最上川望む盲腸線終着駅・フォントがカワイイ洋品店・絵葉書の松?が残る遊廓跡
小さな神様の先が遊廓跡だとふんでいたのですがね・・・事実は違っていたようです。
二日目、山形編スタートです。まずは『左沢』から・・・いきなりですが、皆さんコレ読めますか???正解は『あてらざわ』、初見で読める人ってたぶんいないんじゃないでしょうか。左沢は山形市の北西、日本三大急流の一つである最上川の中流域、クネクネと蛇行する流れに削られた河岸段丘に町の中心があります。古くから最上川の上流と下流とを繋ぐ物流の要衝だったそうです。この町に乗り入れているのが北山形駅を基点としているJR左沢線、大好物の盲腸線であります。その終着駅が左沢、しかも嘗ては遊廓が存在していたとくれば、これは訪れないわけにはいきませんよね。
『東澤遊廓は山形県東置賜郡左澤町にあつて、鉄道に依る時は奥羽線赤澤駅で長井線に乗換へ、左澤駅で下車する。現在遊廓の貸座敷数は約四軒、娼妓は約十四五人居て、全部本県の女。店は写真制もあり陰店制もある。御定りは二円五十銭で一泊が出来、酒肴付である。本部屋は無い。当地は機業地帯なので、花街は相当繁昌して居る。』
以上は『全国遊廓案内』による遊廓の様子になりますが、下川耿史・林宏樹著『遊郭をみる』にもっと詳しい記述がありました。江戸時代から最上川の舟運で栄えてきた左沢でしたので、毎月多くの市が立っていました。特に賑わったのが8月25日から開かれた馬市、毎回60〜70軒もの屋台が軒を連ねていたそうです。その中にはバクチ屋や遊女屋なんてものが混じっていたそうですが、お上からは黙認状態だったとか・・・。この遊女屋が遊廓の始まりとされています。明治30年(1897)に町の45パーセントが焼失する大火が発生、これを期に元屋敷という場所に遊女屋を集めて形成されたのが上記の遊廓ということになります。幸いにも元屋敷という地名は現在も残っております。駅の東の外れ、最上川が大きくUの字を描きながらカーブする左岸辺りがそうみたいです。しかし、地図を見たかぎりでは遊廓特有の区画みたいなものは皆無・・・。残りの手がかりは『遊郭をみる』に掲載されていた絵葉書だけ、貸座敷と思われる家並みの背後に写る山・・・たぶん町を見おろす展望台がある楯山だと思うのですが、これと似たような光景を探してみましょうか。
あ、そうそう、この左沢ですが、今年の3月に国の『重要文化的景観』に選定されたそうです。通りに祝選定というノボリが出ていたので気付いたのですが、最初は拙ブログでお馴染の『重要伝統的建造物群保存地区』かと・・・というわりには、それに相応しい町並みが見当たらない(失礼)完全に混同しておりました。重伝建地区は町並みや建物限定というミニマムな範囲ですが、重要文化的景観は文化財保護法第二条第1項第五号の『人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの』という一文を根拠に選定されているのでもっともっと広範囲になります。今回の左沢の場合も正式名称は『最上川の流通・往来及び左沢町場の景観』ですので、最上川流域も含まれているのです。まあ、いずれにしろ山形県では初の選定ですので、これを売りにしてもっと観光客を誘致できたらいいですね。
高校生を満載して走り出した2両編成の左沢線始発列車、手前の寒河江で彼らが下車してしまうと車内には私を含めて4、5人・・・。寒河江にも遊廓があったようですが、どうもいまひとつピンとこなかったので今回は見送らせていただきました。楯山の下を貫くトンネルを抜けると、いきなり車窓に大きく蛇行する最上川が現れます。終点の左沢駅はすぐそこです。あれ?そういえば遊廓があったとされる元屋敷を通ってきたはずなのですが、それらしきものが全く見当たらなかったような・・・微かな不安を覚えながら歩き出しました。今日も刺すような陽射し・・・昨日の会津若松や喜多方より明らかに暑いんですけど(笑)北上しているのに、どうなってんのコレ???
町役場の向かいにある菊池写真館さん、以前のお店の一部が残されておりました。どんな建物だったのでしょうね。
脇道で見つけた土蔵が附属したお宅、欄間が独特ですなあ。
あ、円窓も発見です。
元町通り・・・おそらく町の目抜き通りかと。町並みというほどではありませんが、古い商家が続いておりました。二軒目の近代建築風、金融機関だったようなのですが、何処かに移転しちゃったのでしょうか。看板がのっぺらぼう。
キャノピーの照明にアシナガバチの巣、朝から元気に飛び回っていて接近不可能(笑)
原町で見つけた看板建築の洋品店、二階の装飾に目がいきがちですが、角にアールのついたガラスが嵌ったショーウィンドウがステキですねえ。でも、注目してほしいのは左に突き出した下屋部分・・・
構造上は効いていないと思われる細い鉄柱、小口にだけ貼られたモザイクタイル、レトロな框ドア、見事な構成美。問題はその上・・・
なにこの少女文字(笑)特に『品』の丸まり具合・・・カ、カワイイ。屋号が違うのはどうしてなんでしょうね。
その先の交差点を左折すると原町通り、往時の姿がいちばん感じられる通りだと思います。ほら、前方に豪壮なお屋敷が見えてきましたよ。
こりゃすごい!!脇の出っ張った雲か波みたいな装飾が面白いなあ。腰にはちょっと変わった質感の煉瓦が積まれています。こちら、嘗ては造り酒屋だったそうです。
見事な松に重厚な門、塀にも同じ煉瓦が使われています。瓦の色が独特だなあ。
向かいのお屋敷も立派なのですが・・・
庇が重すぎてへたっちゃってる・・・鉄柱で補強してありました。
町のランドマークともいえるのが旧最上橋、昭和15年(1940)に架橋されました。構造分類でいうと鉄筋コンクリート造3径間連続アーチ橋ということになるでしょうか。土木学界の推奨土木遺産に選定されている美しい橋です。バルコニー付きのレトロな欄干がステキなのですが、これちょっと低いような・・・かなりの高度感を味わえたのは私が高所恐怖症だから?(笑)鏡のように静かな川面、この辺り、急流で知られる最上川の中でも最も流れが緩やかな場所なんだそうです。
画面右から伸びているのが展望台がある楯山、河畔に入母屋の赤い屋根があるのがお分かりになりますでしょうか?その奥辺りが、遊廓があったとされる元屋敷、これからそちらに向かいます。何か発見できるといいのですが・・・。
○に塩、元問屋さんでしょうか。舟運で塩も運ばれていたはず、それの名残かもしれませんね。
その先に冒頭画像の小さな神様があります。駒竹稲荷大明神社です。奥に見える山並みが『遊郭をみる』の絵葉書のものとよく似ている・・・てっきりこの辺りが遊廓の入口かと思いこんでしまったわけです。ちなみにこの神様、遊廓との繋がりみたいな証拠は発見に至らず。
しかし、これぞ遺構といった物件はいっこうに見当たりません。此処じゃないのかなあ・・・。
そうこうしているうちに今度は小さな橋が・・・これはもしかすると思案橋!?その先にはあてらざわ温泉湯元旅館だと!?これはかなり期待しても良い状況なのでは・・・。
妄想はあっという間に砕け散りました。何も発見できず、最上川に出ちゃった・・・どうやら此処ではなかったようです。立派な石碑、川を行き来した船頭たちも口ずさんでいたのでしょうか。この最上川舟唄、大江町のHPによりますと、世界三大舟唄の一つなんだとか・・・誰が決めたんや・・・。
ちょっと頭を整理するために河畔に出ました。さきほど旧最上橋から見えた赤い入母屋屋根の正体は湯元旅館さんの宴会場?でした。跳ね出したテラスの下、流木が見えますが、旅に出る二週間ほど前、この地域を襲ったゲリラ豪雨で最上川が氾濫寸前・・・左沢線も一時運休するなどかなり心配する状況でした。大きな被害は無かったようですね。
これが旧最上橋。どうです、なかなかのものでしょ???穏やかな流れ・・・嘗ては荷物を満載した和船が行き来していたのでしょう。ちなみにちょっと上流に行きますと、有名なロケ地があります。雪景色の最上川、酒田の米問屋へ奉公に出される少女が乗った筏、それを見送るしかない母・・・そう、日本中、いや世界中を号泣させた『おしん』のあのシーンが撮られた場所です。
地図を眺めていて気付きました。さきほど辿ってきた通りと並行して走っている左沢線の向こう側・・・そっちにも気になる通りがあるのです。あ、此処の山並みほうが『遊郭をみる』の絵葉書に近いかも・・・。帰ってから気付いたのですが、左端の松に注目!!絵葉書にも似たような枝ぶりが写っているのですよ。植えたばかりみたいで細いですけどね。絵葉書の写真がいつ撮影されたのかは不明ですが、それが成長したと考えれば納得なのですが・・・。
もっと決定的だったのが左のお宅です。とあるブログで、背後の高台から最上川方向を写した写真を見つけたのですが、中庭を囲むように複雑な屋根が・・・明らかに普通のお宅の造りじゃない・・・。探索時は手前のガレージに騙されて素通りしてしまったわけ。写ってはいませんが、右側には左沢線の小高い築堤があります。行きの車内からは反対側の最上川沿いの光景ばかりに注目していて、こちら側に全く気付かなかった・・・。
ですから、この時点では怪しいと思いつつも決定的な証拠が見つけられず、半信半疑のままウロウロするだけ・・・。
もっと奥に入りますと、こんな塀に囲まれたお宅もあったりして、ますます混乱してしまうのです。
帰り道で出会った立派なお宅。一瞬、オオッとなりましたが、明らかに新しいですよね(笑)
お地蔵さんがある路地が駅への近道みたいです。
以上、曖昧なまま終わってしまった左沢の探索でした。気になる遊廓跡ですが、レポを書くにあたっていろいろ調べていましたら、こんなものが・・・。コレ、国交省の東北地方整備局山形河川国道事務所がまとめた資料みたいなのですが、地図にはっきりと『くるわ』と表記されています。最後に訪れた通りが遊廓跡で間違いないと思います。相変わらずの下調べの杜撰さを反省しつつ、自分の勘に自画自賛しているという複雑な心境です(笑)
歩行距離5キロほど、小さな町ですので2時間もあれば一通り巡れてしまいます。それでも早くもヘロヘロ、午前中だというのに駅舎に併設された町の交流施設でソフトクリームをペロペロ・・・ほんとこの暑さどうにかして!!と叫びたい私です。このまま左沢線で戻って、山形市を探索するのですが・・・あんなことになるなんて・・・。
小さな神様の先が遊廓跡だとふんでいたのですがね・・・事実は違っていたようです。
二日目、山形編スタートです。まずは『左沢』から・・・いきなりですが、皆さんコレ読めますか???正解は『あてらざわ』、初見で読める人ってたぶんいないんじゃないでしょうか。左沢は山形市の北西、日本三大急流の一つである最上川の中流域、クネクネと蛇行する流れに削られた河岸段丘に町の中心があります。古くから最上川の上流と下流とを繋ぐ物流の要衝だったそうです。この町に乗り入れているのが北山形駅を基点としているJR左沢線、大好物の盲腸線であります。その終着駅が左沢、しかも嘗ては遊廓が存在していたとくれば、これは訪れないわけにはいきませんよね。
『東澤遊廓は山形県東置賜郡左澤町にあつて、鉄道に依る時は奥羽線赤澤駅で長井線に乗換へ、左澤駅で下車する。現在遊廓の貸座敷数は約四軒、娼妓は約十四五人居て、全部本県の女。店は写真制もあり陰店制もある。御定りは二円五十銭で一泊が出来、酒肴付である。本部屋は無い。当地は機業地帯なので、花街は相当繁昌して居る。』
以上は『全国遊廓案内』による遊廓の様子になりますが、下川耿史・林宏樹著『遊郭をみる』にもっと詳しい記述がありました。江戸時代から最上川の舟運で栄えてきた左沢でしたので、毎月多くの市が立っていました。特に賑わったのが8月25日から開かれた馬市、毎回60〜70軒もの屋台が軒を連ねていたそうです。その中にはバクチ屋や遊女屋なんてものが混じっていたそうですが、お上からは黙認状態だったとか・・・。この遊女屋が遊廓の始まりとされています。明治30年(1897)に町の45パーセントが焼失する大火が発生、これを期に元屋敷という場所に遊女屋を集めて形成されたのが上記の遊廓ということになります。幸いにも元屋敷という地名は現在も残っております。駅の東の外れ、最上川が大きくUの字を描きながらカーブする左岸辺りがそうみたいです。しかし、地図を見たかぎりでは遊廓特有の区画みたいなものは皆無・・・。残りの手がかりは『遊郭をみる』に掲載されていた絵葉書だけ、貸座敷と思われる家並みの背後に写る山・・・たぶん町を見おろす展望台がある楯山だと思うのですが、これと似たような光景を探してみましょうか。
あ、そうそう、この左沢ですが、今年の3月に国の『重要文化的景観』に選定されたそうです。通りに祝選定というノボリが出ていたので気付いたのですが、最初は拙ブログでお馴染の『重要伝統的建造物群保存地区』かと・・・というわりには、それに相応しい町並みが見当たらない(失礼)完全に混同しておりました。重伝建地区は町並みや建物限定というミニマムな範囲ですが、重要文化的景観は文化財保護法第二条第1項第五号の『人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの』という一文を根拠に選定されているのでもっともっと広範囲になります。今回の左沢の場合も正式名称は『最上川の流通・往来及び左沢町場の景観』ですので、最上川流域も含まれているのです。まあ、いずれにしろ山形県では初の選定ですので、これを売りにしてもっと観光客を誘致できたらいいですね。
高校生を満載して走り出した2両編成の左沢線始発列車、手前の寒河江で彼らが下車してしまうと車内には私を含めて4、5人・・・。寒河江にも遊廓があったようですが、どうもいまひとつピンとこなかったので今回は見送らせていただきました。楯山の下を貫くトンネルを抜けると、いきなり車窓に大きく蛇行する最上川が現れます。終点の左沢駅はすぐそこです。あれ?そういえば遊廓があったとされる元屋敷を通ってきたはずなのですが、それらしきものが全く見当たらなかったような・・・微かな不安を覚えながら歩き出しました。今日も刺すような陽射し・・・昨日の会津若松や喜多方より明らかに暑いんですけど(笑)北上しているのに、どうなってんのコレ???
町役場の向かいにある菊池写真館さん、以前のお店の一部が残されておりました。どんな建物だったのでしょうね。
脇道で見つけた土蔵が附属したお宅、欄間が独特ですなあ。
あ、円窓も発見です。
元町通り・・・おそらく町の目抜き通りかと。町並みというほどではありませんが、古い商家が続いておりました。二軒目の近代建築風、金融機関だったようなのですが、何処かに移転しちゃったのでしょうか。看板がのっぺらぼう。
キャノピーの照明にアシナガバチの巣、朝から元気に飛び回っていて接近不可能(笑)
原町で見つけた看板建築の洋品店、二階の装飾に目がいきがちですが、角にアールのついたガラスが嵌ったショーウィンドウがステキですねえ。でも、注目してほしいのは左に突き出した下屋部分・・・
構造上は効いていないと思われる細い鉄柱、小口にだけ貼られたモザイクタイル、レトロな框ドア、見事な構成美。問題はその上・・・
なにこの少女文字(笑)特に『品』の丸まり具合・・・カ、カワイイ。屋号が違うのはどうしてなんでしょうね。
その先の交差点を左折すると原町通り、往時の姿がいちばん感じられる通りだと思います。ほら、前方に豪壮なお屋敷が見えてきましたよ。
こりゃすごい!!脇の出っ張った雲か波みたいな装飾が面白いなあ。腰にはちょっと変わった質感の煉瓦が積まれています。こちら、嘗ては造り酒屋だったそうです。
見事な松に重厚な門、塀にも同じ煉瓦が使われています。瓦の色が独特だなあ。
向かいのお屋敷も立派なのですが・・・
庇が重すぎてへたっちゃってる・・・鉄柱で補強してありました。
町のランドマークともいえるのが旧最上橋、昭和15年(1940)に架橋されました。構造分類でいうと鉄筋コンクリート造3径間連続アーチ橋ということになるでしょうか。土木学界の推奨土木遺産に選定されている美しい橋です。バルコニー付きのレトロな欄干がステキなのですが、これちょっと低いような・・・かなりの高度感を味わえたのは私が高所恐怖症だから?(笑)鏡のように静かな川面、この辺り、急流で知られる最上川の中でも最も流れが緩やかな場所なんだそうです。
画面右から伸びているのが展望台がある楯山、河畔に入母屋の赤い屋根があるのがお分かりになりますでしょうか?その奥辺りが、遊廓があったとされる元屋敷、これからそちらに向かいます。何か発見できるといいのですが・・・。
○に塩、元問屋さんでしょうか。舟運で塩も運ばれていたはず、それの名残かもしれませんね。
その先に冒頭画像の小さな神様があります。駒竹稲荷大明神社です。奥に見える山並みが『遊郭をみる』の絵葉書のものとよく似ている・・・てっきりこの辺りが遊廓の入口かと思いこんでしまったわけです。ちなみにこの神様、遊廓との繋がりみたいな証拠は発見に至らず。
しかし、これぞ遺構といった物件はいっこうに見当たりません。此処じゃないのかなあ・・・。
そうこうしているうちに今度は小さな橋が・・・これはもしかすると思案橋!?その先にはあてらざわ温泉湯元旅館だと!?これはかなり期待しても良い状況なのでは・・・。
妄想はあっという間に砕け散りました。何も発見できず、最上川に出ちゃった・・・どうやら此処ではなかったようです。立派な石碑、川を行き来した船頭たちも口ずさんでいたのでしょうか。この最上川舟唄、大江町のHPによりますと、世界三大舟唄の一つなんだとか・・・誰が決めたんや・・・。
ちょっと頭を整理するために河畔に出ました。さきほど旧最上橋から見えた赤い入母屋屋根の正体は湯元旅館さんの宴会場?でした。跳ね出したテラスの下、流木が見えますが、旅に出る二週間ほど前、この地域を襲ったゲリラ豪雨で最上川が氾濫寸前・・・左沢線も一時運休するなどかなり心配する状況でした。大きな被害は無かったようですね。
これが旧最上橋。どうです、なかなかのものでしょ???穏やかな流れ・・・嘗ては荷物を満載した和船が行き来していたのでしょう。ちなみにちょっと上流に行きますと、有名なロケ地があります。雪景色の最上川、酒田の米問屋へ奉公に出される少女が乗った筏、それを見送るしかない母・・・そう、日本中、いや世界中を号泣させた『おしん』のあのシーンが撮られた場所です。
地図を眺めていて気付きました。さきほど辿ってきた通りと並行して走っている左沢線の向こう側・・・そっちにも気になる通りがあるのです。あ、此処の山並みほうが『遊郭をみる』の絵葉書に近いかも・・・。帰ってから気付いたのですが、左端の松に注目!!絵葉書にも似たような枝ぶりが写っているのですよ。植えたばかりみたいで細いですけどね。絵葉書の写真がいつ撮影されたのかは不明ですが、それが成長したと考えれば納得なのですが・・・。
もっと決定的だったのが左のお宅です。とあるブログで、背後の高台から最上川方向を写した写真を見つけたのですが、中庭を囲むように複雑な屋根が・・・明らかに普通のお宅の造りじゃない・・・。探索時は手前のガレージに騙されて素通りしてしまったわけ。写ってはいませんが、右側には左沢線の小高い築堤があります。行きの車内からは反対側の最上川沿いの光景ばかりに注目していて、こちら側に全く気付かなかった・・・。
ですから、この時点では怪しいと思いつつも決定的な証拠が見つけられず、半信半疑のままウロウロするだけ・・・。
もっと奥に入りますと、こんな塀に囲まれたお宅もあったりして、ますます混乱してしまうのです。
帰り道で出会った立派なお宅。一瞬、オオッとなりましたが、明らかに新しいですよね(笑)
お地蔵さんがある路地が駅への近道みたいです。
以上、曖昧なまま終わってしまった左沢の探索でした。気になる遊廓跡ですが、レポを書くにあたっていろいろ調べていましたら、こんなものが・・・。コレ、国交省の東北地方整備局山形河川国道事務所がまとめた資料みたいなのですが、地図にはっきりと『くるわ』と表記されています。最後に訪れた通りが遊廓跡で間違いないと思います。相変わらずの下調べの杜撰さを反省しつつ、自分の勘に自画自賛しているという複雑な心境です(笑)
歩行距離5キロほど、小さな町ですので2時間もあれば一通り巡れてしまいます。それでも早くもヘロヘロ、午前中だというのに駅舎に併設された町の交流施設でソフトクリームをペロペロ・・・ほんとこの暑さどうにかして!!と叫びたい私です。このまま左沢線で戻って、山形市を探索するのですが・・・あんなことになるなんて・・・。