階段を下ると飲み屋街・一時期慰安施設だった花街・もしかしたら元芸者さん!?
花街跡からISUZU本社を望みます。もの凄い対比ですな。
前回の蒲田から一駅戻ると大森、今回はJR大森駅と並行して走る京急の大森海岸駅に挟まれたところに存在した花街跡を訪ねます。名前を大井三業地といいます。すぐ近くに大森海岸三業地なんてものもありますが、それについてはまた別の機会にでも・・・。『東京 花街・粋な街』によりますと、平和島競艇場やしながわ水族館がある辺りが嘗ての海岸線だったそうで、そこが明治24年(1891)頃に海水浴場として整備されると、お手軽な行楽地として一気に賑わうことになります。それを目当てにした料亭などが次々と新規出店・・・これが花街形成の由来となったようです。昭和4年(1929)時点で芸妓置屋が42軒、芸妓の数は不明ですが200名はいたのではないかと推定されています。戦前までが大井三業地の最盛期だったそうで、戦争が始まると一時営業を停止しますが、幸いにも空襲の被害は軽微だったそうです。
戦争が終わり一安心、さあ再開だと思っていたところ、なんとこの花街、GHQからRAA(特殊慰安施設協会)の慰安施設に指定されてしまうのです。都内では向島・福生・調布・立川など25ヶ所に設置されたそうですが、これを性の防波堤として一般婦女子を守ろうとしたわけです。花街関係者にとってはまさに晴天の霹靂・・・一方の業者にとっては千載一遇のチャンスだったのでしょうけど。その施設に使われたのが料亭小町園、開店が終戦直後の8月27日だったそうですから、とんでもなく素早い対応ですよね。それだけ切羽詰っていたということなのかもしれません。そんな慰安施設も僅か半年後には性病蔓延で『off limits』の印が掲げられあえなく閉鎖・・・。不思議なのがこのRAAの慰安施設、ほとんどが同じ末路なんですよね。遊廓が性病蔓延で閉鎖なんて聞いたことありません。まあ、定期的に検査を受けていた娼妓とは違って、そんな暇も無いほどの悲惨な状況だったのでしょう。で、この施設で働いていた女性ですが、まさに用済みといった感じで何の保障も無いまま放り出されることになります。彼女達の行き着く先はパンパン・・・そして赤線、青線・・・酷い話ですよね。
そんなこんながありましたが、復活した大井三業地、戦後の最盛期は昭和30年代前半だったそうで35軒の料亭があったそうです。その後はゆっくりと衰退・・・昭和52年(1977)で12軒ですが、同56年(1981)には3軒に激減しています。そして、昭和60年代初めには終焉を迎えたということになっています。以上が大井三業地の概要になります・・・が、訪ねた後に知ったという毎度のパターンで申し訳ないのですが(笑)この花街、まだ終焉というわけではないみたい・・・現役の芸者さんが頑張っておられるそうです。3軒の置屋に約15名の芸者さんが活躍されているそうです。まあ、置屋といっても、隣に座って、お酌して、笑っていればいいコンパニオン派遣の類いだろと思われるかもしれませんが、正真正銘の芸ができる芸者さんですぞ。中には映画やCMに出ておられる姐さんもいて驚かされました。HPもありますので、興味のある方は探してみたら如何でしょう。
JR大森駅、大井三業地へは東口なのですが西口へ・・・改札を出ると線路と並行して走る池上通り(都道421号線)に出ます。目前には嘗ての海岸線と思われる崖が迫っています。これを登ればその先は山王、言わずと知れた高級住宅街。そちらに興味はありませんので、近くの階段を下りますよ。
階段を下りると飲み屋さんがいっぱい、山王小路飲食店街といいます。JRの線路と池上通りに挟まれた狭〜い一画にこんなところがあるなんて・・・面白いなあ。此処、池上通りから階段を下りないと辿り着けないのです。
真昼間だからでしょうか、あまり如何わしい雰囲気はありません。中にはこんなカフェー風のお店もあったりします。
お店のむこうは線路なんですよね。
もちろん帰りは登りです。呑み助にはちと辛いかも(笑)・・・以上、谷底にある不思議な飲み屋街でした。
池上通りを蒲田方面へ・・・線路の向う側に行きたいのです。脇に入った路地が緑一色、両側のお店?工場?同じ会社のものみたいで、従業員が行き来しやすいようテントのキャノピーを両方から出しちゃったみたい。
この路地の雰囲気はなかなかのものでした。
路地を抜けると・・・オッ、踏切を発見です。
踏切を渡ったら正面のお宅の2階窓に注目ですぞ。
この三兄弟だか三姉妹だか知りませんが、電車が通過するとクイッ、カラスが横切ってもクイッ・・・シンクロした動きが可愛くって暫く観察しておりました。やがて左の子が私に気付き硬直・・・このような状況に(笑)
踏切を渡った先は大森北4丁目・・・この界隈、大井三業地と同じく空襲の被害から逃れることができたようでして、古くからの住宅街の名残が僅かながら残っているとのこと。そこで見つけたスクラッチタイル貼りに縦長の上げ下げ窓が並んだ洋館。
詳細は不明ですが、築70年ほど、以前は司法書士事務所だったそうです。現在は手打蕎麦しのはらとのこと、ちょうど空腹ですのでと表のメニューを拝見・・・結構なお値段ですなあ・・・他をあたりますわ・・・。
近くにあるのが日本キリスト教会大森教会。折板構造の講堂は昭和34年(1959)竣工、設計は山口文象。
この界隈、食事できるところが無さそうですので、一旦大森駅方面に戻ります。駅の手前、線路沿いで見つけた飲み屋街。いい感じです。
よくよく見ましたら、『街』ではなく一棟の建物になっているみたい。所謂ソシアルビルの一種かと。
大森飲食街ビルというそうです。空きテナントが無さそう、今時珍しい状態ですよね。近くの洋食屋でメンチカツ定食・・・これがいまいち、さっきの蕎麦屋にしておけばよかった・・・。
昼食後、戻ってまいりました大森北4丁目。いきなり美しい洋館が現れましたよ。
青の洋瓦、出窓、軒天のアール、並んだ2軒とも全く同じ意匠というのが面白いですね。これでもかといった感じで棕櫚の木が乱立、異国情調満点のお宅です。
路地で見つけた昭和としか表現しようのないアパート。
入口の框戸のガラスが無い・・・中を覗いてみると、裸電球が一個・・・現役なのでしょうか。
所々にこういった石畳の袋小路が見受けられます。昔からの区画がそのまま残っているということだと思います。
こちらのお宅は半切妻屋根の和洋折衷、塀のせいで全体が分かりません。
路地裏は緑がいっぱい、いいなあこういうの。実はこの大森北4丁目を訪ねた理由がありまして、横須賀の安浦や四谷の荒木町でも見られたコンクリート製のレトロな街灯が此処にも残っているという情報を小耳に挟んだわけです。まあ、結局は見つからなかったのですがね。さて、そろそろ大井三業地跡に向かうと致しましょう。
再び駅前に戻ってまいりました。南口にそびえるのが大森ベルポート、ISUZUの本社が入っています。このタワーの南側、通りを挟んだ向こうが大井三業地跡になります。
マンションに挟まれて窮屈そう・・・『東京 花街・粋な街』にも載っていた遺構と思われる廃屋が残っておりました。料亭か或いは待合か・・・そんなことはどうでもよくなるぐらいの状態、崩壊寸前です。
右の門の奥を覗くとこんな状態・・・アパートでしょうか、不思議な造りになっています。
この門は奥にある茶道と華道の教室のものなのですが、アプローチの飛び石といい、もしかすると遺構の一つかも・・・考えすぎでしょうか。
現在はマンションですが、嘗てこの場所に大井三業地見番がありました。
近くにあった老舗っぽい蕎麦屋の布恒更科さん、後から知ったのですが結構有名なお店みたいです。
この界隈で最も遺構らしいのが入船さん、こう見えても洋食屋です。『東京 花街・粋な街』によりますと、嘗ては料亭だったとあるのですが・・・。
このお店、個室のお座敷でもいただけるんだそうですぞ。
外に飛び出した丸柱がモダンですねえ。たまたまなのか、この日はお休みでした。
ショーケースに飾られた嘗ての姿を撮影しておりますと、隣に人の気配・・・顔を上げると、可愛らしいお婆ちゃん。この近くにお住いなんだそうで、いろいろと教えてくださいました。往時から残っているのは、この入船さんとさきほどの布恒更科さんだけなんだそうです。此処(入船さん)は元料亭ですよね?と問うと、昔から洋食屋だったとのこと。帰ってから調べると、確かに大正13年(1924)創業とあります。でも、建物はどう見ても料亭だよなあ。あ、お婆ちゃんの話に戻りますが、三業地跡の東を走る第一京浜沿いにも料亭や置屋がズラリと並んでいたそうですが、全部マンションに変わってしまったとのこと。ちなみにこの並びあったのが一時期慰安施設に使われた料亭小町園になります。あまりにも詳しいので、もしかしたら元芸者さん?と尋ねると、「年寄りをからかうんじゃないよ」って怒られちゃった(笑)でも、このお婆ちゃん、ちゃきちゃきの江戸っ子風、若い頃はさぞかし・・・って雰囲気なのです。本人は否定しましたが、私の中では間違いなく元芸者さんということにさせていただきます。
入船さん裏手の光景、現在はアパートになっているようですが・・・特に手前の建物、これも遺構???
規模からいって元置屋さんでしょうか・・・先に見つけていればお婆ちゃんに聞けたのになあ。
近くで見つけたトリッキーな蔦、なぜか真っ先にブラックジャックが思い浮かんでしまったのですが・・・。
以上、元芸者さん!?に出会った・・・かもしれない大井三業地跡でした。お婆ちゃん、間違っていましたらご免なさい。
花街跡からISUZU本社を望みます。もの凄い対比ですな。
前回の蒲田から一駅戻ると大森、今回はJR大森駅と並行して走る京急の大森海岸駅に挟まれたところに存在した花街跡を訪ねます。名前を大井三業地といいます。すぐ近くに大森海岸三業地なんてものもありますが、それについてはまた別の機会にでも・・・。『東京 花街・粋な街』によりますと、平和島競艇場やしながわ水族館がある辺りが嘗ての海岸線だったそうで、そこが明治24年(1891)頃に海水浴場として整備されると、お手軽な行楽地として一気に賑わうことになります。それを目当てにした料亭などが次々と新規出店・・・これが花街形成の由来となったようです。昭和4年(1929)時点で芸妓置屋が42軒、芸妓の数は不明ですが200名はいたのではないかと推定されています。戦前までが大井三業地の最盛期だったそうで、戦争が始まると一時営業を停止しますが、幸いにも空襲の被害は軽微だったそうです。
戦争が終わり一安心、さあ再開だと思っていたところ、なんとこの花街、GHQからRAA(特殊慰安施設協会)の慰安施設に指定されてしまうのです。都内では向島・福生・調布・立川など25ヶ所に設置されたそうですが、これを性の防波堤として一般婦女子を守ろうとしたわけです。花街関係者にとってはまさに晴天の霹靂・・・一方の業者にとっては千載一遇のチャンスだったのでしょうけど。その施設に使われたのが料亭小町園、開店が終戦直後の8月27日だったそうですから、とんでもなく素早い対応ですよね。それだけ切羽詰っていたということなのかもしれません。そんな慰安施設も僅か半年後には性病蔓延で『off limits』の印が掲げられあえなく閉鎖・・・。不思議なのがこのRAAの慰安施設、ほとんどが同じ末路なんですよね。遊廓が性病蔓延で閉鎖なんて聞いたことありません。まあ、定期的に検査を受けていた娼妓とは違って、そんな暇も無いほどの悲惨な状況だったのでしょう。で、この施設で働いていた女性ですが、まさに用済みといった感じで何の保障も無いまま放り出されることになります。彼女達の行き着く先はパンパン・・・そして赤線、青線・・・酷い話ですよね。
そんなこんながありましたが、復活した大井三業地、戦後の最盛期は昭和30年代前半だったそうで35軒の料亭があったそうです。その後はゆっくりと衰退・・・昭和52年(1977)で12軒ですが、同56年(1981)には3軒に激減しています。そして、昭和60年代初めには終焉を迎えたということになっています。以上が大井三業地の概要になります・・・が、訪ねた後に知ったという毎度のパターンで申し訳ないのですが(笑)この花街、まだ終焉というわけではないみたい・・・現役の芸者さんが頑張っておられるそうです。3軒の置屋に約15名の芸者さんが活躍されているそうです。まあ、置屋といっても、隣に座って、お酌して、笑っていればいいコンパニオン派遣の類いだろと思われるかもしれませんが、正真正銘の芸ができる芸者さんですぞ。中には映画やCMに出ておられる姐さんもいて驚かされました。HPもありますので、興味のある方は探してみたら如何でしょう。
JR大森駅、大井三業地へは東口なのですが西口へ・・・改札を出ると線路と並行して走る池上通り(都道421号線)に出ます。目前には嘗ての海岸線と思われる崖が迫っています。これを登ればその先は山王、言わずと知れた高級住宅街。そちらに興味はありませんので、近くの階段を下りますよ。
階段を下りると飲み屋さんがいっぱい、山王小路飲食店街といいます。JRの線路と池上通りに挟まれた狭〜い一画にこんなところがあるなんて・・・面白いなあ。此処、池上通りから階段を下りないと辿り着けないのです。
真昼間だからでしょうか、あまり如何わしい雰囲気はありません。中にはこんなカフェー風のお店もあったりします。
お店のむこうは線路なんですよね。
もちろん帰りは登りです。呑み助にはちと辛いかも(笑)・・・以上、谷底にある不思議な飲み屋街でした。
池上通りを蒲田方面へ・・・線路の向う側に行きたいのです。脇に入った路地が緑一色、両側のお店?工場?同じ会社のものみたいで、従業員が行き来しやすいようテントのキャノピーを両方から出しちゃったみたい。
この路地の雰囲気はなかなかのものでした。
路地を抜けると・・・オッ、踏切を発見です。
踏切を渡ったら正面のお宅の2階窓に注目ですぞ。
この三兄弟だか三姉妹だか知りませんが、電車が通過するとクイッ、カラスが横切ってもクイッ・・・シンクロした動きが可愛くって暫く観察しておりました。やがて左の子が私に気付き硬直・・・このような状況に(笑)
踏切を渡った先は大森北4丁目・・・この界隈、大井三業地と同じく空襲の被害から逃れることができたようでして、古くからの住宅街の名残が僅かながら残っているとのこと。そこで見つけたスクラッチタイル貼りに縦長の上げ下げ窓が並んだ洋館。
詳細は不明ですが、築70年ほど、以前は司法書士事務所だったそうです。現在は手打蕎麦しのはらとのこと、ちょうど空腹ですのでと表のメニューを拝見・・・結構なお値段ですなあ・・・他をあたりますわ・・・。
近くにあるのが日本キリスト教会大森教会。折板構造の講堂は昭和34年(1959)竣工、設計は山口文象。
この界隈、食事できるところが無さそうですので、一旦大森駅方面に戻ります。駅の手前、線路沿いで見つけた飲み屋街。いい感じです。
よくよく見ましたら、『街』ではなく一棟の建物になっているみたい。所謂ソシアルビルの一種かと。
大森飲食街ビルというそうです。空きテナントが無さそう、今時珍しい状態ですよね。近くの洋食屋でメンチカツ定食・・・これがいまいち、さっきの蕎麦屋にしておけばよかった・・・。
昼食後、戻ってまいりました大森北4丁目。いきなり美しい洋館が現れましたよ。
青の洋瓦、出窓、軒天のアール、並んだ2軒とも全く同じ意匠というのが面白いですね。これでもかといった感じで棕櫚の木が乱立、異国情調満点のお宅です。
路地で見つけた昭和としか表現しようのないアパート。
入口の框戸のガラスが無い・・・中を覗いてみると、裸電球が一個・・・現役なのでしょうか。
所々にこういった石畳の袋小路が見受けられます。昔からの区画がそのまま残っているということだと思います。
こちらのお宅は半切妻屋根の和洋折衷、塀のせいで全体が分かりません。
路地裏は緑がいっぱい、いいなあこういうの。実はこの大森北4丁目を訪ねた理由がありまして、横須賀の安浦や四谷の荒木町でも見られたコンクリート製のレトロな街灯が此処にも残っているという情報を小耳に挟んだわけです。まあ、結局は見つからなかったのですがね。さて、そろそろ大井三業地跡に向かうと致しましょう。
再び駅前に戻ってまいりました。南口にそびえるのが大森ベルポート、ISUZUの本社が入っています。このタワーの南側、通りを挟んだ向こうが大井三業地跡になります。
マンションに挟まれて窮屈そう・・・『東京 花街・粋な街』にも載っていた遺構と思われる廃屋が残っておりました。料亭か或いは待合か・・・そんなことはどうでもよくなるぐらいの状態、崩壊寸前です。
右の門の奥を覗くとこんな状態・・・アパートでしょうか、不思議な造りになっています。
この門は奥にある茶道と華道の教室のものなのですが、アプローチの飛び石といい、もしかすると遺構の一つかも・・・考えすぎでしょうか。
現在はマンションですが、嘗てこの場所に大井三業地見番がありました。
近くにあった老舗っぽい蕎麦屋の布恒更科さん、後から知ったのですが結構有名なお店みたいです。
この界隈で最も遺構らしいのが入船さん、こう見えても洋食屋です。『東京 花街・粋な街』によりますと、嘗ては料亭だったとあるのですが・・・。
このお店、個室のお座敷でもいただけるんだそうですぞ。
外に飛び出した丸柱がモダンですねえ。たまたまなのか、この日はお休みでした。
ショーケースに飾られた嘗ての姿を撮影しておりますと、隣に人の気配・・・顔を上げると、可愛らしいお婆ちゃん。この近くにお住いなんだそうで、いろいろと教えてくださいました。往時から残っているのは、この入船さんとさきほどの布恒更科さんだけなんだそうです。此処(入船さん)は元料亭ですよね?と問うと、昔から洋食屋だったとのこと。帰ってから調べると、確かに大正13年(1924)創業とあります。でも、建物はどう見ても料亭だよなあ。あ、お婆ちゃんの話に戻りますが、三業地跡の東を走る第一京浜沿いにも料亭や置屋がズラリと並んでいたそうですが、全部マンションに変わってしまったとのこと。ちなみにこの並びあったのが一時期慰安施設に使われた料亭小町園になります。あまりにも詳しいので、もしかしたら元芸者さん?と尋ねると、「年寄りをからかうんじゃないよ」って怒られちゃった(笑)でも、このお婆ちゃん、ちゃきちゃきの江戸っ子風、若い頃はさぞかし・・・って雰囲気なのです。本人は否定しましたが、私の中では間違いなく元芸者さんということにさせていただきます。
入船さん裏手の光景、現在はアパートになっているようですが・・・特に手前の建物、これも遺構???
規模からいって元置屋さんでしょうか・・・先に見つけていればお婆ちゃんに聞けたのになあ。
近くで見つけたトリッキーな蔦、なぜか真っ先にブラックジャックが思い浮かんでしまったのですが・・・。
以上、元芸者さん!?に出会った・・・かもしれない大井三業地跡でした。お婆ちゃん、間違っていましたらご免なさい。