スーパー裏の色街跡・モダンデザインの遺構・住宅街の謎メインストリート
謎のメインストリート、正体は意外なものでした。
JR蒲田駅から東急多摩川線に乗り換えて二つ目にあるのが武蔵新田、『しんでん』じゃなくて『にった』ですのでお間違いのないように。『しんでん』の場合は新しく開拓された土地に付けられることが多いようですが、此処の場合は駅近くにある新田義貞を祀っている新田神社が由来になっているんだと思います。『花街・色街・艶な街 色街編』によりますと、そんな町に色街が形成されたのは、なんと終戦の一ヶ月前だったそうです。当時、周辺に集中していた軍需工場に勤務する作業員の慰労施設という位置づけだったとのことですが、よくまあこんな切羽詰った時期に造らんでもと思うのですが・・・。業者のほとんどはお店を造船所の寮として接収されてしまい、移転先を探していた洲崎遊廓の人間でした。戦後になりますと、RAA(特殊慰安施設協会)の進駐軍慰安所に指定されますが、案の定半年でOFF LIMITSの憂き目に・・・。その後は新田楽天地という名の赤線に指定され、京浜工業地帯に勤める工員たちで大いに賑わうようになります。『三つのアパートに屯する三八軒と独立家屋五軒を合せて三三軒、一三五人。京浜工業地帯の付帯施設みたいなもので、家屋は仲々キレイ。至つて自由で映画くらいは誘える。遊び五〇〇円、泊りは一五〇〇円くらい』以上は『よるの女性街・全国案内版』による最盛期の様子になります。かなりの隆盛を誇っていたようですが、数年後に施行される売防法によって廃業に追い込まれてしまうわけです。
この赤線跡、数年前に一度訪れております。それの画像データなのですが、クラッシュしてしまった先代のPCの中にまだ残っているはず。うっかりサルベージするのを忘れていた・・・再びそうするにはまた出張サービスを呼ばないとならないわけ。しかし、出張料だけでいきなり5,000円ですからね(笑)だったらもう一度訪れちゃったほうが安上がりということですな。案の定というか当然というか、この界隈、前回訪れたときと何一つ変わっていないのでした。
駅近くにある森の湯さん。入母屋の破風には鶴の鏝絵があります。見難くて申し訳ない。
向かいには渋いおもちゃ屋さん。このゲーム筐体、駄菓子屋なんかによく置いてありましたよね。
突当りに見えるのがマルエツ、赤線はこのスーパーの裏手にあったそうです。
残念ながら面影はほとんと確認できません・・・ですが、手前のアパート、幾つも入口があるのが妙に気になるわけです。当時のお店は既存のアパートをそのまま使っていたとのことですので。
その先の路地に入りますと、唯一の遺構と思われる建物が残っております。
このパラペット部分の小庇をそのまま縦の袖壁として伸ばすデザイン、現代建築でもよく使われる手法であります。
その先、変な出っ張り敷地のある四つ辻、右手には『赤線跡を歩く』にも載っている遺構らしいアパートがあったのですが、真新しいタイル貼りのアパートに建替えられてしまいました。ちなみに往時の姿はストリートビューで確認できますぞ。
以上で武蔵新田のレポはオシマイ・・・といきたいところなのですが、あまりにもアッサリしすぎているよなあ。かといって近くにこれといった近代建築や面白そうな町並みが見当たらないなあと思いながら地図を眺めていましたら・・・見つけてしまったのですよ。下の地図をご覧下さい。
赤線があったとされる界隈とは線路を挟んだ反対側、環八通りの向こうに特徴的な区画があるのが分かるでしょうか。赤の点線の範囲です。中央に明らかに不自然な通りがありますよね???こ、これは、メインストリート!?もしかして知られざる遊里の発見か!?とにかく行ってみましょう。
確かに中央が植栽帯になった通りがありました。これは間違いなく・・・と言いたいところですが、両側に並ぶのはどう見ても普通の住宅・・・。
帰ってから判明したことなのですが、嘗て赤の点線範囲には慶応大学のグラウンドがあったそうです。青の範囲は野球場だったそうで、早慶戦が頻繁に行なわれていたとか。それが廃止後、宅地に開発されたということみたいです。それにしてもこのメインストリートもどき、紛らわしすぎるぞ。
終点には顔みたいなお宅がありましたとさ。まあ、東京にこれだけの規模の知られざる遊里なんてあるわけないよなあ・・・。
相変わらずの中身の無いグダグダに終始してしまいましたので、お詫びの記しに今回もカストリ雑誌による武蔵新田の様子を紹介したいと思います。出典は前回と同じ『読切ロマンス 1953年10月号』からになります。
註)以下の文章ですが、かなりドギツイ表現、人権的に問題がありそうな部分があります。そういったのが苦手な方はお読みにならないほうが宜しいかと思います。
武蔵新田
『顔は不細工でも肉体はええわ』
国電蒲田駅から、東急目蒲線に乗り替えて、お芝居で名高い矢口を過ぎれば、そのつきが武蔵新田駅である。
めざす、武蔵新田の色街は、駅から歩るいてわずか二、三分。新田楽天地のアーチ灯が、夜空を明るく彩つている。
ここの特色は、一軒の大きな店━━━店と云つてもアパートのようなものだがそのなかに、二十七軒の店が、それぞれ商売をしているという、集団的売春の家である。
このほかにも、五軒の店が、あるが、色街と云うより、色店と云つた方がぴつたりあてはまる。異色ある赤線地帯である。
肉体を売る女達はざつと百三十人。一人が一言しやべつても百三十言葉になるんだから、そのうるさいこと。おまけに、一つ屋根の下に陣を張つて、キンキン声をはりあげて客を狙うのだから、イヤハヤ、たいした騒ぎである。
「ね、チョイトお兄さん!口あけよ。一発頼むわよ!」
「ちよつと!いいじやないの!接吻だけで逃げるなんて卑怯よ」
「あたし欲情してンのよ!ね、何とかしてちようだい!」
「ああ!ぎゆッと、抱かれたいわ」
「〇〇〇なんか使わないわョ!ね、どうなの!」
この嬌声が、まるで機関銃の玉のように、どッと、ぶつかつてくるのだから、気の弱い男だつたら、一歩入つた途端に、フラフラとしてしまう。
だが、楽天地開設以来、いまだ嘗て卒倒した客はいないそうである。やはりあふれる精力を発散させようという男は、すべてが逞しく出来ているらしい。
「おとなしくなんかしていたら、毎晩お茶を引かなければならないヮ」
と黒いドレスの女が、荒んだ口調で云う。
客種は附近が工場地帯だけいに、油の匂いがしみついた、若い工員が圧倒的に多いそうである。
あまり札ビラは切らない。
女と遊ぶエチケットも、甘い情緒にひたろうとする意欲も持たない。
ベルトの騒音と、モーターの唸りに麻痺された、太々しい神経で、ただ性欲のハケ口を求めるために蝟集する客である。
全身を媚と肉欲の臭いにくねらせても、それだけでもまだ物足りない。オッパイをさわらせたり、太腿のチラチラ戦術でも駄目。ぎわッと掴まえて離さない、強引な『ひつぱり』の力が女になかつたら駄目だそうである。
「だから、ここの女の子、みんな荒れているわよ。肉体派なんてとこじやないわ。肉体そのものズバリを突つつけていかなかつたら、とてもお客なんか引けないわよ」
水の滴るような美人なんか必要でないそうだ。ぶよぶよした脂肪の塊りであれば、結構商売になるんだと云うから、まつたく、情欲の街という言葉がぴつたりするところである。
「ここで働いている女、やつぱりもとは女工さんだつた女が多い?」
「女工上りなんかすくないわね。千葉茨城、それから、もつとずつと北へ行つて、東北から来ている女が多いんじやないかしら?」
「誰かの紹介でくるの?」
「まあね。だけど、ほかの土地で働いていて、噂を聞いて住み替える女も居るんじやない」
「ここなら美人でなくても商売が出来るからつて?」
「失礼しちやうわね。そんなに馬鹿にしたもんじやないわ。ずーと、見て廻つてごらんなさい。踏める女だつているわよ」
女はツンと口をとんがらかした。
百円札が七、八枚あれば泊れると云う。
「朝は早いわよ。あたい達はもつと睡つていたいんだけど、お客が工員でしよう。工場は朝が早いから、さつさと起きて顔を洗つているの。サービスのつもりで、もつとゆつくり、なんてお世辞を言おうもんなら、そいつは有難え、こつちへ来な、なんて。立つたまま、さあ、こいと云わんばかり。ガツガツしているつたらありやしない」
そのガツガツしている若い工員に、昼飯用の握り飯を用意しておいて、玄関でそつと手に握らせてやり女もあると云う。
女達には流れがあるが、客種は十年一日の如く、いつも機械油の匂いをぷんぷんさせた、工員諸君であるところに、武蔵新田に赤線地帯としての安定性があるのだと、附近の喫茶店の親爺がわれわれに語つた。
共産党ではないが『土地のお兄さんから愛される楽天地』というスローガンの下に結集しているような赤線地帯である。
謎のメインストリート、正体は意外なものでした。
JR蒲田駅から東急多摩川線に乗り換えて二つ目にあるのが武蔵新田、『しんでん』じゃなくて『にった』ですのでお間違いのないように。『しんでん』の場合は新しく開拓された土地に付けられることが多いようですが、此処の場合は駅近くにある新田義貞を祀っている新田神社が由来になっているんだと思います。『花街・色街・艶な街 色街編』によりますと、そんな町に色街が形成されたのは、なんと終戦の一ヶ月前だったそうです。当時、周辺に集中していた軍需工場に勤務する作業員の慰労施設という位置づけだったとのことですが、よくまあこんな切羽詰った時期に造らんでもと思うのですが・・・。業者のほとんどはお店を造船所の寮として接収されてしまい、移転先を探していた洲崎遊廓の人間でした。戦後になりますと、RAA(特殊慰安施設協会)の進駐軍慰安所に指定されますが、案の定半年でOFF LIMITSの憂き目に・・・。その後は新田楽天地という名の赤線に指定され、京浜工業地帯に勤める工員たちで大いに賑わうようになります。『三つのアパートに屯する三八軒と独立家屋五軒を合せて三三軒、一三五人。京浜工業地帯の付帯施設みたいなもので、家屋は仲々キレイ。至つて自由で映画くらいは誘える。遊び五〇〇円、泊りは一五〇〇円くらい』以上は『よるの女性街・全国案内版』による最盛期の様子になります。かなりの隆盛を誇っていたようですが、数年後に施行される売防法によって廃業に追い込まれてしまうわけです。
この赤線跡、数年前に一度訪れております。それの画像データなのですが、クラッシュしてしまった先代のPCの中にまだ残っているはず。うっかりサルベージするのを忘れていた・・・再びそうするにはまた出張サービスを呼ばないとならないわけ。しかし、出張料だけでいきなり5,000円ですからね(笑)だったらもう一度訪れちゃったほうが安上がりということですな。案の定というか当然というか、この界隈、前回訪れたときと何一つ変わっていないのでした。
駅近くにある森の湯さん。入母屋の破風には鶴の鏝絵があります。見難くて申し訳ない。
向かいには渋いおもちゃ屋さん。このゲーム筐体、駄菓子屋なんかによく置いてありましたよね。
突当りに見えるのがマルエツ、赤線はこのスーパーの裏手にあったそうです。
残念ながら面影はほとんと確認できません・・・ですが、手前のアパート、幾つも入口があるのが妙に気になるわけです。当時のお店は既存のアパートをそのまま使っていたとのことですので。
その先の路地に入りますと、唯一の遺構と思われる建物が残っております。
このパラペット部分の小庇をそのまま縦の袖壁として伸ばすデザイン、現代建築でもよく使われる手法であります。
その先、変な出っ張り敷地のある四つ辻、右手には『赤線跡を歩く』にも載っている遺構らしいアパートがあったのですが、真新しいタイル貼りのアパートに建替えられてしまいました。ちなみに往時の姿はストリートビューで確認できますぞ。
以上で武蔵新田のレポはオシマイ・・・といきたいところなのですが、あまりにもアッサリしすぎているよなあ。かといって近くにこれといった近代建築や面白そうな町並みが見当たらないなあと思いながら地図を眺めていましたら・・・見つけてしまったのですよ。下の地図をご覧下さい。
赤線があったとされる界隈とは線路を挟んだ反対側、環八通りの向こうに特徴的な区画があるのが分かるでしょうか。赤の点線の範囲です。中央に明らかに不自然な通りがありますよね???こ、これは、メインストリート!?もしかして知られざる遊里の発見か!?とにかく行ってみましょう。
確かに中央が植栽帯になった通りがありました。これは間違いなく・・・と言いたいところですが、両側に並ぶのはどう見ても普通の住宅・・・。
帰ってから判明したことなのですが、嘗て赤の点線範囲には慶応大学のグラウンドがあったそうです。青の範囲は野球場だったそうで、早慶戦が頻繁に行なわれていたとか。それが廃止後、宅地に開発されたということみたいです。それにしてもこのメインストリートもどき、紛らわしすぎるぞ。
終点には顔みたいなお宅がありましたとさ。まあ、東京にこれだけの規模の知られざる遊里なんてあるわけないよなあ・・・。
相変わらずの中身の無いグダグダに終始してしまいましたので、お詫びの記しに今回もカストリ雑誌による武蔵新田の様子を紹介したいと思います。出典は前回と同じ『読切ロマンス 1953年10月号』からになります。
註)以下の文章ですが、かなりドギツイ表現、人権的に問題がありそうな部分があります。そういったのが苦手な方はお読みにならないほうが宜しいかと思います。
武蔵新田
『顔は不細工でも肉体はええわ』
国電蒲田駅から、東急目蒲線に乗り替えて、お芝居で名高い矢口を過ぎれば、そのつきが武蔵新田駅である。
めざす、武蔵新田の色街は、駅から歩るいてわずか二、三分。新田楽天地のアーチ灯が、夜空を明るく彩つている。
ここの特色は、一軒の大きな店━━━店と云つてもアパートのようなものだがそのなかに、二十七軒の店が、それぞれ商売をしているという、集団的売春の家である。
このほかにも、五軒の店が、あるが、色街と云うより、色店と云つた方がぴつたりあてはまる。異色ある赤線地帯である。
肉体を売る女達はざつと百三十人。一人が一言しやべつても百三十言葉になるんだから、そのうるさいこと。おまけに、一つ屋根の下に陣を張つて、キンキン声をはりあげて客を狙うのだから、イヤハヤ、たいした騒ぎである。
「ね、チョイトお兄さん!口あけよ。一発頼むわよ!」
「ちよつと!いいじやないの!接吻だけで逃げるなんて卑怯よ」
「あたし欲情してンのよ!ね、何とかしてちようだい!」
「ああ!ぎゆッと、抱かれたいわ」
「〇〇〇なんか使わないわョ!ね、どうなの!」
この嬌声が、まるで機関銃の玉のように、どッと、ぶつかつてくるのだから、気の弱い男だつたら、一歩入つた途端に、フラフラとしてしまう。
だが、楽天地開設以来、いまだ嘗て卒倒した客はいないそうである。やはりあふれる精力を発散させようという男は、すべてが逞しく出来ているらしい。
「おとなしくなんかしていたら、毎晩お茶を引かなければならないヮ」
と黒いドレスの女が、荒んだ口調で云う。
客種は附近が工場地帯だけいに、油の匂いがしみついた、若い工員が圧倒的に多いそうである。
あまり札ビラは切らない。
女と遊ぶエチケットも、甘い情緒にひたろうとする意欲も持たない。
ベルトの騒音と、モーターの唸りに麻痺された、太々しい神経で、ただ性欲のハケ口を求めるために蝟集する客である。
全身を媚と肉欲の臭いにくねらせても、それだけでもまだ物足りない。オッパイをさわらせたり、太腿のチラチラ戦術でも駄目。ぎわッと掴まえて離さない、強引な『ひつぱり』の力が女になかつたら駄目だそうである。
「だから、ここの女の子、みんな荒れているわよ。肉体派なんてとこじやないわ。肉体そのものズバリを突つつけていかなかつたら、とてもお客なんか引けないわよ」
水の滴るような美人なんか必要でないそうだ。ぶよぶよした脂肪の塊りであれば、結構商売になるんだと云うから、まつたく、情欲の街という言葉がぴつたりするところである。
「ここで働いている女、やつぱりもとは女工さんだつた女が多い?」
「女工上りなんかすくないわね。千葉茨城、それから、もつとずつと北へ行つて、東北から来ている女が多いんじやないかしら?」
「誰かの紹介でくるの?」
「まあね。だけど、ほかの土地で働いていて、噂を聞いて住み替える女も居るんじやない」
「ここなら美人でなくても商売が出来るからつて?」
「失礼しちやうわね。そんなに馬鹿にしたもんじやないわ。ずーと、見て廻つてごらんなさい。踏める女だつているわよ」
女はツンと口をとんがらかした。
百円札が七、八枚あれば泊れると云う。
「朝は早いわよ。あたい達はもつと睡つていたいんだけど、お客が工員でしよう。工場は朝が早いから、さつさと起きて顔を洗つているの。サービスのつもりで、もつとゆつくり、なんてお世辞を言おうもんなら、そいつは有難え、こつちへ来な、なんて。立つたまま、さあ、こいと云わんばかり。ガツガツしているつたらありやしない」
そのガツガツしている若い工員に、昼飯用の握り飯を用意しておいて、玄関でそつと手に握らせてやり女もあると云う。
女達には流れがあるが、客種は十年一日の如く、いつも機械油の匂いをぷんぷんさせた、工員諸君であるところに、武蔵新田に赤線地帯としての安定性があるのだと、附近の喫茶店の親爺がわれわれに語つた。
共産党ではないが『土地のお兄さんから愛される楽天地』というスローガンの下に結集しているような赤線地帯である。