移転されなかった?遊廓・闇市起源のレトロ飲み屋街・急行とナース!?
こういった薄暗くて狭苦しい場所に潜り込むの大好きなんですよね。
ハイ、東北遊里跡巡礼の旅3日目でございます。昨日は山形市で大変な目に遭ってしまったわけですが、その後這うようにして何とかかんとか辿り着いたのが山形県北東部に位置する新庄市、この町も2006年に訪れております。厳密には再訪になるのですが、前回は列車の乗り継ぎ時間を利用して1時間ほどブラブラしただけでした。ちゃんと探索するのは今回が初めてということになりますね。ですので、あえて再訪編とはしておりません。どうかご理解くださいませ。
新庄は中世に築かれた鵜沼城こと新庄城の城下町ということになりますが、当時はもっと北に位置する真室川周辺が軍事的に重要な地域でした。そこから外れた新庄は小さな豪族や領主が群雄割拠する複雑な地だったようです。そのせいなのか分かりませんが、どうもいまいち掴みどころのない町なのです。主な名産は養蚕・製糸・木材とのことなのですが、これらは日本の地方都市全てに当て嵌まることだよなあ・・・。城下町のわりには趣のある町並みが残っているわけでもないし・・・あえて言うならば、新庄駅で奥の細道最上川ラインこと陸羽西線が分岐しますので交通の要衝ということになるでしょうか。まあ、とにかく特徴の乏しい町というのが第一印象でした。まるで足繁く通った北関東の町を見ているみたい・・・あ、一応断っておきますが、これは私的には誉め言葉ですぞ(笑)そんな町にも遊廓が存在しておりました。
『新庄遊廓は山形県最上郡新庄町字萬場町に在つて、萬場町遊廓とも云つてゐる。奥羽線新庄駅で下車して北へ約十二丁の処にある。乗合自動車の便があるから、萬場町停留場で下車すれば宜しい。名は遊廓と云ふ事には成つて居るが、事実上に於ては未だ国道に沿ふた宿場に成つて居る。遠からず完全な遊廓と成る事だらう。新庄は奥羽線と小牛田線との交叉駅で、奥羽地方に於ける交通の要路である。人口約三万、市政が施かれるのも必らず近い将来に在る事だらう。貸座敷は現在七軒あつて、娼妓は全部で二十八人居る・・・本場丈けに「おばこ節」も盛んであるが、里謡に新庄節と云ふのがある。「花の萬場町上れば下る。鉄のわらじもたまりやせぬ」「さばね山越え舟形越えて、逢ひに来たぞや萬場町に」妓楼は福寿楼、千年楼、常磐楼、立花楼、伊勢屋、松川楼、恵比良楼の七軒だ』
以上はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になります。幸い現在も万場町は存在しております。文中に国道に沿った宿場とありますが、たぶんこれは万場町を貫いている県道308号線(旧羽州街道)のことではないか・・・と旅に出る前はそう予想していたのですが、今回それを裏付ける証言を得ることができました。それを聞いたのは、とある飲み屋街の薄暗い居酒屋。この飲み屋街、前回偶然出くわしたのですが、その佇まいが昭和まる出しで素晴しいのなんのって・・・7年ぶりになりますが、何一つ変わっていないことに驚かされました。コレ系がお好きな方なら堪らん場所なんじゃないでしょうか。これも合わせてレポしていきますよ。
前日の猛暑から一転、夜半から降り出した激しい雨、明け方になってようやく小降りになりましたが依然としてシトシト・・・。今夏は全国でゲリラ豪雨が暴れ回りましたよね。この旅でも心配していたのですが、幸いなことに降られたのは新庄だけでした。
早朝の駅前、人っ子一人おりませぬ。駅前通りを進みますとアーケードの架かった通りにぶつかります。これが嘗ての羽州街道、右折しておそらく宿場だったと思われる通りを真っ直ぐ北へ・・・しばらく進みますと奇妙な建物が見えてきます。
大正5年(1916)に建てられた旧楯岡銀行、その後は質店として使われていたそうです。
たぶん屋根は後から乗せられたものだと思います。ウーム、それにしても何とも表現しようのない様式ですなあ。すぐ近くには遊廓の入口があるわけでして、此処に質草を預けて通いつめた男もいたりして・・・。
通りを挟んだ向かいにはレトロな旅館。三笑旅館さんです。
その先を右折すると万場町です。この通りも旧羽州街道、地元では万場町通りと呼ばれています。この通り沿いに妓楼が並んでいたそうです。『全国遊廓案内』にあるとおり、一廓を成していたわけではなく、宿場の家並みに混じっていたようです。遊女屋がそのまま残ったという感じでしょうか。風紀上の問題などから移転させられるのが通例ですから、全国的にみても珍しい遊里だと思います。
脇道に入りますと、この看板が見えてきます。
割烹つたやさん、明治24年(1891)創業とのことです。立派なお店ですが、遊廓との繋がりは如何に・・・。
万場町通りに戻りました。素っ気無い看板建築のお店、地図を見ますと竹本旅館とあります。すでに退役済みみたいです。
奥を覗きますとこんな状態・・・何となくですが、面影が残っているような気がしません???
その先、二軒の古い町屋が並んでいます。とりあえず手前は置いといて、奥の土蔵造りの店蔵は新庄信用金庫万場町支店。たぶん以前は何か別の商店だったのではないでしょうか。
問題は手前、切妻屋根妻入りの町屋、お隣の秋田県ではもっと豪壮なものを見ることができますが、この新庄辺りからチラホラ見かけるようになります。アールのついた破風が美しいですが、遺構ではないでしょうね。
あらら、通りを抜けたら川に出ちゃった・・・結局、これこそと断言できるような物件は発見には至りませんでした。あのお爺ちゃんの言ったとおり・・・あ、お爺ちゃんというのは、例の飲み屋街で万場町遊廓のことをお聞きした方のことね。先には何も無さそうですので裏道を辿って戻ります。
その裏道で出会った納豆屋さん、なんだか凄く旨そうなんですけど・・・。
立派な門柱はさきほどの竹本旅館さんのもの。
大幅に直されているようですが、入母屋の破風だけはオリジナルではないでしょうか。こうして見るとやっぱり怪しいぞ・・・。
それ以外収穫なし・・・お気付きでしょうか、今回の東北の旅、ここまで建物としての間違いなく遺構と断言できる物件には出会っていないんですよね。まあ、本人は大いに楽しんでおりますから・・・と言いたいところですが、本音を言っちゃうと、ちょっと物足りない(笑)
万場町通り入口に戻ってまいりました。近くにある市神社、こちら元々は『全国遊廓案内』にも載っている松川楼にあったのを移したものなんだそうです。一応遺構と言えるもの残っていましたね。
そのまま裏道を辿ります。何かの配管が跨いでいるのはキッコーセン醤油醸造さんのもの。前から思っていたのですが、醤油の蔵元ってキッコー○○という屋号のところ多いですよね。どうしてなんでしょう。
駅の手前にある若葉町に入りました。前方のビル、窓の形状と配置、色も合わせて物凄く気色悪い・・・。
水路際に建つお宅には・・・
粋な窓が穿たれておりました。組子障子がいいですなあ。
その先に異様を誇るのが例の飲み屋街、あけぼの町飲食店街であります。前回、これがいきなり現れたときは言葉を失いましたよ。目を引くのがなぜか『ぬけられない』大門、なんでも巷ではゲートと呼ばれているらしいですな(すっ呆け)コレ、たぶん許可が下りなかったんだと思います。一般的に道路上に建築物や工作物を建てる場合、確認申請の前に許可申請というものが必要になります。例えば高速道路の料金所やデパートの渡り廊下などになるでしょうか。まあ、それが下りなかったおかげでこの特異な光景が形成されたわけでして・・・いいのか悪いのか・・・もちろん私は好きですけどね。
そんな難しいことはどうでもいいですよね。昭和レトロな飲み屋街を堪能致しましょう。こんな三階建てがズラリと並んでいるんですもの。今時こんな電飾、まずお目にかかれないよなあ。残念ながらコチラ、夜になっても点灯しませんでした。
今回のドアマニア物件、ステキすぎる・・・。
夜来香さんもいいなあ・・・隣の曙町消防部に注目。自警団的な消防組織があったみたいですな。まあ、こんな状態ですから、一度火が出たらオシマイでしょうなあ。
トタン路地・・・こんなの見たら入らないわけにはいきませんがな。この先が冒頭画像の場所、袋小路の行き止まり、小さな広場になっていて共同の便所があります。大部分のお店にはトイレがないみたいです。
そういえば此処の成り立ちをお話していませんでしたね。起源は戦後の闇市にあるようです。空襲に備えて強制疎開させられた店主たちが戦後になって開いていた露店・・・昭和29年(1954)になると、道路占有などの問題から露店の撤去命令が出されます。その代替地とされたのが此処、当初は日用品や衣料品など生活必需品のお店も混じっていたようですが、いつしか飲み屋さんばかりに・・・。最初に思いませんでしたか???此処は『赤』なのか『青』なのかって・・・私もそうでした(笑)昭和29年ということは4年後には売防法が施行されてしまうわけ、そういった場所ではないということです。
そういった場所ではないと分かっていても、こういった光景を見てしまうと、いろいろと妄想してしまうわけ・・・。
素晴しい密集具合・・・見た感じ七割くらいのお店が現役と思われます。
またこんな路地を見つけてしまった・・・引き寄せられるようにしてフラフラと奥へ・・・。
ここも行き止まりの先に広場・・・トタンサイディングじゃなければなあと思うのは贅沢でしょうか。
突然ですが、ここでレポは前日に戻ります。山形市から熱中症寸前で駅前のホテルに辿り着いた私、シャワーを浴びて少し休んだらかなり回復してきた・・・ならば軽い精進落しを兼ねてちょっくら偵察に・・・げんきんなものですな。その前に腹ごしらえ、驚いたことにこの新庄、駅前に食事ができるようなお店が一切見当たらない。ようやく見つけたのが急行食堂・・・なぜに急行、特急じゃいかんのでしょうか。しかもお隣がナース倶楽部、所謂大人のサロンです。煌々と灯るピンクの照明の下、呼び込みのオッチャンが頑張っております。この珍妙な光景を見て気に入っちゃいました、新庄のこと(笑)
この急行食堂、実は結構有名なお店みたいです。新庄名物の一つとして鶏モツがあるのですが、それを使ったトリモツラーメンや激辛の地獄ラーメンがオススメとのこと。辛いのがダメな私は味噌味の天国ラーメン、優しい味ですが優しすぎてよく分からない・・・。家庭の手作りみたいな餃子は美味しかったですよ。
夜のあけぼの町飲食店街、街灯が少ないせいなのか日が落ちると辺りは真っ暗・・・そんな中、此処だけがまるで不夜城のように浮かび上がっておりました。
向かいでは山車の製作真っ最中、数日後に開催される新庄祭りに使われるものみたいです。この新庄祭り、250年ほどの歴史があるそうで、絢爛豪華な山車の行列は国の重文に指定されています。東北の夏祭りは熱いですよねえ。
ボケボケで申し訳ない。呑んだ後ですのでどうかお許しくだされ。今回悟りました『呑んだら撮るな、撮るなら呑むな』って・・・。
前述のお爺ちゃんと出会ったのがこの居酒屋。まあ、私が入店した時点でかなりできあがっておりましたし、独特の方言が会話の邪魔をするわけ(笑)暗号みたいな話を総合しますと、お爺ちゃんはこの新庄出身、でも産まれたのは戦争突入寸前なので遊廓のことはよく分からない。お爺ちゃんの父親の話によると、子供の頃はあそこ(万場町)に行ってはいけないと言われていた。戦後は旅館街になった、20年くらい前までは当時の建物が残っていたが、現在は何もない。此処(あけぼの町飲食店街)はそういう妖しいお店はなかったぞ(笑)私も結構早いピッチでしたので、かなり怪しい部分があるかもしれません。間違っていたらご免なさい。お爺ちゃん、聞いてもいないエロい話までいろいろとありがとうね(爆)
キャロルさん・・・マスターが魚の仲買人をしているそうで、新鮮な魚介類をやれ食えそれ食えと凄まじい大盛りで出してくれることで有名なんだそうです。しかも全品600円!?残念なことに一見さんは難しいみたい・・・というか独りで入るお店じゃないですな。あんな量一人じゃ無理だわ。
いつまでもこのままでいてほしい、まるで天然記念物みたいな飲み屋街でした。
歩行距離6キロほど・・・遊廓ウンヌンよりもレトロ飲み屋街の話に終始してしまった新庄の探索でした。でも、こういった系が好きな方なら必見の場所だとオススメしておきますぞ。陸羽西線に乗った私、今度は日本海側を目指します。次回は鶴岡、待望の建物としての遺構に遭遇です。
こういった薄暗くて狭苦しい場所に潜り込むの大好きなんですよね。
ハイ、東北遊里跡巡礼の旅3日目でございます。昨日は山形市で大変な目に遭ってしまったわけですが、その後這うようにして何とかかんとか辿り着いたのが山形県北東部に位置する新庄市、この町も2006年に訪れております。厳密には再訪になるのですが、前回は列車の乗り継ぎ時間を利用して1時間ほどブラブラしただけでした。ちゃんと探索するのは今回が初めてということになりますね。ですので、あえて再訪編とはしておりません。どうかご理解くださいませ。
新庄は中世に築かれた鵜沼城こと新庄城の城下町ということになりますが、当時はもっと北に位置する真室川周辺が軍事的に重要な地域でした。そこから外れた新庄は小さな豪族や領主が群雄割拠する複雑な地だったようです。そのせいなのか分かりませんが、どうもいまいち掴みどころのない町なのです。主な名産は養蚕・製糸・木材とのことなのですが、これらは日本の地方都市全てに当て嵌まることだよなあ・・・。城下町のわりには趣のある町並みが残っているわけでもないし・・・あえて言うならば、新庄駅で奥の細道最上川ラインこと陸羽西線が分岐しますので交通の要衝ということになるでしょうか。まあ、とにかく特徴の乏しい町というのが第一印象でした。まるで足繁く通った北関東の町を見ているみたい・・・あ、一応断っておきますが、これは私的には誉め言葉ですぞ(笑)そんな町にも遊廓が存在しておりました。
『新庄遊廓は山形県最上郡新庄町字萬場町に在つて、萬場町遊廓とも云つてゐる。奥羽線新庄駅で下車して北へ約十二丁の処にある。乗合自動車の便があるから、萬場町停留場で下車すれば宜しい。名は遊廓と云ふ事には成つて居るが、事実上に於ては未だ国道に沿ふた宿場に成つて居る。遠からず完全な遊廓と成る事だらう。新庄は奥羽線と小牛田線との交叉駅で、奥羽地方に於ける交通の要路である。人口約三万、市政が施かれるのも必らず近い将来に在る事だらう。貸座敷は現在七軒あつて、娼妓は全部で二十八人居る・・・本場丈けに「おばこ節」も盛んであるが、里謡に新庄節と云ふのがある。「花の萬場町上れば下る。鉄のわらじもたまりやせぬ」「さばね山越え舟形越えて、逢ひに来たぞや萬場町に」妓楼は福寿楼、千年楼、常磐楼、立花楼、伊勢屋、松川楼、恵比良楼の七軒だ』
以上はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になります。幸い現在も万場町は存在しております。文中に国道に沿った宿場とありますが、たぶんこれは万場町を貫いている県道308号線(旧羽州街道)のことではないか・・・と旅に出る前はそう予想していたのですが、今回それを裏付ける証言を得ることができました。それを聞いたのは、とある飲み屋街の薄暗い居酒屋。この飲み屋街、前回偶然出くわしたのですが、その佇まいが昭和まる出しで素晴しいのなんのって・・・7年ぶりになりますが、何一つ変わっていないことに驚かされました。コレ系がお好きな方なら堪らん場所なんじゃないでしょうか。これも合わせてレポしていきますよ。
前日の猛暑から一転、夜半から降り出した激しい雨、明け方になってようやく小降りになりましたが依然としてシトシト・・・。今夏は全国でゲリラ豪雨が暴れ回りましたよね。この旅でも心配していたのですが、幸いなことに降られたのは新庄だけでした。
早朝の駅前、人っ子一人おりませぬ。駅前通りを進みますとアーケードの架かった通りにぶつかります。これが嘗ての羽州街道、右折しておそらく宿場だったと思われる通りを真っ直ぐ北へ・・・しばらく進みますと奇妙な建物が見えてきます。
大正5年(1916)に建てられた旧楯岡銀行、その後は質店として使われていたそうです。
たぶん屋根は後から乗せられたものだと思います。ウーム、それにしても何とも表現しようのない様式ですなあ。すぐ近くには遊廓の入口があるわけでして、此処に質草を預けて通いつめた男もいたりして・・・。
通りを挟んだ向かいにはレトロな旅館。三笑旅館さんです。
その先を右折すると万場町です。この通りも旧羽州街道、地元では万場町通りと呼ばれています。この通り沿いに妓楼が並んでいたそうです。『全国遊廓案内』にあるとおり、一廓を成していたわけではなく、宿場の家並みに混じっていたようです。遊女屋がそのまま残ったという感じでしょうか。風紀上の問題などから移転させられるのが通例ですから、全国的にみても珍しい遊里だと思います。
脇道に入りますと、この看板が見えてきます。
割烹つたやさん、明治24年(1891)創業とのことです。立派なお店ですが、遊廓との繋がりは如何に・・・。
万場町通りに戻りました。素っ気無い看板建築のお店、地図を見ますと竹本旅館とあります。すでに退役済みみたいです。
奥を覗きますとこんな状態・・・何となくですが、面影が残っているような気がしません???
その先、二軒の古い町屋が並んでいます。とりあえず手前は置いといて、奥の土蔵造りの店蔵は新庄信用金庫万場町支店。たぶん以前は何か別の商店だったのではないでしょうか。
問題は手前、切妻屋根妻入りの町屋、お隣の秋田県ではもっと豪壮なものを見ることができますが、この新庄辺りからチラホラ見かけるようになります。アールのついた破風が美しいですが、遺構ではないでしょうね。
あらら、通りを抜けたら川に出ちゃった・・・結局、これこそと断言できるような物件は発見には至りませんでした。あのお爺ちゃんの言ったとおり・・・あ、お爺ちゃんというのは、例の飲み屋街で万場町遊廓のことをお聞きした方のことね。先には何も無さそうですので裏道を辿って戻ります。
その裏道で出会った納豆屋さん、なんだか凄く旨そうなんですけど・・・。
立派な門柱はさきほどの竹本旅館さんのもの。
大幅に直されているようですが、入母屋の破風だけはオリジナルではないでしょうか。こうして見るとやっぱり怪しいぞ・・・。
それ以外収穫なし・・・お気付きでしょうか、今回の東北の旅、ここまで建物としての間違いなく遺構と断言できる物件には出会っていないんですよね。まあ、本人は大いに楽しんでおりますから・・・と言いたいところですが、本音を言っちゃうと、ちょっと物足りない(笑)
万場町通り入口に戻ってまいりました。近くにある市神社、こちら元々は『全国遊廓案内』にも載っている松川楼にあったのを移したものなんだそうです。一応遺構と言えるもの残っていましたね。
そのまま裏道を辿ります。何かの配管が跨いでいるのはキッコーセン醤油醸造さんのもの。前から思っていたのですが、醤油の蔵元ってキッコー○○という屋号のところ多いですよね。どうしてなんでしょう。
駅の手前にある若葉町に入りました。前方のビル、窓の形状と配置、色も合わせて物凄く気色悪い・・・。
水路際に建つお宅には・・・
粋な窓が穿たれておりました。組子障子がいいですなあ。
その先に異様を誇るのが例の飲み屋街、あけぼの町飲食店街であります。前回、これがいきなり現れたときは言葉を失いましたよ。目を引くのがなぜか『ぬけられない』大門、なんでも巷ではゲートと呼ばれているらしいですな(すっ呆け)コレ、たぶん許可が下りなかったんだと思います。一般的に道路上に建築物や工作物を建てる場合、確認申請の前に許可申請というものが必要になります。例えば高速道路の料金所やデパートの渡り廊下などになるでしょうか。まあ、それが下りなかったおかげでこの特異な光景が形成されたわけでして・・・いいのか悪いのか・・・もちろん私は好きですけどね。
そんな難しいことはどうでもいいですよね。昭和レトロな飲み屋街を堪能致しましょう。こんな三階建てがズラリと並んでいるんですもの。今時こんな電飾、まずお目にかかれないよなあ。残念ながらコチラ、夜になっても点灯しませんでした。
今回のドアマニア物件、ステキすぎる・・・。
夜来香さんもいいなあ・・・隣の曙町消防部に注目。自警団的な消防組織があったみたいですな。まあ、こんな状態ですから、一度火が出たらオシマイでしょうなあ。
トタン路地・・・こんなの見たら入らないわけにはいきませんがな。この先が冒頭画像の場所、袋小路の行き止まり、小さな広場になっていて共同の便所があります。大部分のお店にはトイレがないみたいです。
そういえば此処の成り立ちをお話していませんでしたね。起源は戦後の闇市にあるようです。空襲に備えて強制疎開させられた店主たちが戦後になって開いていた露店・・・昭和29年(1954)になると、道路占有などの問題から露店の撤去命令が出されます。その代替地とされたのが此処、当初は日用品や衣料品など生活必需品のお店も混じっていたようですが、いつしか飲み屋さんばかりに・・・。最初に思いませんでしたか???此処は『赤』なのか『青』なのかって・・・私もそうでした(笑)昭和29年ということは4年後には売防法が施行されてしまうわけ、そういった場所ではないということです。
そういった場所ではないと分かっていても、こういった光景を見てしまうと、いろいろと妄想してしまうわけ・・・。
素晴しい密集具合・・・見た感じ七割くらいのお店が現役と思われます。
またこんな路地を見つけてしまった・・・引き寄せられるようにしてフラフラと奥へ・・・。
ここも行き止まりの先に広場・・・トタンサイディングじゃなければなあと思うのは贅沢でしょうか。
突然ですが、ここでレポは前日に戻ります。山形市から熱中症寸前で駅前のホテルに辿り着いた私、シャワーを浴びて少し休んだらかなり回復してきた・・・ならば軽い精進落しを兼ねてちょっくら偵察に・・・げんきんなものですな。その前に腹ごしらえ、驚いたことにこの新庄、駅前に食事ができるようなお店が一切見当たらない。ようやく見つけたのが急行食堂・・・なぜに急行、特急じゃいかんのでしょうか。しかもお隣がナース倶楽部、所謂大人のサロンです。煌々と灯るピンクの照明の下、呼び込みのオッチャンが頑張っております。この珍妙な光景を見て気に入っちゃいました、新庄のこと(笑)
この急行食堂、実は結構有名なお店みたいです。新庄名物の一つとして鶏モツがあるのですが、それを使ったトリモツラーメンや激辛の地獄ラーメンがオススメとのこと。辛いのがダメな私は味噌味の天国ラーメン、優しい味ですが優しすぎてよく分からない・・・。家庭の手作りみたいな餃子は美味しかったですよ。
夜のあけぼの町飲食店街、街灯が少ないせいなのか日が落ちると辺りは真っ暗・・・そんな中、此処だけがまるで不夜城のように浮かび上がっておりました。
向かいでは山車の製作真っ最中、数日後に開催される新庄祭りに使われるものみたいです。この新庄祭り、250年ほどの歴史があるそうで、絢爛豪華な山車の行列は国の重文に指定されています。東北の夏祭りは熱いですよねえ。
ボケボケで申し訳ない。呑んだ後ですのでどうかお許しくだされ。今回悟りました『呑んだら撮るな、撮るなら呑むな』って・・・。
前述のお爺ちゃんと出会ったのがこの居酒屋。まあ、私が入店した時点でかなりできあがっておりましたし、独特の方言が会話の邪魔をするわけ(笑)暗号みたいな話を総合しますと、お爺ちゃんはこの新庄出身、でも産まれたのは戦争突入寸前なので遊廓のことはよく分からない。お爺ちゃんの父親の話によると、子供の頃はあそこ(万場町)に行ってはいけないと言われていた。戦後は旅館街になった、20年くらい前までは当時の建物が残っていたが、現在は何もない。此処(あけぼの町飲食店街)はそういう妖しいお店はなかったぞ(笑)私も結構早いピッチでしたので、かなり怪しい部分があるかもしれません。間違っていたらご免なさい。お爺ちゃん、聞いてもいないエロい話までいろいろとありがとうね(爆)
キャロルさん・・・マスターが魚の仲買人をしているそうで、新鮮な魚介類をやれ食えそれ食えと凄まじい大盛りで出してくれることで有名なんだそうです。しかも全品600円!?残念なことに一見さんは難しいみたい・・・というか独りで入るお店じゃないですな。あんな量一人じゃ無理だわ。
いつまでもこのままでいてほしい、まるで天然記念物みたいな飲み屋街でした。
歩行距離6キロほど・・・遊廓ウンヌンよりもレトロ飲み屋街の話に終始してしまった新庄の探索でした。でも、こういった系が好きな方なら必見の場所だとオススメしておきますぞ。陸羽西線に乗った私、今度は日本海側を目指します。次回は鶴岡、待望の建物としての遺構に遭遇です。