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Channel: 『ぬけられます』 あちこち廓(くるわ)探索日誌
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山形県 米沢市201306 その1

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東北最大の規模を誇る酒蔵・絶品の看板建築を求めて・遊廓跡に唯一残る転業旅館?

コレが見たいがために米沢に来たようなものなのです。


 更新が滞っておりますが、一応生きておりますよ。いろいろと立て込んでおりまして・・・というのも現在の私、所謂サラリーマン状態なのです。知り合いの事務所の担当が病気で倒れてしまい、以前勤めていた事務所の上司であった所長に泣きつかれ、残務処理のクローザーとして絶賛?登板中。ですので、毎日定時の電車に乗り込み、混雑の中でもみくちゃになっている中の一人というわけ。まさか再びこの世界に戻ってきてしまうとは(笑)帰りは遅いし・・・土日は自分ところの仕事・・・その他野暮用が山積み・・・もちろん探索なんて行けやしない。そろそろ禁断症状も限界、このままだとヤバイと思っていたところ、一月半ぶりに時間をつくることができました。

 さて、何処に行きましょうか・・・急に決まったので、相変わらず下調べは杜撰そのものですぞ。とりあえず以前から気になっていた福島県二本松市を押えておいて・・・あと一ヶ所、此処も気になっていた桑折町にしようかな・・・などとブツブツ言いながら地図を眺めておりますと、目に飛び込んできたのが米沢の文字。そうか此処があったか!!まあ正直なところ、遊里跡ウンヌンよりも米沢牛というブランドに惹かれたというのはここだけの話だったりします(笑)前夜の下調べだけでは足りず、新幹線の中でもずーっと地図とネットを睨めっこ・・・この探索、大丈夫かいな・・・。あ、このレポ、拙ブログでは非常に稀な撮って翌日出しの出来立てホカホカ状態でお届けいたしますぞ。

 遊里関係はその2で記させていただくとして、まずは米沢市のことから・・・直江兼続が治めた米沢藩15万石の城下町として栄華を誇った町ですが、江戸中期になりますと、全国の諸藩同様に財政破綻寸前まで追い込まれることになります。主な原因は越後上杉家から続く200万石を越える家臣団を一度もリストラしなかったからだったとか・・・体裁と面子がそうさせたそうですが、現代でもよく聞かれる話ですよね。一時は幕府から領地没収寸前までいったそうですが、それを救ったのが『なせば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり』の上杉鷹山。彼の古い体質の撤廃や優秀な若手の抜擢などによって米沢藩は奇跡の復活を遂げることになります。まあ、『なせば成る』で物事がうまくいけば世の中平和なんでしょうけど・・・そうはいかないのが世の常、とか思ってしまう私はひねくれているのでしょうか。

 町の特徴はと言いますと、鷹山を奉った上杉神社がある米沢城址を中心に整然とした区画がひろがる、まさに典型的な城下町の様相。ただ気になるのは、城下町というわりには古い町並み的な密集地帯が全く見られらないこと。通りの幅員も妙に広いし、私好みの路地も無さそう・・・。実は米沢は、大正6年(1917)と大正8年(1919)と二度にわたって発生した大火によって市街地の大部分が灰燼に帰しているのです。現在の町並みの殆んどはその後に再興されたものと思われます。通りが広いのも延焼を防ぐ手立てとして大火後に拡幅したのかもしれませんね。こんな感じですので町並み的にはあまり期待しないほうが良さそう・・・ただ、この町には以前から拝見したかった建物があるのです。絶品の看板建築なのですが、まだ残っていてくれるといいなあ。



米沢駅に降り立つとまさに梅雨の晴れ間、今日一日もってくれるといいのですが・・・。駅前に竜宮城!?こちらは昭和12年(1937)竣工のホテルおとわ本館(旧音羽屋旅館)、国の登録文化財です。入母屋に鯱、釣鐘窓、西洋風の柱型・・・摩訶不思議な和洋折衷の建物です。こう見えても鉄筋コンクリート造です。



着工は昭和2年、なんと竣工まで10年!?何があったのでしょう・・・職人泣かせの凝りまくりだったりして(笑)中が見てみたいですね。



駅から上杉神社のある町の中心まで西へ1.5キロほど・・・途中で出会ったキカイダーみたいな看板建築(笑)風に揺れるカーテンがいい感じ。



脇の空き地ではお婆ちゃんが草むしり中。コレ、お婆ちゃん家???



古びた路線バスの車庫、停留所看板の墓場がありました。



その先で最上川を渡ります。川向うが嘗ての米沢城下になります。土手に桜並木が見えますが、その向うがその2でお話しする福田遊廓跡、最後に訪れます。何か収穫があるといいのですが・・・。



???



城下を東西に貫く八谷街道(国道121号線)、真っ直ぐ行くと米沢城址なのですが、途中で左折。こちらのお宅も大火後に建てられたのでしょうか。



前方に豪壮な土蔵が見えてきました。海鼠壁に使われた平瓦の色がいいなあ。



これは美しい・・・こちらは東光の酒蔵、慶長2年(1597)創業の小嶋総本店の酒蔵を資料館として公開しています。本当の酒蔵は別ということ?1200坪の敷地に500坪の建物、中でも140坪の土蔵の仕込蔵は東北一の広さを誇っているそうです。



時間の都合で見学できなかった・・・残念。



八谷街道に戻る途中に見えてくるのが大正11年(1922)に建てられた米沢織物歴史資料館(旧米沢織物組合本館)です。米沢は機業地でもありました。草木染めの米沢織を奨励したのも上杉鷹山です。



妻壁に美しい朝顔と椿のステンドグラスが残っておりました。



隣にあるのが九里学園高校。昭和10年(1935)に建てられた下見板張りの見事な木造校舎が今も現役です。正面は桜の木が邪魔だし、校内には入れないし・・・こんなアングルでしか撮れませんでした。



近くにあった割烹東家さん、かなりの大店です。明治10年(1877)創業の老舗なんだとか。雪国でよく見かける、土蔵の窓を守る二重皮膜のカーテンウォールとでも申しましょうか、コレ好きなんですよね。正式名称はあるのでしょうか。



八谷街道沿いで見つけた美しいお宅です。



米沢城址に到着、鯉が泳いでいるのは嘗ての内堀、外堀もあったのですが埋められてしまったようです。



上杉神社は意外というか、当然というか、いかにもこじんまりとして質素な造り。しかし、参拝客の姿は絶えません。



お参りを済ませたら城址の南側へ・・・塀に謎のお手洗の表示。何このにじり口みたいな戸(笑)



塀の向こうにあるのが旧上杉伯爵邸、米沢城二の丸に建てられた上杉家十四代茂憲伯爵邸。明治29年(1896)竣工の初代は大正8年の大火で焼失、現在のは大正14年(1925)に再建された二代目になります。さすがは上杉家、こりゃ凄いわ。



あ、国の登録文化財ですよ。現在は米沢の名産を使ったお座敷レストランになっているみたい。ちょっと早いのですが此処にしようかな・・・米沢牛、米沢牛♪入口のメニューを見ますと・・・た、高っ!!ハイハイ、私にゃ庶民的なお店がお似合いですよ。



米沢牛にふられ・・・今度は城址の北側の丸の内、再び八谷街道に出ました。ほら、見えてきましたよ。



昭和4年(1929)に建てられた岡崎写真館さん。是非とも見たかったのがコレになります。円形の回転窓に小窓が連なる出窓・・・何でしょう、このアバンギャルド・・・かっこよすぎでしょう。



当時のままなのかはわかりませんが、単純に塗りたくっただけみたいなドイツ壁風の外壁の質感が素晴しいなあ。後から造ったと思われる窓台もカワイイなあ。しっくり馴染んでいるのも不思議(笑)



そして館名の独特なフォント・・・テッペンの出っ張りはカメラのレンズだったりして(笑)いやー、来て良かった。で、地図を見ていて気付いたのですが、この並びに妙に引っかかる物件があるのです。行き止まりの細い通り沿いに小さな建物がビッシリ・・・これはもしかして・・・。



ブハッ、あけぼの小路!!まさかの横丁建築の出現です。



おそるおそる、ちょっとお邪魔しますよ。なぜか車庫代わりになっておりますが・・・。



ひゃあ、こりゃ凄い・・・崩壊寸前ですな。



植物も侵食し始めておりますし・・・現役なのかなあ。



夜の姿が見てみたい・・・。



久々のドアマニアです。それにしても本当にあったとは・・・こういう発見は嬉しいなあ。

前半はここまで、後半では中央の小さな歓楽街を彷徨った後、最上川沿いの福田遊廓跡を訪ねます。結果は如何に・・・お楽しみに。

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