円窓のインパクトって強烈ですよねえ。
『秋田県遊里史』によりますと、大館は馬の飼育が盛んだったそうです。馬の競市が開かれていたのが馬口労町、市には農民や商人が集まるので、料理屋や茶屋などが続々と新規参入、自然発生的に遊里が形成されることになります。明治7年(1874)5月に『貸座敷並娼妓芸妓取締規則』が公布され、大館でも貸座敷業が許されることになります。明治31年(1898)に県立大館尋常中学校(大館鳳鳴高校)が創立されると、馬喰町の遊里は強制的に片山新道の裏に移転させられます。人家のない寂しいところでしたが、たちまち豪壮な青楼が建ち並び、町名も新富町と改められました。主なお店は加賀谷楼、宮崎楼、広島楼、高橋楼、『新富亭』、北光楼、入口には黒の大門が構えられ、桜並木が続いていたそうです。
大正8年(1919)5月27日に305戸を焼く大火が発生します。幸い遊廓地に被害はありませんでしたが、遊廓の移転問題が起きてしまいます。場所は地続きの畑でした。移転問題は難航しましたが、最終的には移転することになります。これが現在の遊廓跡として間違いないと思われます。昭和元年(1926)で業者6軒、同7年(1932)には4軒に減少、同8年(1933)には料理屋に転業し、娼妓9名は酌婦になったそうです。この転業は『秋田県公娼廃止の決議』によるものだと思います。料亭街に変わってしまった遊廓跡ですが、その後もまたもや大火に見舞われたり、戦争の影響などでゆっくりと衰退していくことになります。以上が大館に存在した遊廓の歴史になります。続いてはお馴染『全国遊廓案内』による大館の様子になります。
『大館町遊廓 秋田県大館町にあつて、鉄道は奥羽線大館駅で下車する。大館からは小坂鉄道と秋田鉄道が岐れて居る。共に鉱山鉄道である・・・大館遊廓の貸座敷数は約七軒、娼妓四十人位居・・・元来が鉱山に働く人の多い事と景気不景気に非常に影響されて町が活気も出又消沈もする。十和田湖はモーターボートで約三時間位で一周出来る正に絶景である事は御承知の事と思ふ。「おばこ何ぼになる、此年暮せば十と七つ十七ぢあなあ、おばこなぞ、何しに花など咲かねとさ、咲けばナ美もなる咲かねば日陰の色紅葉、おばこナ何処さ行く、後の小山コさほなコ折りに」』
秋田県では珍しいのではないかと思うのですが、この大館の遊廓跡、往時の町割りといいますか、所謂メインストリートが現在もはっきりと確認できるのです。地図を見ていただければ一目瞭然なのですが、花輪線東大館駅前から北へ延びる広い通りがあると思います。この通り、たぶん新しく造られたか拡幅されたのかは不明ですが、とにかく真新しいことだけは確かなのです。これを北へ辿って400mほど、幸町に入りますと・・・ほら、くっきりと遊廓特有の広い通りが横切っているのが確認できるはずです。あ、横切っているというのはちょっと違うかもしれませんね。嘗てのメインストリートを新しい通りが分断しちゃったといったほうが正しいですな。なかなかお目にかかれない光景だと思いますぞ。
東大館駅前から続く広い通りを北上・・・オオッ、見えてきた、見えてきた。まあ、実際はかなり遠くから確認できるんですけどね。左側は出来るかぎり見ないようにして・・・私、好物は最後までとっておくタイプなのです(笑)
向かって右のメインストリートからいきましょう。こう見ると、分断されているのがよく分かるのではないでしょうか。
いちばん手前にあるのが料亭柴田庵さん。詳細は不明ですが創業100年とのことですので、おそらく転業組の中の一つだと思います。建物は新しくなっており、風情的にはいまひとつ。
メインストリートの様子・・・見事な枝ぶりの桜並木が続いております。次回は開花時期に訪れたいものです。
突当りにあるが料亭北秋倶楽部さん。前書きにある新富亭の後の姿がコチラになります。
創業は明治26年(1893)という老舗。そしてかなりの大店です。残念ながらこちらも建物は新しいものでした。
塀の向こうに赤い屋根見えるのですが、別館でしょうか。庭木が邪魔して全景が分からない・・・。
Uターンして並行している路地へ・・・コチラも遺構でしょうか。全身にトタンを纏った入母屋造り、二階の連続する引き戸が気になります。
更地を挟んだお隣、コチラも正体不明。明らかなのは、遊廓時代にも存在していたはずということだけ。
その先に出窓が連続する不思議な建物があります。
こちら側も出窓がいっぱい。トタンとモルタルが半々というのも面白い。なぜか軒天はアールのついた近代建築風。現在はアパートでしょうか・・・まあ、要するに正体不明ということです。
近くにあるのが割烹末広さん、こじんまりとしたお店です。一応ネットでヒットしますが、現役かどうかは微妙な感じ。繊細な桟が入った二階の窓が美しいですね。ちょっと開いた玄関の引き戸、奥にある円形の造作が顔を覗かせておりました。
例の通りから見ますとこんな感じ。押縁下見板張りが綺麗。向こうに柴田庵さんが見えます。それではメインストリートの左側へ・・・。
最初に出会った見事な遺構、手前のカフェー風の居酒屋部分は増築されたのだと思います。コレ、いいなあ。
側面、例の通りに面した嘗ての坪庭。現在は夏草が我が物顔で茂るのみ・・・。
ついでですのでもう一方も。この側面、窓が少ないですよね。おそらく以前はお隣にも別の遺構があったのだと思います。それが例の通りを通すため壊されてしまい、見られたくない部分が露わになってしまったということなのでしょう。
蔦が這う門柱にシンプルなアーチ。アーチの片方は居酒屋部分に飲み込まれております。
反り屋根の破風、コレって何て呼べばいいのでしょう。そんなことより、見事な懸魚を観賞しましょうよ。これは素晴しいなあ。欄間と二階の窓もお忘れないように。
こちら側にも桜並木、メインストリートは突当りで右に曲がって続いておりました。
曲り角にも料亭があります。吉野屋さんです。現役かどうか・・・ウーン、どうなんでしょう。
コチラも庭木が邪魔をして全景がよく分からない・・・。
辛うじて見えた二階部分、分かりにくいと思いますが、手摺の透かし彫りは桜の花を象っているようです。状態が良好、何度か直されているのかもしれません。
向かいには割烹きらくさん。創業が昭和11年(1936)創業ですので、遊廓が廃止された後ということになりますね。お店自体は新しいものでした。
お隣には玉石が積まれたちょっと変わった塀が続いております。浮かした屋根が軽やかでいいですね。割烹濱屋さんです。看板もありませんし、ネットでもほとんど情報がありませんでしたので、すでに退役済みではないかと・・・。
赤い屋根の入母屋造り、とても雰囲気のある建物です。この遊廓跡で最も往時の面影を残しているお店ではないでしょうか。さて、そろそろ駅に戻りましょうか。でも、また単調な道を2キロを歩くのか・・・と思っていたら、タイミングよくバスが来た。
大館駅前に戻ってまいりました。次の列車までまだ時間がありますので食事ができる処をとフラフラしておりますと、お店ではなく廃業してしまったらしい映画館が・・・。『座』が落ちちゃっていますが、御成座といいます。騙し絵みたいなファサードが面白いですね。
ロビーには市松模様のタイルが使われていました。どうやら地元の有志が活用法を探っているみたい。不定期ですが、映写会なども開催されているようです。
なんてステキな造形なのでしょう。
大館駅に鶏めしという全国的に有名な駅弁があります。製造販売している花善というお店が駅前にあり、店内で鶏めし御膳という形で頂くことができます。この地方特産の曲げわっぱで供される鶏めし、甘く味付けした鶏の炊き込みご飯といえば分かりやすいでしょうか。画像は一番人気の特上鶏めし御膳、この上に特製、スペシャルというのがあるそう(笑)
その1で紹介した廃線になった小坂鉄道、以前は秋田鉄道だった花輪線、この両者、元々は鉱山のために敷かれた鉄道でした。これが大館の遊里繁栄の一因になったのでしょう。しかし、その鉱山も次々と閉山・・・一時期は秋田市に次ぐ県下第二の町だったようですが、それが信じられないほど町は寂れていました。そんな町にあの元遊廓の料亭街はあるわけです。町の現状を考えると、かなり特異な光景なのではないか・・・そんな複雑な想いがした大館の探索でした。遊廓跡も満足、お腹も満足ですので、次の目的地能代に向かうと致しましょう。