名付けて門柱の町・思案橋?の向こう側・水湧く対岸の造り酒屋
門柱というものにあまり注目したことはなかったのですが、その考え改めないとなりませんね。
東北遊里跡巡礼の旅再開です。今回の由利本荘市から秋田県編が始まるのですが、二ヶ月ほど前、たまたま神田神保町のとある古書店で手に入れたのが佐藤清一郎著『秋田県遊里史』。その存在を知ってはいたのですが、実物を見るのは初めてでした。でも、よくよく調べてみましたら、この書籍、現在も出版元の無明舎のリストにあるではありませんか。てっきり廃刊になっているのかと・・・。コレ、秋田県に存在した遊里の歴史や背景などを綿密に調べ上げている素晴しいものでして、お馴染の『全国遊廓案内』に載っていない町のことも記してあるのです。要するに知られざる遊里的な場所があったということになるのかと。先に手に入れていれば旅のスケジュールも変わっていたんだろうなあ・・・。まあ、私のは現在も売られているのは違って、初版の箱付ハードカバーですから・・・と自分を慰めておきますよ。というわけで、秋田県編はこの『秋田県遊里史』からの情報も交えながらレポしていきたいと思います。
前回の酒田市から日本海沿いを羽越本線で北上、秋田市とのほぼ中間に位置するのが由利本荘市であります。元々は本荘藩4万石の城下町でしたが、それよりも市内を流れる子吉川の河口港を利用した商業の町という性格のほうが強い町だったようです。越後、越中、大阪方面からの物資は、此処で川船に移されて子吉川を遡っていきました。『秋田県遊里史』によりますと、そんな船着き場の裏手に歓楽街が形成されることになります。時期は書いてありませんでしたが、料理屋11軒、貸座敷5軒、茶屋20軒ほどとあります。ここで言っている茶屋の意味がよく分かりませんが、所謂お茶して休憩する場所とは違うような気がします。中でも貸座敷が集まっていたのが子吉川左岸沿いの古雪町、此処が遊廓の指定地でした。遊廓だけでなく、古雪町の手前には明治中期に料亭街が形成され、芸妓50名ほどが活躍されていたそうです。大正7年(1918)には三業組合も結成されることになります。
転機が訪れるのは大正11年(1922)のこと。長年の悲願だった鉄道、羽越本線が開通します。すると、船運は一気に衰退、それに伴い遊里も寂れていくことになります。娼妓の数を例にしますと、昭和元年(1926)4軒21名、同3年(1928)5軒23名、同8年(1933)4軒15名といった感じ・・・この昭和8年に遊廓業者は廃業・休業届けを提出、古雪遊廓は廃止となってしまうのでした。花柳界は細々とですが、存続していたようです。『秋田県遊里史』には『現在芸妓は10人』とあります。この『現在』というのは、おそらく書籍が出版された昭和58年(1983)のことを言っているのだと思います。30年前までは芸者さんがおられたわけです。その後の様子はよく分かりませんが、調べたかぎりでは花柳界も既に消え失せてしまったようです。以上が由利本荘市の遊里史になります。遊廓が戦前に無くなっていたというのはちょっと予想外でした。
『本荘町古雪遊廓 秋田県由利郡本荘町に在つて、羽越線羽後本荘駅で下車すれば、西北約十六丁の地点に當つて居る。駅から乗合自動車の便もある。本荘町は日本海に面した子吉川口に在る港町で、明治維新前から諸国の商船が盛んに出入して居た為めに、町も随分古くから発展して居た。町の発展に伴つて遊廓も繁昌して居たもので、一時は同業者の数を二十数軒も数へた事がある。けれ共、町の発展の一面には私娼の跋扈が伴つて居たと云ふよりも、寧ろ私娼の方が繁昌して、益々公娼の区域を侵食して来た。現在貸座敷の軒数は四戸あつて、娼妓は二十三人居る・・・妓楼は、自由亭、藤亭、松芳楼、亀由楼の四軒。本荘追分「本荘名物焼山のわらび焼けば焼く程太くなるキタサ」』以上は『全国遊廓案内』からの抜粋になります。貸座敷の数や屋号に多少の食い違いはありますが、『秋田県遊里史』の内容と概ね合致しているようです。この案内が書かれた直後、古雪遊廓は無くなってしまうわけです。それにしても本荘追分の歌詞、意味深だと思ってしまうのは私だけ???
酒田駅から1時間ほどで羽後本荘駅に到着。とにかく腹が減った・・・何処か食事ができる処とキョロキョロしていると、一軒の食堂が目に飛び込んできました。あえてお店の名前は記しませんが、店頭の貼り紙に岩ガキ定食とあるではありませんか。カキ、大好物なのですよ〜。しかし、ここ数日、海がしけていて入荷していないという店主のつれない返事・・・サバの西京焼きならできるよとことなので、それを定食にして貰うことにしました。どうもお店の雰囲気がいまいちでしたので嫌な予感がしていたのですが、恐ろしいモノが出てきてしまった・・・。普通、西京焼きって味噌に漬け込んだのを焼くものですよね。コレ、サバの表面に塗りたくったのを焼いただけじゃん・・・焦げ焦げのバリバリ。ご飯は何だか饐えた匂いがしてるし、味噌汁は味噌をお湯で溶いただけみたいで出汁の風味は皆無。稲庭うどんも付いてきたのですが、これまた醤油を薄めただけみたいな汁に浮かんでいる氷が溶けて消え失せる寸前・・・生温い。おまけに箸休めのつもりなのか、金時豆のソラマメ版と言うのでしょうか、緑色の甘いお豆ありますよね。あれがなぜか小鉢にてんこ盛り(笑)育ちが分かっちゃいますけど、よほどのことが無い限り何でも旨い旨いと喜んでしまう単純な人間です。それが半分も食べられなかった・・・よくまあこんなのでお金を頂こうと思うものだと驚くやら呆れるやら・・・。謹んで今年のワーストワン外食に認定させていただきます。旅先でこれはきついよなあ。あえてお店の名前は記しませんが・・・。こんな目に遭ったのですから、それなりの成果が無いと折り合わないぞ。
そんなこんなで腹五分目で歩き出しました。文化交流館カダーレの裏手、涼しげな木立の向こうに上げ下げ窓のある洋館が現れます。
早川眼科医院さんです。入口のユニークな屋根形状、お分かりになるでしょうか。
裏尾崎町に入りました、脇道を覗くと飲み屋さんの看板、ちょっと寄っていきましょう。
ン?普通のお宅に見えますが・・・
二階に円形の造作を発見です。
ブリーズソレイユ風のルーバー、コレ好きなんですよねえ。外壁のくすんだピンクもいいなあ。
またお医者さん、明治45年(1912)に建てられた黒田医院さんです。看板がありませんでしたので現役ではないのかもしれません。この前の通りを真っ直ぐ行きますと、本荘城址である本荘公園に出ます。
寺社建築風の持送りが多用されています。破風には雲形の装飾、和洋折衷の不思議なデザインです。入口が半分潰されているのは、後から改修されたのだと思います。
夏空に白い下見板張りが映える美しい建物ですね。
こちらもお医者さん関係ではないかと、手元の乏しい資料では正体不明でした。お気付きになりました???さっきから立派な門柱が連続しているのを・・・。この町、門柱に注目ですぞ。
鋭角な三角屋根、これ以上近づけないのがもどかしい。
中町に出ました。この通りを西へ行くと遊廓があったとされる古雪町です。手前の洋品店、二階に辛うじて面影が残っておりますね。旧すみれ洋装店、明治27年(1894)に建てられました。大好物の昭和レトロな街灯と一緒に・・・。
下調べ段階で気付いたのですが、この通り、立派な旅館が並んでいるのです。まずは大正期創業という小松屋旅館さん。古風な門が目印、塀の造りが面白いですね。残念ながら建物自体は新しくなっておりました。
お隣は加藤旅館さん。こちらの門柱も立派、照明が組み込まれております。地図を見ますと近くにもう一軒、もしやと思って行ってみますと・・・
やっぱり(笑)こっちも凄いぞ。小園旅館さん、100年以上の歴史があるとのことです。この旅館群、『秋田県遊里史』に書かれていた料亭街の名残なのかもしれません。でも、屋号が全く一致しないんだよなあ・・・。
警察署の向かいにあるのが加藤医院さん、大正10年(1921)に建てられました。寄棟屋根から飛び出した円形のペディメントが特徴的です。外壁は石貼り風の左官仕上だったようですが、窯業系のサイディングに変わっていたのは残念でした。
緩やかなカーブを描いている通りの先が古雪町です。此処、『赤線跡を歩く 完結編』に載っていましたね。
古雪町手前にあるのが大店の割烹一よしさん、天保年間創業という老舗です。しかし、こちらも屋号が一致しない・・・。
もちろん門柱完備(笑)銘木+球形照明というシンプルな構成です。
向かいの奥まった処には料亭かもめさん、こちらは新しい建物でした。
かもめさんの裏手にある大法寺さん。遊廓との繋がりみたいなものを探してみましたが無駄足に終わりました。
この小橋を渡った先が古雪町、境界が水路になっているわけ。この橋、やっぱり当時は思案橋的な役割を果たしていたのでしょうか。
東西に細長い古雪町、中央を貫く通り沿いに貸座敷が並んでいたのではないかと想像していたのですが・・・な〜んにも見つからない。
脇道に大きな蔵が・・・残念、造り酒屋でした。秋田譽酒造さんです。
唯一気になったのがこのお宅。低い車止めみたいなフェンスが妙に凝っているわけ。
庭の片隅には日本庭園の痕跡みたいな庭石?が積み上げてあるし・・・。
その奥には小さな神様が祀られているわけです。ウーム、これだけでは何とも言えませんけどね。
通りの突当りにある子吉川漁港まで行ってみましたが結局収穫なし・・・。まあ、所詮は4軒しかなかった遊廓です。しかも赤線に移行することなく戦前に消え失せておりますから・・・と強がってみましたが、本音を言えば酷暑の中これはきつい・・・。
遊廓跡は諦めて次の目的地に向かいましょう。中町に戻って、子吉川を真新しい斜張橋で渡って対岸にある石脇地区が目的地なのですが、途中にある後町と日役町、『秋田県遊里史』には大正期にカフェーが開業したとあります。確かに数軒の飲み屋さんがありましたが、そういった感じのものは見かけなかったと記憶しております。知っていたらもっとじっくり探したのですがね。
石脇地区に一際目立つ美しい建物があります。明治35年(1902)創業の齋彌(さいとう)酒造店さんです。二階の入母屋屋根の洋館部分がいいなあ。背後が高台になっているため、仕込み蔵に高低差があります。いちばん高い処で汲み上げた湧水が、工程が進む度に低い場所に移っていき、最後にはお酒になるという面白い造りになっているそうです。
建てられた時期は不明みたいですが、国の登録文化財です。一部がギャラリーとして開放されているようです。
その先でこんなものを見つけました。湧水です。齋彌酒造店さんもこういった水を使って仕込んでいるのでしょう。コレ、飲めるのか・・・何も表示が無いのですが・・・。あまりの暑さに堪らず口に含んでみましたら・・・あら、美味しい。でも、良い子は真似しないように。
名無しの湧水の奥、坂を登った先にあるのが石脇公徳館。たぶん公民館みたいなものだと思いますが、ここにも門柱を確認です。
この通り、酒蔵だけでなく醤油味噌蔵もあるのです。明治3年(1870)創業のマルイチしょうゆみそ醸造元さんです。結構交通量の多い通りなのですが、店頭に車を停めて買いに来ているお客さんがおりました。
なんと、お隣も同業者、ヤマキチ味噌醤油醸造元さんです。何だか商売しずらそう(笑)
羽後本荘駅に戻って参りました。しかし、あの酷い昼食のせいで中途半端な空腹状態・・・ふと傍らのお肉屋さんを見ますと、『本荘ハムフライ』と書かれたのぼりが・・・。HPを見ても由来がよく分からなかったのですが(笑)どうやらこの町、この『ハムフライ』で町おこししているみたい。試しに購入・・・ウン、至って普通の見事なまでの『ハムカツ』でございました。それにしても、何で『ハムカツ』じゃなくて『ハムフライ』なの???
歩行距離9キロほど、あまり収穫のなかった由利本荘市の探索でした。このレポを書くためにグーグルの地図を開いたのですが、いつのまにかストリートビュー対応になっている・・・。試しに足を踏み入れなかった辺りを調べてみたのですが、残念な結果に終わりました。少し触れていますが、『赤線跡を歩く 完結編』のことです。この町のこと、一枚の写真しか載っていないのが以前から気になっていたのです。その理由が分かりました、著者の木村氏も発見できなかったのですね。次回から5日目、秋田市をベースキャンプにして周辺の町を巡ります。
門柱というものにあまり注目したことはなかったのですが、その考え改めないとなりませんね。
東北遊里跡巡礼の旅再開です。今回の由利本荘市から秋田県編が始まるのですが、二ヶ月ほど前、たまたま神田神保町のとある古書店で手に入れたのが佐藤清一郎著『秋田県遊里史』。その存在を知ってはいたのですが、実物を見るのは初めてでした。でも、よくよく調べてみましたら、この書籍、現在も出版元の無明舎のリストにあるではありませんか。てっきり廃刊になっているのかと・・・。コレ、秋田県に存在した遊里の歴史や背景などを綿密に調べ上げている素晴しいものでして、お馴染の『全国遊廓案内』に載っていない町のことも記してあるのです。要するに知られざる遊里的な場所があったということになるのかと。先に手に入れていれば旅のスケジュールも変わっていたんだろうなあ・・・。まあ、私のは現在も売られているのは違って、初版の箱付ハードカバーですから・・・と自分を慰めておきますよ。というわけで、秋田県編はこの『秋田県遊里史』からの情報も交えながらレポしていきたいと思います。
前回の酒田市から日本海沿いを羽越本線で北上、秋田市とのほぼ中間に位置するのが由利本荘市であります。元々は本荘藩4万石の城下町でしたが、それよりも市内を流れる子吉川の河口港を利用した商業の町という性格のほうが強い町だったようです。越後、越中、大阪方面からの物資は、此処で川船に移されて子吉川を遡っていきました。『秋田県遊里史』によりますと、そんな船着き場の裏手に歓楽街が形成されることになります。時期は書いてありませんでしたが、料理屋11軒、貸座敷5軒、茶屋20軒ほどとあります。ここで言っている茶屋の意味がよく分かりませんが、所謂お茶して休憩する場所とは違うような気がします。中でも貸座敷が集まっていたのが子吉川左岸沿いの古雪町、此処が遊廓の指定地でした。遊廓だけでなく、古雪町の手前には明治中期に料亭街が形成され、芸妓50名ほどが活躍されていたそうです。大正7年(1918)には三業組合も結成されることになります。
転機が訪れるのは大正11年(1922)のこと。長年の悲願だった鉄道、羽越本線が開通します。すると、船運は一気に衰退、それに伴い遊里も寂れていくことになります。娼妓の数を例にしますと、昭和元年(1926)4軒21名、同3年(1928)5軒23名、同8年(1933)4軒15名といった感じ・・・この昭和8年に遊廓業者は廃業・休業届けを提出、古雪遊廓は廃止となってしまうのでした。花柳界は細々とですが、存続していたようです。『秋田県遊里史』には『現在芸妓は10人』とあります。この『現在』というのは、おそらく書籍が出版された昭和58年(1983)のことを言っているのだと思います。30年前までは芸者さんがおられたわけです。その後の様子はよく分かりませんが、調べたかぎりでは花柳界も既に消え失せてしまったようです。以上が由利本荘市の遊里史になります。遊廓が戦前に無くなっていたというのはちょっと予想外でした。
『本荘町古雪遊廓 秋田県由利郡本荘町に在つて、羽越線羽後本荘駅で下車すれば、西北約十六丁の地点に當つて居る。駅から乗合自動車の便もある。本荘町は日本海に面した子吉川口に在る港町で、明治維新前から諸国の商船が盛んに出入して居た為めに、町も随分古くから発展して居た。町の発展に伴つて遊廓も繁昌して居たもので、一時は同業者の数を二十数軒も数へた事がある。けれ共、町の発展の一面には私娼の跋扈が伴つて居たと云ふよりも、寧ろ私娼の方が繁昌して、益々公娼の区域を侵食して来た。現在貸座敷の軒数は四戸あつて、娼妓は二十三人居る・・・妓楼は、自由亭、藤亭、松芳楼、亀由楼の四軒。本荘追分「本荘名物焼山のわらび焼けば焼く程太くなるキタサ」』以上は『全国遊廓案内』からの抜粋になります。貸座敷の数や屋号に多少の食い違いはありますが、『秋田県遊里史』の内容と概ね合致しているようです。この案内が書かれた直後、古雪遊廓は無くなってしまうわけです。それにしても本荘追分の歌詞、意味深だと思ってしまうのは私だけ???
酒田駅から1時間ほどで羽後本荘駅に到着。とにかく腹が減った・・・何処か食事ができる処とキョロキョロしていると、一軒の食堂が目に飛び込んできました。あえてお店の名前は記しませんが、店頭の貼り紙に岩ガキ定食とあるではありませんか。カキ、大好物なのですよ〜。しかし、ここ数日、海がしけていて入荷していないという店主のつれない返事・・・サバの西京焼きならできるよとことなので、それを定食にして貰うことにしました。どうもお店の雰囲気がいまいちでしたので嫌な予感がしていたのですが、恐ろしいモノが出てきてしまった・・・。普通、西京焼きって味噌に漬け込んだのを焼くものですよね。コレ、サバの表面に塗りたくったのを焼いただけじゃん・・・焦げ焦げのバリバリ。ご飯は何だか饐えた匂いがしてるし、味噌汁は味噌をお湯で溶いただけみたいで出汁の風味は皆無。稲庭うどんも付いてきたのですが、これまた醤油を薄めただけみたいな汁に浮かんでいる氷が溶けて消え失せる寸前・・・生温い。おまけに箸休めのつもりなのか、金時豆のソラマメ版と言うのでしょうか、緑色の甘いお豆ありますよね。あれがなぜか小鉢にてんこ盛り(笑)育ちが分かっちゃいますけど、よほどのことが無い限り何でも旨い旨いと喜んでしまう単純な人間です。それが半分も食べられなかった・・・よくまあこんなのでお金を頂こうと思うものだと驚くやら呆れるやら・・・。謹んで今年のワーストワン外食に認定させていただきます。旅先でこれはきついよなあ。あえてお店の名前は記しませんが・・・。こんな目に遭ったのですから、それなりの成果が無いと折り合わないぞ。
そんなこんなで腹五分目で歩き出しました。文化交流館カダーレの裏手、涼しげな木立の向こうに上げ下げ窓のある洋館が現れます。
早川眼科医院さんです。入口のユニークな屋根形状、お分かりになるでしょうか。
裏尾崎町に入りました、脇道を覗くと飲み屋さんの看板、ちょっと寄っていきましょう。
ン?普通のお宅に見えますが・・・
二階に円形の造作を発見です。
ブリーズソレイユ風のルーバー、コレ好きなんですよねえ。外壁のくすんだピンクもいいなあ。
またお医者さん、明治45年(1912)に建てられた黒田医院さんです。看板がありませんでしたので現役ではないのかもしれません。この前の通りを真っ直ぐ行きますと、本荘城址である本荘公園に出ます。
寺社建築風の持送りが多用されています。破風には雲形の装飾、和洋折衷の不思議なデザインです。入口が半分潰されているのは、後から改修されたのだと思います。
夏空に白い下見板張りが映える美しい建物ですね。
こちらもお医者さん関係ではないかと、手元の乏しい資料では正体不明でした。お気付きになりました???さっきから立派な門柱が連続しているのを・・・。この町、門柱に注目ですぞ。
鋭角な三角屋根、これ以上近づけないのがもどかしい。
中町に出ました。この通りを西へ行くと遊廓があったとされる古雪町です。手前の洋品店、二階に辛うじて面影が残っておりますね。旧すみれ洋装店、明治27年(1894)に建てられました。大好物の昭和レトロな街灯と一緒に・・・。
下調べ段階で気付いたのですが、この通り、立派な旅館が並んでいるのです。まずは大正期創業という小松屋旅館さん。古風な門が目印、塀の造りが面白いですね。残念ながら建物自体は新しくなっておりました。
お隣は加藤旅館さん。こちらの門柱も立派、照明が組み込まれております。地図を見ますと近くにもう一軒、もしやと思って行ってみますと・・・
やっぱり(笑)こっちも凄いぞ。小園旅館さん、100年以上の歴史があるとのことです。この旅館群、『秋田県遊里史』に書かれていた料亭街の名残なのかもしれません。でも、屋号が全く一致しないんだよなあ・・・。
警察署の向かいにあるのが加藤医院さん、大正10年(1921)に建てられました。寄棟屋根から飛び出した円形のペディメントが特徴的です。外壁は石貼り風の左官仕上だったようですが、窯業系のサイディングに変わっていたのは残念でした。
緩やかなカーブを描いている通りの先が古雪町です。此処、『赤線跡を歩く 完結編』に載っていましたね。
古雪町手前にあるのが大店の割烹一よしさん、天保年間創業という老舗です。しかし、こちらも屋号が一致しない・・・。
もちろん門柱完備(笑)銘木+球形照明というシンプルな構成です。
向かいの奥まった処には料亭かもめさん、こちらは新しい建物でした。
かもめさんの裏手にある大法寺さん。遊廓との繋がりみたいなものを探してみましたが無駄足に終わりました。
この小橋を渡った先が古雪町、境界が水路になっているわけ。この橋、やっぱり当時は思案橋的な役割を果たしていたのでしょうか。
東西に細長い古雪町、中央を貫く通り沿いに貸座敷が並んでいたのではないかと想像していたのですが・・・な〜んにも見つからない。
脇道に大きな蔵が・・・残念、造り酒屋でした。秋田譽酒造さんです。
唯一気になったのがこのお宅。低い車止めみたいなフェンスが妙に凝っているわけ。
庭の片隅には日本庭園の痕跡みたいな庭石?が積み上げてあるし・・・。
その奥には小さな神様が祀られているわけです。ウーム、これだけでは何とも言えませんけどね。
通りの突当りにある子吉川漁港まで行ってみましたが結局収穫なし・・・。まあ、所詮は4軒しかなかった遊廓です。しかも赤線に移行することなく戦前に消え失せておりますから・・・と強がってみましたが、本音を言えば酷暑の中これはきつい・・・。
遊廓跡は諦めて次の目的地に向かいましょう。中町に戻って、子吉川を真新しい斜張橋で渡って対岸にある石脇地区が目的地なのですが、途中にある後町と日役町、『秋田県遊里史』には大正期にカフェーが開業したとあります。確かに数軒の飲み屋さんがありましたが、そういった感じのものは見かけなかったと記憶しております。知っていたらもっとじっくり探したのですがね。
石脇地区に一際目立つ美しい建物があります。明治35年(1902)創業の齋彌(さいとう)酒造店さんです。二階の入母屋屋根の洋館部分がいいなあ。背後が高台になっているため、仕込み蔵に高低差があります。いちばん高い処で汲み上げた湧水が、工程が進む度に低い場所に移っていき、最後にはお酒になるという面白い造りになっているそうです。
建てられた時期は不明みたいですが、国の登録文化財です。一部がギャラリーとして開放されているようです。
その先でこんなものを見つけました。湧水です。齋彌酒造店さんもこういった水を使って仕込んでいるのでしょう。コレ、飲めるのか・・・何も表示が無いのですが・・・。あまりの暑さに堪らず口に含んでみましたら・・・あら、美味しい。でも、良い子は真似しないように。
名無しの湧水の奥、坂を登った先にあるのが石脇公徳館。たぶん公民館みたいなものだと思いますが、ここにも門柱を確認です。
この通り、酒蔵だけでなく醤油味噌蔵もあるのです。明治3年(1870)創業のマルイチしょうゆみそ醸造元さんです。結構交通量の多い通りなのですが、店頭に車を停めて買いに来ているお客さんがおりました。
なんと、お隣も同業者、ヤマキチ味噌醤油醸造元さんです。何だか商売しずらそう(笑)
羽後本荘駅に戻って参りました。しかし、あの酷い昼食のせいで中途半端な空腹状態・・・ふと傍らのお肉屋さんを見ますと、『本荘ハムフライ』と書かれたのぼりが・・・。HPを見ても由来がよく分からなかったのですが(笑)どうやらこの町、この『ハムフライ』で町おこししているみたい。試しに購入・・・ウン、至って普通の見事なまでの『ハムカツ』でございました。それにしても、何で『ハムカツ』じゃなくて『ハムフライ』なの???
歩行距離9キロほど、あまり収穫のなかった由利本荘市の探索でした。このレポを書くためにグーグルの地図を開いたのですが、いつのまにかストリートビュー対応になっている・・・。試しに足を踏み入れなかった辺りを調べてみたのですが、残念な結果に終わりました。少し触れていますが、『赤線跡を歩く 完結編』のことです。この町のこと、一枚の写真しか載っていないのが以前から気になっていたのです。その理由が分かりました、著者の木村氏も発見できなかったのですね。次回から5日目、秋田市をベースキャンプにして周辺の町を巡ります。