6年ぶりに再会した遊廓跡・消滅寸前の楽天地・謎のお風呂屋さんとバラック飲み屋群
造りはどう見てもあれですよね。
久しぶりにガッツリ休暇が取れましたので、以前から計画していた東北を巡って参りました。福島→山形→秋田の順で15の町を彷徨ってきたのですが、その印象を一言で表現すると・・・『ひたすら暑い』まあ、ある意味『熱い』でも間違ってはいないのですがね。ほら、普通思うじゃないですか、関東より多少は涼しいんじゃないかって・・・。直前の天気予報では、今夏の異常な猛暑もお盆過ぎれば何とかなんて言っていたはず、それがいつのまにかあと二週間に変わっており嫌な予感が・・・案の定、東京よりも気温が高い町があったりして終始ヘロヘロのグダグダの探索になってしまったわけです。ある町では生命の危機というのは大袈裟かもしれませんが、かなりヤバイ状態に陥ってしまうなど散々な目に遭ってしまうのですが、それ以外でもいろいろと愉しませていただきましたからあまり文句は言いませんよ。おそらくこの一連のレポで今年は終わってしまいそうですので、ごゆるりとお付き合いくださったら幸いです。文句は言わないと宣言したそばから何なのですが、帰ってきた途端気温が平年並みかよ・・・もう一週間ずらせば良かったかも・・・。
ギリギリまで仕事に追われ、得体の知れない何かから逃げるようにして(笑)最終の新幹線で郡山に入りボロホテル泊、翌日の磐越西線始発で向かったのは会津若松、2007年に訪れておりますので6年ぶりになりますね。果たして、降り立った会津若松駅はハンサムウーマンこと八重の桜一色・・・とはいえ、私見ていないんですよね。ここ数年、テレビというものから遠ざかっていますので・・・見るのはスカパーのサッカー中継とBSの水紀行や酒場紀行みたいなものばかり、ああいった光景に飢えているのかもしれません。そんなことはどうでもいいので、とりあえずは『全国遊廓案内』による昭和初期の会津若松の様子から始めましょう。
『若松市遊廓は福島県若松市見磐町に在つて、磐越西線若松駅で下車し駅から西南へ約十丁の処に在つて、タクシーは一台五十銭である。維新前迄は保科氏の城下で、明治戊辰の役には、全天下の敵を鶴ヶ城の一孤城に引受けて、悉く悲愴な最後を遂げた。戦ひは敗けても最後迄戦つた会津武士の魂が喜しい。白虎隊の飯盛山に於ける壮烈な最期は、明治維新史を飾る唯一の花でなければならない。町からは、会津塗、会津焼、蝋燭、人参、織物等が出来る。散娼制が集娼制に成つたのは、明治三十年頃で、現在は貸座敷が拾軒あつて、娼妓が約五十人居る・・・附近には鶴ヶ城址、飯盛山、東山温泉等がある。妓楼は山田楼、松風楼、菊勢楼、角八楼、常磐楼、新小松楼、吉田楼、泉楼、小和楼等がある』(文中では見磐町とありますが、磐見町が正しいと思われます)
どうやら八重の桜の中での戊辰戦争は終わってしまったようですが、それによって会津若松の町の大半は灰燼に帰してしまうわけです。それまでの町の様子は不明ですが、古地図で見るかぎりはかなりの規模の城下町です。遊女屋の類も間違いなく存在していたはずです。それら全ても焼けてしまったのでしょう。明治維新が達成され町の復興が始まると、大勢の人夫たちが集まってきます。当然、彼ら目当ての私娼みたいなものもあちこちに現れたはず・・・。町が落ち着きを取り戻すと風紀上の問題で彼女たちが問題になり『全国遊廓案内』にあるように、それらを一ヶ所に集めて形成されたのが磐見町遊廓ということになるのではないでしょうか。あくまでも私の想像ですので、間違っておりましたらご免なさい。
大正15年(1926)当時の会津若松の地図です。会津線鉄道というのは現在のJR只見線、線路と交差している通りは国道252号線、地元では七日町通りと呼ばれています。当時の目抜き通りだと思われます。現在、踏切近くには七日町駅があるのですが、駅が設置されたのは昭和9年(1934)ですので地図には描かれておりません。大きくカーブを描く線路の内側に磐見町遊廓とはっきり表記されています。位置的に言えば、当時の町外れということになるでしょうか、やはり悪所はこういった場所に追いやられてしまうのですね。現在も特徴的な区画がはっきり確認できる遊廓跡になります。とりあえず此処を訪ねた後、前回偶然発見した妖しげな一画を再訪してみることに致します。
註:前回のレポはコチラとコチラとコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
会津若松駅から只見線で一駅の七日町駅で下車。駅を出た途端、頭を殴られたような猛烈な日差し・・・これは浴びてはいけないものだ、先が思いやられますなあ。駅前にある阿弥陀寺さん、本堂脇に特徴的な三層楼があります。
御三階(ごさんかい)、明治3年(1870)にこちらに移築されましたが、元々は鶴ヶ城の一部でした。本丸北東の石垣の上に建っていたそうです。外観は三層ですが内部は四層、三階に上る梯子は上から降ろす仕組みになっており、密談などに使われたのではないかとされています。戊辰戦争で焼失してしまった鶴ヶ城の貴重な遺構ということになります。
境内には新撰組孤高の剣士、斉藤一の墓があります。隊士の中では数少ない生涯を全うした一人、謎の多い人物だったみたいですね。
遊廓跡手前の路地にある旅館やなぎ屋さんは健在、全く変わっていない姿にちょっとビックリ。
路地を抜けるといきなり視界がひろがります。見事なまでのメインストリートの出現です。
メインストリートの西端にあるのが、冒頭画像の建物。一応、荒木呉服店という看板が玄関に掲げられているのですが・・・どう見ても元はアレですよねえ・・・。
前回訪れた際は店先にまで洋服が並べられていたのですが、商売辞めちゃったのかなあ。
荒れ気味の庭には、ちょっと派手目な石灯籠が残っておりました。
裏の空き地にポツンと残る笠間稲荷神社、前回は物置同然で可哀想な状態だったのですが綺麗に整備されておりました。こちら、さきほどの荒木呉服店さんの屋敷社なんだそうで、商売繁盛を願って遊廓の娼妓たちも参拝していたそうです。傍らに並ぶ石碑には遊廓や貸座敷といった文字が数多く見受けられます。
メインストリートに戻りました。もう一軒の気になる物件がコチラ、ものすごい奥行き、玄関が二ヶ所ありますね。現在はアパートでしょうか。
粋な窓と高欄風手摺が気になりますが、かなり直されており遺構かどうかは微妙な感じ。
こちらも・・・全体のフォルムはまさにそれなんですけどね。架構(骨組)だけ残してリフォームしたのかもしれません。松の木の前には短い板塀が残っているのが妙に気になりました。
七日町通りに戻って東へ・・・ここからは近代建築巡り、たくさんありすぎて全部紹介できません、どうかご理解を。最初は池田種苗店さん、建てられた時期は不明ですが、おそらく昭和初期ぐらいかと思われます。レリーフと窓台の透かし彫りのモチーフはなぜか蕪、これが何ともいえずカワイイのですよ。
大正15年(1926)に建てられた旧塚原呉服店本店(バンダイスポーツ七日町店)、柱型が突き出したパラペット、頂部の銅製の装飾、レリーフ、目地のバランス、どれを取っても一級品の近代建築です。これを設計施工したのが一人の棟梁っていうんだから大したものです。あ、大工が手掛けていますからもちろん木造ですよ。
中でも出色なのが、このロゴ。センス良すぎでしょう。
脇道の光景、見世蔵が続いていました。じっくり探索できないのが残念です。
黒のモルタル欠き落とし風の外壁が珍しいのはレオ氏家南蛮館、元は洋品店だったみたいです。会津若松ゆかりの戦国武将、蒲生氏家の資料館です。なんでレオなんだろうと思いましたら、彼はキリシタンで洗礼名がレオンなんだそうです。窓の色ガラスはオリジナルではないみたい。
こちらはさきほどの塚原呉服店の2号店、昭和2年(1927)に建てられました。現在も洋品店として現役です。デパートメントストアに百貨店、往時はさぞかしハイカラだったことでしょう。ファサードの大部分がステンレス?の平葺きに変わっておりましたが、オリジナルの姿を見てみたいものです。
側面の文章が泣かせますなあ。
手前は大正2年(1912)に建てられた白木屋漆器店、奥は昭和4年(1929)に建てられた旧第四銀行会津支店。七日町通りを代表する町並みです。
窓台や軒に使われた連続する持ち送りというかブラケット風の装飾が面白いですね。目地が横のみですので非常にスマートに見える洋館です。寄棟屋根から覗くドーマー窓がカワイイ。これも棟梁による作品です。
裏側も手抜きなし、さすがです。あ、目地は無いか(笑)
奥の母屋?に抜ける通路、変な三角形の出っ張りがありますが、おそらく階段の裏側。これ、計算外だったんじゃないかな。
一方のギリシャ神殿風、イオニア式の柱列、エンタシスのついた柱のプロポーションがちょっとポッチャリ気味(笑)現在はゼネコンのオフィスになっています。
見上げると、此処は日本!?大袈裟でしょうか。
その先の変則交差点に建つのが旧郡山商業銀行若松支店、大正10年(1921)に建てられました。頂部のレリーフが見事です。煉瓦積みに見えますがタイル貼りです。現在はイタリアンのお店になっているようです。
交差点を右折・・・会津若松ゆかりの偉人にあやかって野口英世青春通りと呼ばれています。前方に黒漆喰の重厚な商家が見えてきました。
大正3年(1914)に建てられた福西本店、元々は綿問屋だったそうですが現在は会津地方の名品を扱った土産物屋になっているみたい。
奥にも土蔵がいっぱい、壮観ですなあ。
その先に黒の玉石塀に囲まれた面白い物件があります。
昭和10年(1935)に建てられた旧黒河内医院、寄棟にマンサードに入母屋、面白い組み合わせですね。でも、現在は使われていない様子・・・ご安心を、近くに新しい建物がありました。
向かいの路地に入ると、ドピンクのビルの先に円形の造作があるお宅が蔦に飲み込まれようとしておりました。実はこの先に面白そうな一画がありそうなのですよ。
なんと、いきなり大門が現れた・・・でも、潜った先には駐車場しかないのですが・・・。
本体は駐車場脇にありました。あるにはありましたが、このちんまりとした規模・・・立派な大門との落差が(笑)
現役なのでしょうか、見た感じ微妙です。
佇まいはかなりのものだと思うのですがね。
距離にして20mほど、あっというまに駐車場に抜けてしまいました。
以上、偶然発見した小さな小さな飲み屋横丁でした。
その1はここまで、その2ではこれまた前回偶然発見した楽天地というディープな飲み屋横丁を目指します。その変貌ぶりに驚かされました。それにしてもアッチー・・・。
造りはどう見てもあれですよね。
久しぶりにガッツリ休暇が取れましたので、以前から計画していた東北を巡って参りました。福島→山形→秋田の順で15の町を彷徨ってきたのですが、その印象を一言で表現すると・・・『ひたすら暑い』まあ、ある意味『熱い』でも間違ってはいないのですがね。ほら、普通思うじゃないですか、関東より多少は涼しいんじゃないかって・・・。直前の天気予報では、今夏の異常な猛暑もお盆過ぎれば何とかなんて言っていたはず、それがいつのまにかあと二週間に変わっており嫌な予感が・・・案の定、東京よりも気温が高い町があったりして終始ヘロヘロのグダグダの探索になってしまったわけです。ある町では生命の危機というのは大袈裟かもしれませんが、かなりヤバイ状態に陥ってしまうなど散々な目に遭ってしまうのですが、それ以外でもいろいろと愉しませていただきましたからあまり文句は言いませんよ。おそらくこの一連のレポで今年は終わってしまいそうですので、ごゆるりとお付き合いくださったら幸いです。文句は言わないと宣言したそばから何なのですが、帰ってきた途端気温が平年並みかよ・・・もう一週間ずらせば良かったかも・・・。
ギリギリまで仕事に追われ、得体の知れない何かから逃げるようにして(笑)最終の新幹線で郡山に入りボロホテル泊、翌日の磐越西線始発で向かったのは会津若松、2007年に訪れておりますので6年ぶりになりますね。果たして、降り立った会津若松駅はハンサムウーマンこと八重の桜一色・・・とはいえ、私見ていないんですよね。ここ数年、テレビというものから遠ざかっていますので・・・見るのはスカパーのサッカー中継とBSの水紀行や酒場紀行みたいなものばかり、ああいった光景に飢えているのかもしれません。そんなことはどうでもいいので、とりあえずは『全国遊廓案内』による昭和初期の会津若松の様子から始めましょう。
『若松市遊廓は福島県若松市見磐町に在つて、磐越西線若松駅で下車し駅から西南へ約十丁の処に在つて、タクシーは一台五十銭である。維新前迄は保科氏の城下で、明治戊辰の役には、全天下の敵を鶴ヶ城の一孤城に引受けて、悉く悲愴な最後を遂げた。戦ひは敗けても最後迄戦つた会津武士の魂が喜しい。白虎隊の飯盛山に於ける壮烈な最期は、明治維新史を飾る唯一の花でなければならない。町からは、会津塗、会津焼、蝋燭、人参、織物等が出来る。散娼制が集娼制に成つたのは、明治三十年頃で、現在は貸座敷が拾軒あつて、娼妓が約五十人居る・・・附近には鶴ヶ城址、飯盛山、東山温泉等がある。妓楼は山田楼、松風楼、菊勢楼、角八楼、常磐楼、新小松楼、吉田楼、泉楼、小和楼等がある』(文中では見磐町とありますが、磐見町が正しいと思われます)
どうやら八重の桜の中での戊辰戦争は終わってしまったようですが、それによって会津若松の町の大半は灰燼に帰してしまうわけです。それまでの町の様子は不明ですが、古地図で見るかぎりはかなりの規模の城下町です。遊女屋の類も間違いなく存在していたはずです。それら全ても焼けてしまったのでしょう。明治維新が達成され町の復興が始まると、大勢の人夫たちが集まってきます。当然、彼ら目当ての私娼みたいなものもあちこちに現れたはず・・・。町が落ち着きを取り戻すと風紀上の問題で彼女たちが問題になり『全国遊廓案内』にあるように、それらを一ヶ所に集めて形成されたのが磐見町遊廓ということになるのではないでしょうか。あくまでも私の想像ですので、間違っておりましたらご免なさい。
大正15年(1926)当時の会津若松の地図です。会津線鉄道というのは現在のJR只見線、線路と交差している通りは国道252号線、地元では七日町通りと呼ばれています。当時の目抜き通りだと思われます。現在、踏切近くには七日町駅があるのですが、駅が設置されたのは昭和9年(1934)ですので地図には描かれておりません。大きくカーブを描く線路の内側に磐見町遊廓とはっきり表記されています。位置的に言えば、当時の町外れということになるでしょうか、やはり悪所はこういった場所に追いやられてしまうのですね。現在も特徴的な区画がはっきり確認できる遊廓跡になります。とりあえず此処を訪ねた後、前回偶然発見した妖しげな一画を再訪してみることに致します。
註:前回のレポはコチラとコチラとコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
会津若松駅から只見線で一駅の七日町駅で下車。駅を出た途端、頭を殴られたような猛烈な日差し・・・これは浴びてはいけないものだ、先が思いやられますなあ。駅前にある阿弥陀寺さん、本堂脇に特徴的な三層楼があります。
御三階(ごさんかい)、明治3年(1870)にこちらに移築されましたが、元々は鶴ヶ城の一部でした。本丸北東の石垣の上に建っていたそうです。外観は三層ですが内部は四層、三階に上る梯子は上から降ろす仕組みになっており、密談などに使われたのではないかとされています。戊辰戦争で焼失してしまった鶴ヶ城の貴重な遺構ということになります。
境内には新撰組孤高の剣士、斉藤一の墓があります。隊士の中では数少ない生涯を全うした一人、謎の多い人物だったみたいですね。
遊廓跡手前の路地にある旅館やなぎ屋さんは健在、全く変わっていない姿にちょっとビックリ。
路地を抜けるといきなり視界がひろがります。見事なまでのメインストリートの出現です。
メインストリートの西端にあるのが、冒頭画像の建物。一応、荒木呉服店という看板が玄関に掲げられているのですが・・・どう見ても元はアレですよねえ・・・。
前回訪れた際は店先にまで洋服が並べられていたのですが、商売辞めちゃったのかなあ。
荒れ気味の庭には、ちょっと派手目な石灯籠が残っておりました。
裏の空き地にポツンと残る笠間稲荷神社、前回は物置同然で可哀想な状態だったのですが綺麗に整備されておりました。こちら、さきほどの荒木呉服店さんの屋敷社なんだそうで、商売繁盛を願って遊廓の娼妓たちも参拝していたそうです。傍らに並ぶ石碑には遊廓や貸座敷といった文字が数多く見受けられます。
メインストリートに戻りました。もう一軒の気になる物件がコチラ、ものすごい奥行き、玄関が二ヶ所ありますね。現在はアパートでしょうか。
粋な窓と高欄風手摺が気になりますが、かなり直されており遺構かどうかは微妙な感じ。
こちらも・・・全体のフォルムはまさにそれなんですけどね。架構(骨組)だけ残してリフォームしたのかもしれません。松の木の前には短い板塀が残っているのが妙に気になりました。
七日町通りに戻って東へ・・・ここからは近代建築巡り、たくさんありすぎて全部紹介できません、どうかご理解を。最初は池田種苗店さん、建てられた時期は不明ですが、おそらく昭和初期ぐらいかと思われます。レリーフと窓台の透かし彫りのモチーフはなぜか蕪、これが何ともいえずカワイイのですよ。
大正15年(1926)に建てられた旧塚原呉服店本店(バンダイスポーツ七日町店)、柱型が突き出したパラペット、頂部の銅製の装飾、レリーフ、目地のバランス、どれを取っても一級品の近代建築です。これを設計施工したのが一人の棟梁っていうんだから大したものです。あ、大工が手掛けていますからもちろん木造ですよ。
中でも出色なのが、このロゴ。センス良すぎでしょう。
脇道の光景、見世蔵が続いていました。じっくり探索できないのが残念です。
黒のモルタル欠き落とし風の外壁が珍しいのはレオ氏家南蛮館、元は洋品店だったみたいです。会津若松ゆかりの戦国武将、蒲生氏家の資料館です。なんでレオなんだろうと思いましたら、彼はキリシタンで洗礼名がレオンなんだそうです。窓の色ガラスはオリジナルではないみたい。
こちらはさきほどの塚原呉服店の2号店、昭和2年(1927)に建てられました。現在も洋品店として現役です。デパートメントストアに百貨店、往時はさぞかしハイカラだったことでしょう。ファサードの大部分がステンレス?の平葺きに変わっておりましたが、オリジナルの姿を見てみたいものです。
側面の文章が泣かせますなあ。
手前は大正2年(1912)に建てられた白木屋漆器店、奥は昭和4年(1929)に建てられた旧第四銀行会津支店。七日町通りを代表する町並みです。
窓台や軒に使われた連続する持ち送りというかブラケット風の装飾が面白いですね。目地が横のみですので非常にスマートに見える洋館です。寄棟屋根から覗くドーマー窓がカワイイ。これも棟梁による作品です。
裏側も手抜きなし、さすがです。あ、目地は無いか(笑)
奥の母屋?に抜ける通路、変な三角形の出っ張りがありますが、おそらく階段の裏側。これ、計算外だったんじゃないかな。
一方のギリシャ神殿風、イオニア式の柱列、エンタシスのついた柱のプロポーションがちょっとポッチャリ気味(笑)現在はゼネコンのオフィスになっています。
見上げると、此処は日本!?大袈裟でしょうか。
その先の変則交差点に建つのが旧郡山商業銀行若松支店、大正10年(1921)に建てられました。頂部のレリーフが見事です。煉瓦積みに見えますがタイル貼りです。現在はイタリアンのお店になっているようです。
交差点を右折・・・会津若松ゆかりの偉人にあやかって野口英世青春通りと呼ばれています。前方に黒漆喰の重厚な商家が見えてきました。
大正3年(1914)に建てられた福西本店、元々は綿問屋だったそうですが現在は会津地方の名品を扱った土産物屋になっているみたい。
奥にも土蔵がいっぱい、壮観ですなあ。
その先に黒の玉石塀に囲まれた面白い物件があります。
昭和10年(1935)に建てられた旧黒河内医院、寄棟にマンサードに入母屋、面白い組み合わせですね。でも、現在は使われていない様子・・・ご安心を、近くに新しい建物がありました。
向かいの路地に入ると、ドピンクのビルの先に円形の造作があるお宅が蔦に飲み込まれようとしておりました。実はこの先に面白そうな一画がありそうなのですよ。
なんと、いきなり大門が現れた・・・でも、潜った先には駐車場しかないのですが・・・。
本体は駐車場脇にありました。あるにはありましたが、このちんまりとした規模・・・立派な大門との落差が(笑)
現役なのでしょうか、見た感じ微妙です。
佇まいはかなりのものだと思うのですがね。
距離にして20mほど、あっというまに駐車場に抜けてしまいました。
以上、偶然発見した小さな小さな飲み屋横丁でした。
その1はここまで、その2ではこれまた前回偶然発見した楽天地というディープな飲み屋横丁を目指します。その変貌ぶりに驚かされました。それにしてもアッチー・・・。