林の中にあった色街・溶岩塀と謎欄干手摺・消え失せた横丁建築
林の痕跡は見つかりませんでした。林立する看板がその面影ということにしておきましょう。
東北遊里跡巡礼の旅はちょっとお休みさせていただくとして、今回は東京に存在したマイナーな遊里を幾つか紹介したいと思います。まあ、こういったものにメジャーもマイナーもないと思うのですが・・・。JR中央本線が東西を貫くこのエリア、都内でも指折りのベッドタウンですよね。なぜか知り合いも結構住んでいるわけでして、やっぱり武蔵野の面影が残る自然豊かな環境が子育てにも適しているということなのでしょうか。そんなファミリーが行き来する町にも嘗て遊里がありました。名前を『三鷹八丁特飲街』とか『武蔵八丁特飲街』と呼ばれていたそうです。三鷹なのか武蔵野なのかはっきりしてほしいところですが(笑)実際、三鷹駅は武蔵野市と三鷹市の境界にあるわけでして、北口を出ると武蔵野市、南口を出ると三鷹市なのです。恥ずかしながら今回初めて知った事実なんですけど・・・。
上村敏彦著『花街・色街・艶な街 色街編』によりますと、それがあったのは三鷹駅北口を出て徒歩5分ほどの中町二丁目、北口ですので武蔵野市ということになりますね。昭和25年(1950)、その一画約160坪を買い取ったのは洲崎、新宿、八王子でその手の商いをしていた業者でした。当時は各地でこういった新興の色街が出現していた頃で、戦争で負けてから形成されたということから、俗に『ポツダム特飲街』と呼ばれたそうです。歴史のある遊廓とは違うわけです。所謂青線の一種として問題ないと思われます。業者はそこに8軒の木造のお店を建てて商売を始めます。どのお店にも5、6人の女性が住み込みで働いていたそうですので、総計40人ほどになりますか・・・これには別の説がありまして、後述するある文献には14軒と記されております。八丁通りに面した二階建ての見番以外は全て平屋建てだったそうです。そういえば近くの立川市の赤線も平屋のお店が主だったそうですからこのエリアの流行りだったのでしょうか。ちょっと気になったのが見番の存在、特飲街に見番って必要なのでしょうか。
興味をひいたのはその環境、なんと林の中にあったというのです。武蔵野らしいといえばそれまでなんですけど、かなり珍しい色街だったのではないでしょうか。ちなみに戦後直後の昭和21年(1946)に米軍が撮影した航空写真を確認してみますと・・・オオッ、今回訪れた場所辺りに木々らしきものが結構広範囲に散らばっているっぽい・・・本当だったみたいです。でも、こんなものがいきなり出現されたら近隣の住人は堪りません。まさに青天の霹靂ですよね。その結果、婦人団体やPTAが中心になって大規模な撤廃運動が繰り広げられることになります。このことは武蔵野市の年表にも『昭和25年 八丁特飲街の撤去運動起きる』と記されております。こういったことって役所からすれば黒歴史ではないかと思うのですが・・・武蔵野市の英断、私は評価致しますぞ(笑)撤廃運動は起きましたが、たぶん業者たちはのらりくらりと追及をかわしていたのでしょう。しかし、数年後には売防法が成立してしまうわけです。そりゃ国の法律には勝てませんがな・・・売防法の施行前の昭和32年(1958)12月に廃業宣言して忽然と消えてしまうのでした。この色街、言ってみれば戦後のドサクサの中で咲いた徒花みたいなものだったのでしょうね。
三鷹駅北口を出て右折、少し進みますと見えてくるのがちょっと面白い造りのこのお店。どうやらお寿司屋さんだったみたい。この交差点を左折します。
すぐにコチラが現れます。たぶんお隣の建物が壊された結果、見られたくない恥ずかしい部分が露わになってしまったのでしょう。
洋瓦一枚分の小庇が気になりますが、どう見ても平屋じゃありませんよね。
その先、行き止まりの路地に沿って飲み屋さんが並んでいます。此処が冒頭画像の場所。
爽やかな秋晴れのせいでしょうか、あまり如何わしい雰囲気はありませんな。
どん詰まりの様子、こういう場所って落ち着くわ〜。
『花街・色街・艶な街 色街編』に当時のお店の屋号が載っておりましたので照らし合わせてみましたが・・・無駄足でした・・・。
この路地、途中で北側を並行する通りに『ぬけられます』
その通りが前書きにもある八丁通り。珍しい塀に注目、コレ溶岩を積み上げて石垣風に見せているんだと思います。塀の先に見えるお宅にも注目ですぞ。
橋の欄干みたいな不思議な手摺ですなあ。コチラ、巷では旧見番ではないか囁かれているとか、いないとか・・・。それが正しいとなりますと、八丁通りを挟んで向かい合うさきほどの路地の飲み屋さん辺りが嘗ての特飲街ということになるわけです。それにしても特飲街の見番というのがどうもしっくりこない・・・どんな役割だったのでしょうね。
旧見番?の裏手にある長屋風の建物、腰に定番の鉄平石です。たぶんコチラも飲み屋さんだったのでしょう。
色褪せていますが、以前はべんがら色だったのかもしれません。でも、二階建て・・・。
反対側には既に現役ではなさそうですが、こんな床屋さんが残っています。コチラは平屋・・・気になりますが、決定的な証拠の発見には至らず残念です。
近くの裏通りで見つけたお宅、まあ平屋だからという理由だけなんですけど(笑)
以上が瞬く間に消え失せた特飲街跡の探索になりますが、余りにもミニレポすぎますので続きがございます。
つい先日、たまたまですが、仕事の打合せで三鷹市に行く機会があったわけです。そういえば駅の南側ってどうなっているんだろう・・・何気なくストリートビューを眺めておりますと、見つけちゃったのですよ。大好物の横丁建築を・・・。
くどいようですが、南口を出ましたので今回は三鷹市ということになります。南口にはビルばかり・・・。
そんなビルの中、埋もれるようにしてこんなバラック造の飲み屋さんがポツンと残っておりました。
目的の横丁建築ですが・・・マンションの建設真っ最中・・・嗚呼、遅かった・・・。
東京だから仕方ないと諦めもつくのですが、特に今年は地方都市でもこういった状況に遭うこと多いんだよなあ・・・。
もっと南に行ったところで見つけた崩壊寸前のトンガリハウス、これはいい!!
今は誰も住んでいないみたい・・・。
その先に椅子専門の製作所、これは渋いなあ。張替・修理とありますが、新しいのは作っていないのかなあ。
羽目板張りのお宅もありました。いい草臥れ具合です。
こんな横丁も見つけましたよ。行き止まりではなく、奥で曲がっていて別の通りに出られます。
雰囲気は微妙でした。それでは、打合せに向かいます。仕事前だったのかよ!!
ウーム、これでもまだ物足りないとお嘆きの貴兄に朗報がございます。それが前書きにもある『ある文献』です。以前、遊里読本のカテゴリーで『カストリ雑誌に於ける遊里』なるものを紹介しました。それと同じ『読切ロマンス 1953年10月号』に三鷹八丁特飲街の様子が載っていましたので、それをそのまま載せちゃいます。私の下手糞な文章なんかより、よ〜く雰囲気が伝わってくると思いますが、所詮はカストリ雑誌です。眉唾で読んでいただいたほうが賢明ですぞ。
註)以下の文章ですが、かなりドギツイ表現、人権的に問題がありそうな部分があります。そういったのが苦手な方はお読みにならないほうが宜しいかと思います。
三 鷹
『女は男を慰めるものヨ』
中央線三鷹駅前には、武蔵野詩人の国木田独歩の碑がある。独歩によつて描かれた武蔵野の面影は、戦後になつて、つぎからつぎへと失われつつある。
自然公園井之頭も、文人墨客の足は絶えて、恋を語るアベック連れの密会の地となり、附近には温泉マークのついた旅館と、ジャズと嬌笑に明ける飲食店がめつきり増えてきた。
三鷹駅を降りて、電車の進んできた方向に逆行し、はじめての踏切を越え賑やかな商店街を抜けると、前方にこんもりした林が見える。
麦畑にひらく武蔵野には、けつして珍しくない森であり、林だが、この林だけはチョイトほかの林とちがうのである。
何故ならば、緑樹に囲まれていながら林の中を、世の人は赤線地帯と呼んでいるからだ。
三鷹八丁特飲街十四軒の店と、五十人の春婦が、生い茂る籬境に、幽遠の地武蔵野と、はつきり一線を画してどろどろの愛欲の褥に、肉体の門を惜しみなく与える桃源境なのである。
嘗て、池上特飲街が問題となり、ついに握り潰しになつたように、いま地元では、市の教育委員、小学校のPTA連中が、この赤線地帯撤廃の狼煙をあげている。しかし世論は、池上問題のとくほど、この三鷹八丁特飲街に深い関心を示していないようである。一部市議の間では、特飲街存続は、土地の繁栄上必要欠くべからざるものであると、堂々公言する者もあると云う。
何れにせよ、赤ならぬ緑の籬のなかには、夜空を染めるボンボリの灯も艶かしく、若い男女の愉しげな笑いが、夜の更けるも知らず疼くような欲情にのたうち、渦を巻いているのである。
平屋建の店ばかりだが、なかには小粋な垣を囲らせたものもあり、たいしたこともあるまいと、店に入つてみると、喫茶室から奥まで廊下がつづき、その両側に部屋が並んでいる。ドアをあけると、箪笥や鏡台まで揃つていて何と云うことはない。アパート住いの新婚夫婦の部屋と云った感じ。
そこがめいめいに女達の部屋となつていて、そこではじめて靴を脱いで、座敷に上るわけだ。
ここの女の特色は、丸の内や有楽町界隅の、オフィス・ガールに、ちょっと凝つた服を着させ、こつてりと化粧をほどこし、素人に色つぽさをふりかけたという、都会的な、明るい女が圧倒的に多い。
会社の女事務員に目をつけて、何とかして温泉へでも連れ出そうと云う、よからぬ野心が出たときには、そんな罪なことは止めて、三鷹八丁へ出張遊ばすことである。必らずや、会社の女事務員そつくりの女が、一人や、二人は居る筈である。(もつとも、ヨルバイトの女事務員もあるそうな)
三度通つて、四回目なら、千円でOK泊めてくれるという。肥料臭い武蔵野だが、この籬の囲いの中だけは、モダンで明るい、熟れるような女の匂いが、ぷんぷん漂つている。
「教育上よろしくないのはわかるけど人間の性欲の緩衝地帯の役目を果しているこの土地を、何でもかんでも潰そうと力んでいる男達て、きつとチャタレー夫人の旦那様みたいな男ね」
T店の女の子が、われわれに笑つて言つた。
自らを、男性の性の緩衝地帯と呼ぶ彼女達の知性には、近頃流行の男女同権思想はないのかモダンに装つている女にも、旧い型の表現がしみこんでいる三鷹の街である。
林の痕跡は見つかりませんでした。林立する看板がその面影ということにしておきましょう。
東北遊里跡巡礼の旅はちょっとお休みさせていただくとして、今回は東京に存在したマイナーな遊里を幾つか紹介したいと思います。まあ、こういったものにメジャーもマイナーもないと思うのですが・・・。JR中央本線が東西を貫くこのエリア、都内でも指折りのベッドタウンですよね。なぜか知り合いも結構住んでいるわけでして、やっぱり武蔵野の面影が残る自然豊かな環境が子育てにも適しているということなのでしょうか。そんなファミリーが行き来する町にも嘗て遊里がありました。名前を『三鷹八丁特飲街』とか『武蔵八丁特飲街』と呼ばれていたそうです。三鷹なのか武蔵野なのかはっきりしてほしいところですが(笑)実際、三鷹駅は武蔵野市と三鷹市の境界にあるわけでして、北口を出ると武蔵野市、南口を出ると三鷹市なのです。恥ずかしながら今回初めて知った事実なんですけど・・・。
上村敏彦著『花街・色街・艶な街 色街編』によりますと、それがあったのは三鷹駅北口を出て徒歩5分ほどの中町二丁目、北口ですので武蔵野市ということになりますね。昭和25年(1950)、その一画約160坪を買い取ったのは洲崎、新宿、八王子でその手の商いをしていた業者でした。当時は各地でこういった新興の色街が出現していた頃で、戦争で負けてから形成されたということから、俗に『ポツダム特飲街』と呼ばれたそうです。歴史のある遊廓とは違うわけです。所謂青線の一種として問題ないと思われます。業者はそこに8軒の木造のお店を建てて商売を始めます。どのお店にも5、6人の女性が住み込みで働いていたそうですので、総計40人ほどになりますか・・・これには別の説がありまして、後述するある文献には14軒と記されております。八丁通りに面した二階建ての見番以外は全て平屋建てだったそうです。そういえば近くの立川市の赤線も平屋のお店が主だったそうですからこのエリアの流行りだったのでしょうか。ちょっと気になったのが見番の存在、特飲街に見番って必要なのでしょうか。
興味をひいたのはその環境、なんと林の中にあったというのです。武蔵野らしいといえばそれまでなんですけど、かなり珍しい色街だったのではないでしょうか。ちなみに戦後直後の昭和21年(1946)に米軍が撮影した航空写真を確認してみますと・・・オオッ、今回訪れた場所辺りに木々らしきものが結構広範囲に散らばっているっぽい・・・本当だったみたいです。でも、こんなものがいきなり出現されたら近隣の住人は堪りません。まさに青天の霹靂ですよね。その結果、婦人団体やPTAが中心になって大規模な撤廃運動が繰り広げられることになります。このことは武蔵野市の年表にも『昭和25年 八丁特飲街の撤去運動起きる』と記されております。こういったことって役所からすれば黒歴史ではないかと思うのですが・・・武蔵野市の英断、私は評価致しますぞ(笑)撤廃運動は起きましたが、たぶん業者たちはのらりくらりと追及をかわしていたのでしょう。しかし、数年後には売防法が成立してしまうわけです。そりゃ国の法律には勝てませんがな・・・売防法の施行前の昭和32年(1958)12月に廃業宣言して忽然と消えてしまうのでした。この色街、言ってみれば戦後のドサクサの中で咲いた徒花みたいなものだったのでしょうね。
三鷹駅北口を出て右折、少し進みますと見えてくるのがちょっと面白い造りのこのお店。どうやらお寿司屋さんだったみたい。この交差点を左折します。
すぐにコチラが現れます。たぶんお隣の建物が壊された結果、見られたくない恥ずかしい部分が露わになってしまったのでしょう。
洋瓦一枚分の小庇が気になりますが、どう見ても平屋じゃありませんよね。
その先、行き止まりの路地に沿って飲み屋さんが並んでいます。此処が冒頭画像の場所。
爽やかな秋晴れのせいでしょうか、あまり如何わしい雰囲気はありませんな。
どん詰まりの様子、こういう場所って落ち着くわ〜。
『花街・色街・艶な街 色街編』に当時のお店の屋号が載っておりましたので照らし合わせてみましたが・・・無駄足でした・・・。
この路地、途中で北側を並行する通りに『ぬけられます』
その通りが前書きにもある八丁通り。珍しい塀に注目、コレ溶岩を積み上げて石垣風に見せているんだと思います。塀の先に見えるお宅にも注目ですぞ。
橋の欄干みたいな不思議な手摺ですなあ。コチラ、巷では旧見番ではないか囁かれているとか、いないとか・・・。それが正しいとなりますと、八丁通りを挟んで向かい合うさきほどの路地の飲み屋さん辺りが嘗ての特飲街ということになるわけです。それにしても特飲街の見番というのがどうもしっくりこない・・・どんな役割だったのでしょうね。
旧見番?の裏手にある長屋風の建物、腰に定番の鉄平石です。たぶんコチラも飲み屋さんだったのでしょう。
色褪せていますが、以前はべんがら色だったのかもしれません。でも、二階建て・・・。
反対側には既に現役ではなさそうですが、こんな床屋さんが残っています。コチラは平屋・・・気になりますが、決定的な証拠の発見には至らず残念です。
近くの裏通りで見つけたお宅、まあ平屋だからという理由だけなんですけど(笑)
以上が瞬く間に消え失せた特飲街跡の探索になりますが、余りにもミニレポすぎますので続きがございます。
つい先日、たまたまですが、仕事の打合せで三鷹市に行く機会があったわけです。そういえば駅の南側ってどうなっているんだろう・・・何気なくストリートビューを眺めておりますと、見つけちゃったのですよ。大好物の横丁建築を・・・。
くどいようですが、南口を出ましたので今回は三鷹市ということになります。南口にはビルばかり・・・。
そんなビルの中、埋もれるようにしてこんなバラック造の飲み屋さんがポツンと残っておりました。
目的の横丁建築ですが・・・マンションの建設真っ最中・・・嗚呼、遅かった・・・。
東京だから仕方ないと諦めもつくのですが、特に今年は地方都市でもこういった状況に遭うこと多いんだよなあ・・・。
もっと南に行ったところで見つけた崩壊寸前のトンガリハウス、これはいい!!
今は誰も住んでいないみたい・・・。
その先に椅子専門の製作所、これは渋いなあ。張替・修理とありますが、新しいのは作っていないのかなあ。
羽目板張りのお宅もありました。いい草臥れ具合です。
こんな横丁も見つけましたよ。行き止まりではなく、奥で曲がっていて別の通りに出られます。
雰囲気は微妙でした。それでは、打合せに向かいます。仕事前だったのかよ!!
ウーム、これでもまだ物足りないとお嘆きの貴兄に朗報がございます。それが前書きにもある『ある文献』です。以前、遊里読本のカテゴリーで『カストリ雑誌に於ける遊里』なるものを紹介しました。それと同じ『読切ロマンス 1953年10月号』に三鷹八丁特飲街の様子が載っていましたので、それをそのまま載せちゃいます。私の下手糞な文章なんかより、よ〜く雰囲気が伝わってくると思いますが、所詮はカストリ雑誌です。眉唾で読んでいただいたほうが賢明ですぞ。
註)以下の文章ですが、かなりドギツイ表現、人権的に問題がありそうな部分があります。そういったのが苦手な方はお読みにならないほうが宜しいかと思います。
三 鷹
『女は男を慰めるものヨ』
中央線三鷹駅前には、武蔵野詩人の国木田独歩の碑がある。独歩によつて描かれた武蔵野の面影は、戦後になつて、つぎからつぎへと失われつつある。
自然公園井之頭も、文人墨客の足は絶えて、恋を語るアベック連れの密会の地となり、附近には温泉マークのついた旅館と、ジャズと嬌笑に明ける飲食店がめつきり増えてきた。
三鷹駅を降りて、電車の進んできた方向に逆行し、はじめての踏切を越え賑やかな商店街を抜けると、前方にこんもりした林が見える。
麦畑にひらく武蔵野には、けつして珍しくない森であり、林だが、この林だけはチョイトほかの林とちがうのである。
何故ならば、緑樹に囲まれていながら林の中を、世の人は赤線地帯と呼んでいるからだ。
三鷹八丁特飲街十四軒の店と、五十人の春婦が、生い茂る籬境に、幽遠の地武蔵野と、はつきり一線を画してどろどろの愛欲の褥に、肉体の門を惜しみなく与える桃源境なのである。
嘗て、池上特飲街が問題となり、ついに握り潰しになつたように、いま地元では、市の教育委員、小学校のPTA連中が、この赤線地帯撤廃の狼煙をあげている。しかし世論は、池上問題のとくほど、この三鷹八丁特飲街に深い関心を示していないようである。一部市議の間では、特飲街存続は、土地の繁栄上必要欠くべからざるものであると、堂々公言する者もあると云う。
何れにせよ、赤ならぬ緑の籬のなかには、夜空を染めるボンボリの灯も艶かしく、若い男女の愉しげな笑いが、夜の更けるも知らず疼くような欲情にのたうち、渦を巻いているのである。
平屋建の店ばかりだが、なかには小粋な垣を囲らせたものもあり、たいしたこともあるまいと、店に入つてみると、喫茶室から奥まで廊下がつづき、その両側に部屋が並んでいる。ドアをあけると、箪笥や鏡台まで揃つていて何と云うことはない。アパート住いの新婚夫婦の部屋と云った感じ。
そこがめいめいに女達の部屋となつていて、そこではじめて靴を脱いで、座敷に上るわけだ。
ここの女の特色は、丸の内や有楽町界隅の、オフィス・ガールに、ちょっと凝つた服を着させ、こつてりと化粧をほどこし、素人に色つぽさをふりかけたという、都会的な、明るい女が圧倒的に多い。
会社の女事務員に目をつけて、何とかして温泉へでも連れ出そうと云う、よからぬ野心が出たときには、そんな罪なことは止めて、三鷹八丁へ出張遊ばすことである。必らずや、会社の女事務員そつくりの女が、一人や、二人は居る筈である。(もつとも、ヨルバイトの女事務員もあるそうな)
三度通つて、四回目なら、千円でOK泊めてくれるという。肥料臭い武蔵野だが、この籬の囲いの中だけは、モダンで明るい、熟れるような女の匂いが、ぷんぷん漂つている。
「教育上よろしくないのはわかるけど人間の性欲の緩衝地帯の役目を果しているこの土地を、何でもかんでも潰そうと力んでいる男達て、きつとチャタレー夫人の旦那様みたいな男ね」
T店の女の子が、われわれに笑つて言つた。
自らを、男性の性の緩衝地帯と呼ぶ彼女達の知性には、近頃流行の男女同権思想はないのかモダンに装つている女にも、旧い型の表現がしみこんでいる三鷹の街である。