昭和47年(1972)には3軒、同52年(1977)で2軒・・・天神様の鳥居の向かいに見番があったそうですが、その頃には三業組合も解散し江戸時代から続いた花柳界は消え失せてしまうのでした。
註)各画像のキャプションに付けられた☆は2009年5月、★は2012年10月、◆は2013年5月に撮影されたことを示しています。
☆前回の続きになります。春日通りの南を並行する通り、この辺りが『池の端』の南端。通りの向かいには銅板張りの看板建築。引き分けの雨戸が珍しいと思いました。亀甲模様が綺麗ですね。
◆同じ並びにあるのがCaféシャルマンさん。絶妙な位置にあるステンドグラス、ストライプの目地の所々に貼られているのは大理石、このシンプルなファサードが妙に気に入ってしまったわけ。やっていなかったのが残念。
◆シャルマンさんの隣に校門があります。台東区立黒門小学校・・・あ、この辺りはまだ台東区なんだ・・・えーと、細かいツッコミはなしの方向で(笑)
◆黒門小学校の現校舎が建てられたのは昭和5年(1930)、所謂復興小学校です。復興小学校とは・・・関東大震災で倒壊・焼失した校舎を、帝都復興事業の一環として建設し直したものをいいます。鉄筋コンクリート造、先進的な設備、革新的な意匠等、当時としては最先端を行く建物でした。現在23区内に20校ほど残っておりますが、此処のように今も学校として現役なのは数えるほど・・・貴重な存在なのです。
◆昇降口廻りはアールデコです。
◆なんといっても表現主義的デザインのモダンな3階の窓が目を引きますよね。アーチというよりもオニギリに近いですけど(笑)戦後になると、標準設計なる画一的な基準が定められ、どれも似たような校舎が大量生産されるようになります。以前、そういった校舎の改修や耐震補強に結構携わったことがあるのですが、子供たちはこんな校舎でいいのかな?楽しいのかな?・・・と思うこと度々でした。まあ、私もそんな校舎で学んできた一人なんですけどね・・・。
☆近くの路地裏に凄い三階建てが・・・明らかに後から上に乗っけていますな。それにしても盛りすぎ(笑)
☆シンプルな看板建築のオフィス、それの角を隅切って造った入口。見上げるとこんなオシャレな軒天。こういうの大好きです。
☆東京メトロ千代田線が通る都道452号線に面して、いい感じに廃れた長屋形式の看板建築商店が並んでいます。レリーフがステキです。
☆すぐ背後にはタワーマンションが迫っております。
☆こちらは一色菓子店さん、もうやっていないみたい。いちばん上のがダミーに見えてしまうアーチ窓の並びが面白いですね。それでは通りを渡って天神様に向かうと致しましょう。
☆天神様のある高台の麓、空襲を逃れたと思われるお宅とラブホ・・・もしかすると、出会い茶屋や陰間茶屋の名残なのかもしれません。
☆近くにはこんなバラックみたいな三階建て・・・。
☆この日は天神様の例大祭でした。
☆近くのポケットパークの木陰では、祭りなど我関せずといった感じでニッカボッカ姿の職人さんが昼寝中・・・気持ち良さそう。
☆天神様の境内へ登る女坂の下にこの謎のお宅?があります。古びた押縁下見板張りの純和風建築です。
☆花街と関係あるのか不明ですが、『東京 花街・粋な街』によりますと、劇作家の久保田万太郎が此処にしばらく住んでいたそうです。
★夜の様子・・・今は空き家みたいですね。
☆例大祭の境内、屋台でいっぱいでした。
◆関係ない日でも出ているみたいですけど(笑)参拝を済ませたら、参道沿いにあったとされる花街の痕跡を探しましょう。
☆その前に・・・天神様がある高台の高低差がよく分かるのがこの実盛坂。かなりのものでしょ。
◆鳥居から続く通りに戻ってきましたよ。右はがまぐちやさんという喫茶店、戸袋の鏝絵・・・コレとそっくりなのを新小岩で見ているのですが・・・同じ職人さん???問題は左、かなり直されているようですが、雰囲気残っていると思いません???
◆脇の路地に入ると、界隈唯一の現役料亭である満川さんがあります。昭和23年(1948)創業の老舗、花街の盛衰を見守ってきたお店なんでしょうね。うどんすきが名物らしいです。
◆・・・路地を抜けると立派な黒板塀が現れましたぞ。佇まいは明らかに遺構そのものに見えるのですが・・・如何でしょう。
◆このアングルがお気に入りです。
◆タタキはごろた石の洗い出し、これ歩きにくいんですよね。表札には『杵屋』とあります。試しに検索してみたら意外な結果が・・・なんとコチラ、長唄のお師匠さんらしいです。花街跡の長唄師匠・・・遺構とするにはちょっと無理があるよなあ。
◆別の路地で見つけたお宅、角の出格子がいいですねえ。置屋さんではないかと・・・どうして?と聞かれても、なんとなく・・・としか答えられないのですが(笑)でも、2階の窓の位置が普通のお宅とは違うんですよ。
◆奥のお宅の造りも気になりませんか???トリコロールの旗が見えますが、現在は仏料理店みたいです。この界隈、こういった大人の隠れ家的なお店がたくさんあります。
◆次の目的地に向かうため三組坂上の先へ・・・すぐに出会ったのがコチラ。これも窓の配置が妙だなあ。そのうえ全ての窓に小庇をつけたものだから、更にカオスに・・・かといって破綻寸前でギリギリ留まっている・・・まあ、簡単に言えばカッコイイということです(笑)
◆正体は不明ですが、もしかするとこの辺りまで花街がひろがっていたのかもしれませんね。
◆気に入ったのが反対側の窓の配置・・・ちょっとしたアートですな。いいでしょコレ。
◆向かいのお宅もちょっと変、入母屋造りの一見すると料亭風・・・に見えなくもないわけ。地図には壷屋工場とあります。壷屋って最中で有名な和菓子屋さん、湯島天神の近くに総本店があったはず。此処で作っているわけ???
◆表札には湯島新花町と旧町名が・・・それにしてもいい雰囲気ですな。
実はレポのためにいろいろと調べ物をしていましたら、料亭満川さんの近くにまだ遺構らしきものが幾つか残っているという事実を知ってしまったわけ・・・相変わらず杜撰で申し訳ない。いずれ再訪しないとならないみたいです。このまま少し南へ行きますと、次回の神田明神下の花街跡に出るはずです。