武家屋敷の洋館・看板建築と秋田犬・遊廓跡の洋風手摺
本物のエメラルドは持っていませんが、この瓦の輝きも負けず劣らずでしたよ。
東北遊里跡巡礼の旅五日目です。今日からは秋田市をベースキャンプにして周辺の町を巡ります。今までは宿泊する町が変わる度、重い荷物を転がしたり、途中の駅のロッカーに預けたりしないとならなかったわけです。やっと身軽になって移動できる・・・足取りも軽くといきたいところですが、相変わらず残暑が厳しいみたい。山形市でのこともありますので用心しながら行きましょう。本日は始発の奥羽本線に飛び乗って内陸部を目指します。山形県と県境を接する湯沢市を訪れた後、そのまま戻りながら横手市、仙北市角館(再訪)の順で探索致します。今回の旅、暑さも考慮してかなり余裕をもった計画にしていたのですが、この五日目がいちばんタイトなスケジュールになっております。いつも行き当たりばったりのアバウト人間ですから・・・こういうの苦手なんだよなあ。
秋田県南部に位置する湯沢市、江戸時代の頃は佐竹家が治めた久保田藩20万石の城下町でした。城下町といっても、町の東端にあったとされる湯沢城は、一国一城令によってすぐに廃城になってしまうのですがね。奥州街道の脇往還である羽州街道が町を南北に貫いているため、物資の集積地としても栄えたようです。町の発展に寄与したのが慶長11年(1606)に発見された院内銀山です。普通、こういった鉱脈は幕府直轄のところがほとんどだったようですが、こちらは藩直営でしたので莫大な富を町にもたらしたとされています。これが湯沢の遊里隆盛の一翼を担ったというのは当然といえば当然のことなのでしょう。この院内銀山、細々とですが昭和29年(1954)まで採掘が続けられていたというのは驚きの事実でした。
もう一つ、湯沢で忘れてはならないのが日本酒です。市内には大小たくさんの造り酒屋が点在しており、東北の灘と呼ばれるほどなんだとか。その歴史は古く、縄文時代後期のものされる酒器が発掘されているそうです。数ある造り酒屋の中でも全国的に有名なのが、『美酒爛漫♪』でお馴染の秋田銘醸さんになるでしょうか。ほとんどテレビを見なくなってしまったのですが、あのCM今も放映されているのでしょうか・・・。旨い酒、これも遊里には無くてはならない存在だと思うわけです。この町、遊里発展の条件がいろいろと揃っていたというある意味羨ましい処だったみたい(笑)あ、遊里に関しましては、その2のほうでお話致しますね。
駅前通りのアーケード、窮屈そうに押し込まれていた鳥居。奥には清水神社という小さな神様が祀られておりました。
地図には国道13号線に羽州街道と記されておりますが、並行している県道277号線が本物の旧街道になります。まずはそれを右折、しばらく行くと最初の造り酒屋が現れます。木村酒造店さん、元和元年(1615)創業というとんでもない老舗。湯沢で最も古い造り酒屋になります。
その先の交差点を過ぎると、この地方特有の切妻屋根に妻入の商家がちらほらと現れ始めます。やっと旧街道っぽい雰囲気になって参りました。
向かいにはこんな洋館、昭和5年(1930)に建てられた旧京山合名会社。カワイイ門柱もお見逃しないように。
旧街道から山側に入るとこんな黒板塀が現れます。この内町界隈、嘗ては城下の武家屋敷だったそうで、この塀はそれの名残とされています。
中にはこんな立派な門も見られますが、中のお宅のほとんどは新しくなっておりました。本日の最後に再訪致しますが、プチ角館みたいなものと考えていただければ宜しいかと。
更に山側へ・・・辺りは静かな静かな住宅街です。おや?前方に何か見えてきたぞ。
現れたのは石垣の上に建つ下見板張りの洋館。苔生した緩勾配の階段がいいなあ。門柱のてっぺんには小さな狛犬が乗っています。
外壁は塗り替えたばかりのようですし、窓は樹脂サッシに変えられているみたい・・・何だか新築物件にも見えますが、間違いなくかなり歴史のあるお宅だと思います。それだけ大事に使われているということなのでしょうね。
切通し状の坂道を下って旧街道に戻ります。
途中、こんな仕切りのある水路に出会いました。コレ、たまに見かけるのですが、どういう機能を果たしているのでしょう。灌漑用+生活用って感じ???
旧街道に戻って参りました。すぐにある建物に目が釘付け・・・。
昭和7年(1932)に建てられた山内家住宅、国の登録文化財です。嘗ては呉服屋を営んでいたそうです。外壁を真壁にすることで柱梁を露出させています。所謂和風ハーフティンバーとでも申しましょうか・・・まあ、そんなことより瓦のエメラルドグリーン、これ美しすぎるでしょう。
庇は出桁造り、垂木先端の腐食防止の板金キャップもちゃんと緑色なのがいいぞ。先日(11月)、期間限定で内部の一般公開があったそうです。何それ・・・相変わらずタイミングの悪い男・・・。
ちょっとさきほどの水路を辿ってみましょう。
水路に蔵にアサガオ、やっぱり水辺の光景はいいなあ。
一本杉の下には小さな神様、御囲地稲荷神社です。
御囲地、意味深な地名だと思いませんか???妾を囲うなんて言いますが、大旦那の二号さんの住まいがあったとか・・・絶対違うと思いますが(笑)
旧街道を引き返し、駅前通りを越えた先の脇道に入りますと、寄棟屋根に下見板張り、鎧戸が並んだ端正な洋館が現れます。県指定文化財の旧雄勝郡会議事堂、明治24年(1891)に建てられました。県内に残る唯一の明治時代の洋風役所建築です。
脇には小さな土蔵と、これまた小さな神様が祀られておりました。
裏通りを辿って北へ・・・この界隈の家並みの草臥れ具合、とてもいい感じでした。旧街道が拡幅されて整備が進んでおり、宿場の名残的な町並みがほとんど残っていないのが残念でした。裏通りのほうが面白いですよ、この町。
長大な黒板塀、左はいい感じに廃れたアパートです。
その先に巨大な爛漫の秋田銘醸さんの酒蔵があります。しかし、近代的な建物に変わっており、酒蔵というよりも工場といったほうが正しいなこりゃ。その近くに、一見するとちょっと野暮ったく見える建物があります。
昭和34年(1959)に建てられた四同舎(湯沢酒造会館)です。設計は異端の建築家こと白井晟一・・・といっても分からない人も多いかと思います。代表作を言えば分かるかな?麻布のノアビル、渋谷の区立松涛美術館、佐世保の親和銀行本店などなど、ピンときた方いるのではないでしょうか。私自身かなり影響を受けている人物です。学生時代、佐世保まで見に行きましたもの。
仙人みたいな風貌も相まってかなり強烈な人物なのですが、そのあたりのことを話し出すと止らなくなりますので、興味のある方はネットでどうぞ(笑)そんな彼の中期の作品になります。まあ、50年以上前の建物ですので、野暮ったく見えるのも仕方ないかな。でも、全体に漲る力強さは見事なもの。バルコニーに使われている孔明きブロック、ちょっと前に流行りましたね。建築デザインの流行って言葉は好きではないのですが、これもファッションと同じ、繰り返しなのです。
見所はエントランスの吹抜、この階段は素晴しいなあ。この秋田県、彼の初期から中期にかけての作品がかなり残っているのですが、ほとんどが辺鄙な場所ばかり・・・全部巡っていたら何日かかることやら。コチラ、使われている様子が皆無、先行きが気になる建物です。
旧街道出ると、山並みみたいな切妻屋根の連続に思わず仰け反りました。デ、デカイ・・・。
おまけに奥行きもとんでもない・・・。コチラ、次に紹介する造り酒屋の第二工場なのです。
それが明治7年(1874)創業の両関酒造さん。実物を見れば分かりますが、覆い被さってくるような迫力に圧倒されます。
土蔵が続いているのですが、広角レンズでも入りきらない(笑)
さて、そろそろ遊里跡に向かいましょう。途中、さきほどの巨大な第二工場の裏手を通ったのですが、土蔵を包むようにして木造の屋根が架けられているのがよく分かると思います。それにしても外壁のフレームが格好良すぎる・・・。湯沢って名に負う豪雪地ですよね。コレって雪囲いのためのもの???
前半はココまで・・・次回は遊里跡の路地裏で、ちょっとした迷路感覚を味わいます。白井晟一ですが、ちょうど今年は没後30年なんだよなあ・・・。
本物のエメラルドは持っていませんが、この瓦の輝きも負けず劣らずでしたよ。
東北遊里跡巡礼の旅五日目です。今日からは秋田市をベースキャンプにして周辺の町を巡ります。今までは宿泊する町が変わる度、重い荷物を転がしたり、途中の駅のロッカーに預けたりしないとならなかったわけです。やっと身軽になって移動できる・・・足取りも軽くといきたいところですが、相変わらず残暑が厳しいみたい。山形市でのこともありますので用心しながら行きましょう。本日は始発の奥羽本線に飛び乗って内陸部を目指します。山形県と県境を接する湯沢市を訪れた後、そのまま戻りながら横手市、仙北市角館(再訪)の順で探索致します。今回の旅、暑さも考慮してかなり余裕をもった計画にしていたのですが、この五日目がいちばんタイトなスケジュールになっております。いつも行き当たりばったりのアバウト人間ですから・・・こういうの苦手なんだよなあ。
秋田県南部に位置する湯沢市、江戸時代の頃は佐竹家が治めた久保田藩20万石の城下町でした。城下町といっても、町の東端にあったとされる湯沢城は、一国一城令によってすぐに廃城になってしまうのですがね。奥州街道の脇往還である羽州街道が町を南北に貫いているため、物資の集積地としても栄えたようです。町の発展に寄与したのが慶長11年(1606)に発見された院内銀山です。普通、こういった鉱脈は幕府直轄のところがほとんどだったようですが、こちらは藩直営でしたので莫大な富を町にもたらしたとされています。これが湯沢の遊里隆盛の一翼を担ったというのは当然といえば当然のことなのでしょう。この院内銀山、細々とですが昭和29年(1954)まで採掘が続けられていたというのは驚きの事実でした。
もう一つ、湯沢で忘れてはならないのが日本酒です。市内には大小たくさんの造り酒屋が点在しており、東北の灘と呼ばれるほどなんだとか。その歴史は古く、縄文時代後期のものされる酒器が発掘されているそうです。数ある造り酒屋の中でも全国的に有名なのが、『美酒爛漫♪』でお馴染の秋田銘醸さんになるでしょうか。ほとんどテレビを見なくなってしまったのですが、あのCM今も放映されているのでしょうか・・・。旨い酒、これも遊里には無くてはならない存在だと思うわけです。この町、遊里発展の条件がいろいろと揃っていたというある意味羨ましい処だったみたい(笑)あ、遊里に関しましては、その2のほうでお話致しますね。
駅前通りのアーケード、窮屈そうに押し込まれていた鳥居。奥には清水神社という小さな神様が祀られておりました。
地図には国道13号線に羽州街道と記されておりますが、並行している県道277号線が本物の旧街道になります。まずはそれを右折、しばらく行くと最初の造り酒屋が現れます。木村酒造店さん、元和元年(1615)創業というとんでもない老舗。湯沢で最も古い造り酒屋になります。
その先の交差点を過ぎると、この地方特有の切妻屋根に妻入の商家がちらほらと現れ始めます。やっと旧街道っぽい雰囲気になって参りました。
向かいにはこんな洋館、昭和5年(1930)に建てられた旧京山合名会社。カワイイ門柱もお見逃しないように。
旧街道から山側に入るとこんな黒板塀が現れます。この内町界隈、嘗ては城下の武家屋敷だったそうで、この塀はそれの名残とされています。
中にはこんな立派な門も見られますが、中のお宅のほとんどは新しくなっておりました。本日の最後に再訪致しますが、プチ角館みたいなものと考えていただければ宜しいかと。
更に山側へ・・・辺りは静かな静かな住宅街です。おや?前方に何か見えてきたぞ。
現れたのは石垣の上に建つ下見板張りの洋館。苔生した緩勾配の階段がいいなあ。門柱のてっぺんには小さな狛犬が乗っています。
外壁は塗り替えたばかりのようですし、窓は樹脂サッシに変えられているみたい・・・何だか新築物件にも見えますが、間違いなくかなり歴史のあるお宅だと思います。それだけ大事に使われているということなのでしょうね。
切通し状の坂道を下って旧街道に戻ります。
途中、こんな仕切りのある水路に出会いました。コレ、たまに見かけるのですが、どういう機能を果たしているのでしょう。灌漑用+生活用って感じ???
旧街道に戻って参りました。すぐにある建物に目が釘付け・・・。
昭和7年(1932)に建てられた山内家住宅、国の登録文化財です。嘗ては呉服屋を営んでいたそうです。外壁を真壁にすることで柱梁を露出させています。所謂和風ハーフティンバーとでも申しましょうか・・・まあ、そんなことより瓦のエメラルドグリーン、これ美しすぎるでしょう。
庇は出桁造り、垂木先端の腐食防止の板金キャップもちゃんと緑色なのがいいぞ。先日(11月)、期間限定で内部の一般公開があったそうです。何それ・・・相変わらずタイミングの悪い男・・・。
ちょっとさきほどの水路を辿ってみましょう。
水路に蔵にアサガオ、やっぱり水辺の光景はいいなあ。
一本杉の下には小さな神様、御囲地稲荷神社です。
御囲地、意味深な地名だと思いませんか???妾を囲うなんて言いますが、大旦那の二号さんの住まいがあったとか・・・絶対違うと思いますが(笑)
旧街道を引き返し、駅前通りを越えた先の脇道に入りますと、寄棟屋根に下見板張り、鎧戸が並んだ端正な洋館が現れます。県指定文化財の旧雄勝郡会議事堂、明治24年(1891)に建てられました。県内に残る唯一の明治時代の洋風役所建築です。
脇には小さな土蔵と、これまた小さな神様が祀られておりました。
裏通りを辿って北へ・・・この界隈の家並みの草臥れ具合、とてもいい感じでした。旧街道が拡幅されて整備が進んでおり、宿場の名残的な町並みがほとんど残っていないのが残念でした。裏通りのほうが面白いですよ、この町。
長大な黒板塀、左はいい感じに廃れたアパートです。
その先に巨大な爛漫の秋田銘醸さんの酒蔵があります。しかし、近代的な建物に変わっており、酒蔵というよりも工場といったほうが正しいなこりゃ。その近くに、一見するとちょっと野暮ったく見える建物があります。
昭和34年(1959)に建てられた四同舎(湯沢酒造会館)です。設計は異端の建築家こと白井晟一・・・といっても分からない人も多いかと思います。代表作を言えば分かるかな?麻布のノアビル、渋谷の区立松涛美術館、佐世保の親和銀行本店などなど、ピンときた方いるのではないでしょうか。私自身かなり影響を受けている人物です。学生時代、佐世保まで見に行きましたもの。
仙人みたいな風貌も相まってかなり強烈な人物なのですが、そのあたりのことを話し出すと止らなくなりますので、興味のある方はネットでどうぞ(笑)そんな彼の中期の作品になります。まあ、50年以上前の建物ですので、野暮ったく見えるのも仕方ないかな。でも、全体に漲る力強さは見事なもの。バルコニーに使われている孔明きブロック、ちょっと前に流行りましたね。建築デザインの流行って言葉は好きではないのですが、これもファッションと同じ、繰り返しなのです。
見所はエントランスの吹抜、この階段は素晴しいなあ。この秋田県、彼の初期から中期にかけての作品がかなり残っているのですが、ほとんどが辺鄙な場所ばかり・・・全部巡っていたら何日かかることやら。コチラ、使われている様子が皆無、先行きが気になる建物です。
旧街道出ると、山並みみたいな切妻屋根の連続に思わず仰け反りました。デ、デカイ・・・。
おまけに奥行きもとんでもない・・・。コチラ、次に紹介する造り酒屋の第二工場なのです。
それが明治7年(1874)創業の両関酒造さん。実物を見れば分かりますが、覆い被さってくるような迫力に圧倒されます。
土蔵が続いているのですが、広角レンズでも入りきらない(笑)
さて、そろそろ遊里跡に向かいましょう。途中、さきほどの巨大な第二工場の裏手を通ったのですが、土蔵を包むようにして木造の屋根が架けられているのがよく分かると思います。それにしても外壁のフレームが格好良すぎる・・・。湯沢って名に負う豪雪地ですよね。コレって雪囲いのためのもの???
前半はココまで・・・次回は遊里跡の路地裏で、ちょっとした迷路感覚を味わいます。白井晟一ですが、ちょうど今年は没後30年なんだよなあ・・・。