鰹?鮪?・・・考えてみましたら懸魚の由来って文字通りお魚でしたね。
その1の最後で難所を潜り抜けてきた私ですが、実はこの由比宿自体が越すに越されぬ大井川と並ぶ東海道の難所だったというはあまり知られていない事実ではないでしょうか。当初の東海道、由比宿と興津宿の間は、海岸まで突き出した急峻な山のおかげで波打ち際の岩場を、白波のしぶきを浴びながら行く旅人泣かせの道だったそうです。『下道』と呼ばれていたそうですが、後になって薩埵峠(さったとうげ)を越えていく『中道』が整備されることになります。まあ、この『中道』も数キロに渡って険しい山道続きますので難所であることには変わりなかったようですが、溺れるよりはましということなんでしょう。
で、気になるのは『下道』時代のこと・・・当然のことですが、台風などで海が荒れると旅人は宿場に足止めをくらうことになります。そこで出番となるのが飯盛女・・・でも、由比宿の飯盛女のことを調べても乏しい手元の資料だけではよくわからない・・・。そういった宿場ですので、かなりの人数が手ぐすねを引いて待ち受けていたんじゃないかと思われるわけ(笑)その1でアホ面を晒していた名コンビが活躍する『東海道中膝栗毛』にこんな一文があります。
『此はなしのうち由井のしゆくにつくと、両がはよりよびたつるこへ ちやや女「おはいりなさいやアせ。名物さとうもちよヲあがりやアせ。しよつぱいのもおざいやアす。お休なさいやアせ」 弥二「ヱゝやかましい女どもだ 呼たつる女の声はかみそりや さてこそ爰(ここ)は髪由井の宿」それより由井川を打越、倉沢といへる立場へつく。爰は蚫栄螺の名物にて、蜑人(あまびと)すぐに海より、取来りて商ふ。爰にてしばらく足を休めて爰もとに売るはさゞゐの壷焼や 見どころおほき倉沢の宿それより薩捶峠を打越、たどり行ほどに、俄に大雨ふりいだしけれ』
『ちやや女』とあるのは『茶屋の女』のことだと思いますが、果たして単なる茶屋の娘だったのか・・・。存在していたであろう由比宿の飯盛女ですが、宿場としての使命を終えた明治維新以降、彼女たちは何処に行ってしまったのでしょう。近くですと薩埵峠を越えた先の清水市遊廓か静岡市安倍川遊廓あたりではないかと密かに思っているわけ・・・余計なお世話ですね、こんなこと。
なんとか難所を潜り抜け、再び旧東海道に戻ってきましたよ。しばらく行きますと由比駅が見えてきます。手前にこんなゲートが・・・そのまま駅前をスルー、まだまだ旧街道を辿りますよ。
県道396号線を渡ると寺尾の集落。この辺りのほうが宿場の面影が残っているような気がします。
脇の路地を覗いてみますと、こんな左官仕上げの重々しい扉が残っておりました。
そして、見上げると橋の欄干みたいな手摺が・・・。
その全景・・・なんでしょう、コレ???
旧街道に戻り先を急ぎましょう。宿場っぽい雰囲気になってきましたよ。
・・・というか、この辺りも由比宿ということで宜しいのでしょうか。その1で紹介した蒲原宿側の入口から3キロ以上も離れているのですが・・・。
海側の一段低い場所に建っていた蔵?三つ並んだ越し屋根が目を引きます。漁業関係の施設でしょうか。
その先に見えてくるのが、東海道名主の館小池邸です。
小池家は代々寺尾集落の名主を勤めてきた由緒ある家柄なんだそうです。残念ながら建物は明治期に建てられたもののようです。現在は街道歩きを楽しむ人のための休憩所として使われています。私も休憩したかったのですが、正月だから閉まってる・・・。国の登録文化財です。
画像を開いてから気付いたのですが、美しい桟が入った窓が連続するこのお宅にも下り懸魚がありますね。
その先で家並みが途切れ一気に山道みたいな雰囲気に・・・左手の海側には東名高速に国道1号線、東海道本線が並行して走っています。山がギリギリまで迫っているためこの狭い場所しか通せなかったということなのでしょうか、なかなか見られない光景です。嘗ては此処を『下道』が通っていたのだと思います。当初はこの辺りで引き返そうと思っていたのですが、日没までもう少し進めそう、行けるところまで頑張ってみましょう。
山側は一面みかん畑ですのでこんなのがあったりします。一度乗ってみたい(笑)
ようやく次の集落が見えてきましたよ。倉沢の集落です。前書きの『東海道中膝栗毛』に出てくるアワビとサザエが名物とされるところです。
神社に立てられた大きなノボリ、結構見かけたのですが、この地域特有のものなのでしょうか。
向かい合う二軒、土蔵風の建物は用途不明です。
旧東海道脇の高台で見つけたのが冒頭画像のお魚の懸魚がある建物、西倉沢公会堂です。寄棟屋根に下見板張りですのでそれなりに歴史がある建物だと思うのですが、綺麗に塗装し直されていて年代が判断できません。
旧街道から分岐する急坂を下っていくと、土蔵の上に住宅を乗っけたような不思議な造りの建物が・・・左手は東海道本線に面しています。
所々にこんな惹かれる路地があるのですが、下っていっても現れるのは線路なんですよね・・・。
左手の平屋建ての商家は間の宿本陣跡こと川島家住宅。この倉沢集落は薩埵峠への登り口に位置しているため、休み茶屋が十軒ほど並んでいたそうです。その中でも、この川島家は集落の名主を代々勤めていたそうです。峠越えをする参勤交代の大名行列がこの店で休憩をしたため本陣と呼ばれているそうです。宿場にあるそれとは違うみたいです。
お隣には一部が土蔵造りの商家、こちらは間の宿脇本陣柏屋。こちらも茶店だったみたいですね。明治天皇御小休所跡と書かれた看板が掛けられておりました。陛下も此処で休憩されたようです。
倉沢集落の家並みが途切れました。この先は薩埵峠へ向かう急な上り坂が続くだけ・・・。
薩埵峠は歌川広重の東海道五十三次で描かれるほどの富士山を望む絶景スポット。時間があればと思っていたのですが、辿り着くのは間違いなく夜(笑)此処で引き返すことに致しましょう。
由比駅に戻る途中、道端でコレを見つけました。時計台って呼んじゃっていいのでしょうか。側面には昭和五年十二月、もう一方には退團記念と刻まれておりました。何から退団したのでしょうか・・・。
歩いているときから気になっていたのですが、どこからどこまでが由比宿だったのかということ。倉沢の集落までとなると5キロ以上・・・こんなに長い宿場ってあるのでしょうか。以上、宿場町由比の探索でした。