カワイイ白いパン屋さん・大火から逃れたはずなのに・色街跡に舞い降りた謎物体
加壽天似羅???一瞬、なんだか分からなかった。
前回の大館市から奥羽本線で秋田市方面に戻り、途中の東能代駅で五能線に乗り換えて一駅で能代市に到着です。米代川河口に位置する能代は、古くから貿易港として栄えた商業の町でした。また、米代川の舟運を利用した秋田杉の集積地としても名をはせた町でもあります。多くの廻船問屋や木材問屋が建ち並び、その繁栄振りはかなりのものだったとされています。各地から多くの商人などが集まる町でしたので、彼らを追う様にして遊女が集まり自然発生的に遊里が形成されたようです。遊廓関係についてはその2でお話しますので、その1では花街についてのみ記したいと思います。
『能代港は米代川の吐口の左岸に在つて、背後に砂丘を負ふてゐる態はちよつと新潟に似てゐる。港としては土崎と同様巳に時代から落伍した港であるが、米代川を筏で下してくる材木を集めて、今日は製材業に栄え、有名な秋田木材会社の如きも此町にある。曲げわつぱの大館と共に北秋田地方の二名邑で、能代春慶は昔から知られた名産であるが産額は甚だすくない。能代の花街と云ふは市街の中心地に近い柳町で、大小の料理店及び芸妓屋皆その附近に集中してゐる。現在芸妓屋二十六軒、芸妓五十八人(内半玉十八人)、料理屋十五軒・・・主なる料亭 金勇倶楽部と二葉を能代の代表的旗亭とし、共に柳町にある。金勇倶楽部最も大規模で本館別館に別れ、料理も器物も一頭地を抜いて居ると云はれるが、宴会向きの家で、二葉は庭園の清楚と座敷数の多いのを特徴としてゐる・・・花街名物 初秋の頃から当地方一般に行はれる「切たんぽ」云ふ土俗料理、それは御飯を潰して団子を作り、串に刺して焼いて蓮型に切り、鶏肉、牛蒡、茸、揚豆腐などと一緒に煮て食べる。一種の寄せ鍋のやうなもので、上戸にも下戸にも歓迎される』
以上は『全国花街めぐり』による能代の花街の様子になります。文中の柳町は、現在も町名が残っております。この柳町、元々は芸妓・娼妓が混在していた遊里でしたが、明治45年(1912)に発生した大火で大半が焼け出されてしまいます。この大火を期に、遊廓業者は移転することになり、柳町は料亭と芸妓のみという純然たる花街として存続していくことになります。文中の金勇倶楽部さんは現在も『一応』健在・・・あくまでも『一応』ですけどね・・・。
歩いていて気付いたのですが、この能代、古くからかなり栄えていた町だというのに、趣のある古い町並みが全くといっていいほど見当たらないのです。その原因は上記の大火にあると思われます。前回の大館と同じですね。特に昭和24年(1949)と同31年(1956)に発生したものは甚大でして、前者が2,238戸、後者が1,575戸の建物に被害が及んだそうです。当時の焼失区域図を眺めてみますと、市街地の六割ほどが焼けてしまったようです。きっと柳町も・・・と思ったら、これがなんと不幸中の幸いとでもいいますか、柳町と遊廓の移転先がある一画だけが奇跡的に被害が及ばなかったみたい。これはちょっと期待してもいいかも・・・。しかし、現実はそう甘くないのですよ。
駅前通りを西へ行けば柳町なのですが、まずは線路沿いの通りを北へ・・・。
少し行きますと、特徴的な塔が見えてきます。この独特な形状、どこかで見たことあるなあ。
日本聖公会能代キリスト教会、昭和7年(1932)に建てられました。外に飛び出した柱型でバットレスを表現しているのだと思います。
デカデカと糀!!
能登糀店さんです。製品に相当自信があるのでしょうね。此処で一人のお爺ちゃんに声をかけられました。最初は訛りが酷くてチンプンカンプン(笑)どうやら近くの神社に凄い大木があるから見て行けということみたい。ついでに遊里のことも訊ねてみました。まあ、これも聞き取るのに一苦労・・・簡単にまとめれば、何も残っていないぞ、芸者も『はがわ屋』も無くなっちまったとのこと。あ、『はがわ屋』についてはその2でお話しますね。最初の期待が脆くも崩れ去った瞬間でした。かなりショック。
遊里情報を教えていただいたので、言われたとおり参拝していきましょう。参道が五能線を跨いでいるのが日吉神社です。微笑ましい出来の蛇の絵が奉納されておりました。『何か発見できますように・・・』
お爺ちゃんが樹齢400年って言っていた大木ってコレかな???でも、案内板には樹齢260年のトチノキとあるのですが(笑)葉は元気に繁っておりますが、幹の大半が抉られた可哀想な姿・・・余生は長くないかも。
ご安心を、根元では二代目が育っておりました。
近くに見事な看板建築のお風呂屋さんがあります。巴湯さん、おそらく昭和初期ぐらいに建てられたものだと思います。
これぞ看板建築、素晴しい造りですなあ。巴の文字は茶のモザイクタイルで作られています。西洋のお城を模したようにも見えるのが面白いなあ。まだ14:00なのですが、気持ち良さそうにお婆ちゃんが出てきた・・・物凄く惹かれましたが、また汗だくになるから我慢我慢。
巴湯さんと同じ並びにある相澤商事さん。赤い三角屋根の可愛らしい建物です。
市役所の向かいに重厚な和風建築を見つけました。地図を見ますと竹内旅館とあります。
ぶっとい門柱は大好物の擬木、ランプみたいな照明がカワイイなあ。二重の庇、グルリと回る高欄風の手摺、一見すると料亭風にも見えるのですが、柳町からは少し離れているんだよなあ・・・。
もう一方の門柱はもっとぶっといぞ。門柱に嵌め込まれた表札、たぶん屋号が描かれていたのだと思いますが、読めないようシートが貼られているのです。どうやら廃業されてしまったみたい・・・残念ですね。
この建物、とあるブログには元廻船問屋のお店を改修したものとありました。それで納得、隆盛を誇った商業の町の遺構でもあったのです。
近くにあるのが冒頭画像の建物、エーワンベーカリーさんです。このお店、とってもカワイイのですよ。
二階の木製窓が引き戸じゃなくて開き戸というのが大変宜しいですなあ。創業が昭和7年(1932)とのことですので、お店もその当時のままなんだと思います。
レトロなショーケース、これがまたいい。後から画像を確認しましたら、あんパン50円!?デニッシュ40円!?みそパン35円!?などなど・・・なにこの価格破壊、買えばよかった。ところで、加壽天似羅・・・読めますか???
能代市役所第一庁舎・・・昭和24年に建てられたとのことですが、大火の影響は無かったのでしょうか。建物側を水下にするキャノピー、この頃の建物によく見られるものです。現役というのが素晴しいと思います。国の登録文化財です。
市役所裏手にあるのが能代市議会議事堂、昭和25年(1950)に建てられたこちらも国の登録文化財。こう見えても木造なのです。木造と聞くと、入口の石貼りの細い柱列がちょっと頼りなく見えてしまいますよね。
市役所の南側、桜並木に囲まれた広場があります。何だろうと思いましたら、こんな門が残っておりました。能代市立渟城第二小学校・・・平成19年(2007)まで小学校がありましたが、少子化などの影響で近隣の学校と合併し廃校になってしまったそうです。桜並木が見事ですので、このままほっとくのは勿体無いなあ。此処の南側が柳町になります。
小学校跡から南に伸びるのが稲荷小路、明治45年発生の大火は、此処が火元だったそうです。現在は静かな飲み屋街です。
分岐する路地に入りましたが、お爺ちゃんの言うとおり、花街的な面影はほとんど感じられません。
まあ、こういうのも好物なんですけどね。
稲荷小路がぶつかるのが柳町通り。この通り沿いが花街の中心だったのでしょう。
柳町通りから南に分岐しいているのが八幡神社への参道、奥に鳥居が見えますね。参道の左側にあるのが料亭魚松さん、右側には『全国花街めぐり』に金勇倶楽部と書かれている旧料亭金勇さんがあります。
昭和8年(1933)創業の魚松さん、お店は新しいものみたいですね。おそらくこの頃に作られたと思われる住宅地図を見つけたのですが、上記の二軒以外にもしお松、紫明館、都亭、ちょっと離れた西側に二葉といった感じで、この界隈に数軒の料亭が集まっていたようです。
問題は向かいの元金勇倶楽部の旧料亭金勇さん、なんか工事やっているのですが・・・。
結局入れず外から眺めるだけ・・・。明治23年(1890)創業、現在の建物は昭和12年(1937)に建て替えられたもの、国の登録文化財です。能代を代表する料亭でしたが『旧』とありますように、平成20年(2008)に廃業しています。その後市に寄贈され、現在は無料で見学できるみたいです。たぶんそのための工事だったみたい・・・相変わらずもっていない男です。
お爺ちゃんの言ったとおりでしたね。遺構と言えるのは二軒の料亭のみ、嘗ての隆盛はほとんど感じられなかった能代の花街跡でした。後半は花街と隣接していた遊廓跡を訪れます。多少でもいい、成果があるのといいのですが・・・。
加壽天似羅???一瞬、なんだか分からなかった。
前回の大館市から奥羽本線で秋田市方面に戻り、途中の東能代駅で五能線に乗り換えて一駅で能代市に到着です。米代川河口に位置する能代は、古くから貿易港として栄えた商業の町でした。また、米代川の舟運を利用した秋田杉の集積地としても名をはせた町でもあります。多くの廻船問屋や木材問屋が建ち並び、その繁栄振りはかなりのものだったとされています。各地から多くの商人などが集まる町でしたので、彼らを追う様にして遊女が集まり自然発生的に遊里が形成されたようです。遊廓関係についてはその2でお話しますので、その1では花街についてのみ記したいと思います。
『能代港は米代川の吐口の左岸に在つて、背後に砂丘を負ふてゐる態はちよつと新潟に似てゐる。港としては土崎と同様巳に時代から落伍した港であるが、米代川を筏で下してくる材木を集めて、今日は製材業に栄え、有名な秋田木材会社の如きも此町にある。曲げわつぱの大館と共に北秋田地方の二名邑で、能代春慶は昔から知られた名産であるが産額は甚だすくない。能代の花街と云ふは市街の中心地に近い柳町で、大小の料理店及び芸妓屋皆その附近に集中してゐる。現在芸妓屋二十六軒、芸妓五十八人(内半玉十八人)、料理屋十五軒・・・主なる料亭 金勇倶楽部と二葉を能代の代表的旗亭とし、共に柳町にある。金勇倶楽部最も大規模で本館別館に別れ、料理も器物も一頭地を抜いて居ると云はれるが、宴会向きの家で、二葉は庭園の清楚と座敷数の多いのを特徴としてゐる・・・花街名物 初秋の頃から当地方一般に行はれる「切たんぽ」云ふ土俗料理、それは御飯を潰して団子を作り、串に刺して焼いて蓮型に切り、鶏肉、牛蒡、茸、揚豆腐などと一緒に煮て食べる。一種の寄せ鍋のやうなもので、上戸にも下戸にも歓迎される』
以上は『全国花街めぐり』による能代の花街の様子になります。文中の柳町は、現在も町名が残っております。この柳町、元々は芸妓・娼妓が混在していた遊里でしたが、明治45年(1912)に発生した大火で大半が焼け出されてしまいます。この大火を期に、遊廓業者は移転することになり、柳町は料亭と芸妓のみという純然たる花街として存続していくことになります。文中の金勇倶楽部さんは現在も『一応』健在・・・あくまでも『一応』ですけどね・・・。
歩いていて気付いたのですが、この能代、古くからかなり栄えていた町だというのに、趣のある古い町並みが全くといっていいほど見当たらないのです。その原因は上記の大火にあると思われます。前回の大館と同じですね。特に昭和24年(1949)と同31年(1956)に発生したものは甚大でして、前者が2,238戸、後者が1,575戸の建物に被害が及んだそうです。当時の焼失区域図を眺めてみますと、市街地の六割ほどが焼けてしまったようです。きっと柳町も・・・と思ったら、これがなんと不幸中の幸いとでもいいますか、柳町と遊廓の移転先がある一画だけが奇跡的に被害が及ばなかったみたい。これはちょっと期待してもいいかも・・・。しかし、現実はそう甘くないのですよ。
駅前通りを西へ行けば柳町なのですが、まずは線路沿いの通りを北へ・・・。
少し行きますと、特徴的な塔が見えてきます。この独特な形状、どこかで見たことあるなあ。
日本聖公会能代キリスト教会、昭和7年(1932)に建てられました。外に飛び出した柱型でバットレスを表現しているのだと思います。
デカデカと糀!!
能登糀店さんです。製品に相当自信があるのでしょうね。此処で一人のお爺ちゃんに声をかけられました。最初は訛りが酷くてチンプンカンプン(笑)どうやら近くの神社に凄い大木があるから見て行けということみたい。ついでに遊里のことも訊ねてみました。まあ、これも聞き取るのに一苦労・・・簡単にまとめれば、何も残っていないぞ、芸者も『はがわ屋』も無くなっちまったとのこと。あ、『はがわ屋』についてはその2でお話しますね。最初の期待が脆くも崩れ去った瞬間でした。かなりショック。
遊里情報を教えていただいたので、言われたとおり参拝していきましょう。参道が五能線を跨いでいるのが日吉神社です。微笑ましい出来の蛇の絵が奉納されておりました。『何か発見できますように・・・』
お爺ちゃんが樹齢400年って言っていた大木ってコレかな???でも、案内板には樹齢260年のトチノキとあるのですが(笑)葉は元気に繁っておりますが、幹の大半が抉られた可哀想な姿・・・余生は長くないかも。
ご安心を、根元では二代目が育っておりました。
近くに見事な看板建築のお風呂屋さんがあります。巴湯さん、おそらく昭和初期ぐらいに建てられたものだと思います。
これぞ看板建築、素晴しい造りですなあ。巴の文字は茶のモザイクタイルで作られています。西洋のお城を模したようにも見えるのが面白いなあ。まだ14:00なのですが、気持ち良さそうにお婆ちゃんが出てきた・・・物凄く惹かれましたが、また汗だくになるから我慢我慢。
巴湯さんと同じ並びにある相澤商事さん。赤い三角屋根の可愛らしい建物です。
市役所の向かいに重厚な和風建築を見つけました。地図を見ますと竹内旅館とあります。
ぶっとい門柱は大好物の擬木、ランプみたいな照明がカワイイなあ。二重の庇、グルリと回る高欄風の手摺、一見すると料亭風にも見えるのですが、柳町からは少し離れているんだよなあ・・・。
もう一方の門柱はもっとぶっといぞ。門柱に嵌め込まれた表札、たぶん屋号が描かれていたのだと思いますが、読めないようシートが貼られているのです。どうやら廃業されてしまったみたい・・・残念ですね。
この建物、とあるブログには元廻船問屋のお店を改修したものとありました。それで納得、隆盛を誇った商業の町の遺構でもあったのです。
近くにあるのが冒頭画像の建物、エーワンベーカリーさんです。このお店、とってもカワイイのですよ。
二階の木製窓が引き戸じゃなくて開き戸というのが大変宜しいですなあ。創業が昭和7年(1932)とのことですので、お店もその当時のままなんだと思います。
レトロなショーケース、これがまたいい。後から画像を確認しましたら、あんパン50円!?デニッシュ40円!?みそパン35円!?などなど・・・なにこの価格破壊、買えばよかった。ところで、加壽天似羅・・・読めますか???
能代市役所第一庁舎・・・昭和24年に建てられたとのことですが、大火の影響は無かったのでしょうか。建物側を水下にするキャノピー、この頃の建物によく見られるものです。現役というのが素晴しいと思います。国の登録文化財です。
市役所裏手にあるのが能代市議会議事堂、昭和25年(1950)に建てられたこちらも国の登録文化財。こう見えても木造なのです。木造と聞くと、入口の石貼りの細い柱列がちょっと頼りなく見えてしまいますよね。
市役所の南側、桜並木に囲まれた広場があります。何だろうと思いましたら、こんな門が残っておりました。能代市立渟城第二小学校・・・平成19年(2007)まで小学校がありましたが、少子化などの影響で近隣の学校と合併し廃校になってしまったそうです。桜並木が見事ですので、このままほっとくのは勿体無いなあ。此処の南側が柳町になります。
小学校跡から南に伸びるのが稲荷小路、明治45年発生の大火は、此処が火元だったそうです。現在は静かな飲み屋街です。
分岐する路地に入りましたが、お爺ちゃんの言うとおり、花街的な面影はほとんど感じられません。
まあ、こういうのも好物なんですけどね。
稲荷小路がぶつかるのが柳町通り。この通り沿いが花街の中心だったのでしょう。
柳町通りから南に分岐しいているのが八幡神社への参道、奥に鳥居が見えますね。参道の左側にあるのが料亭魚松さん、右側には『全国花街めぐり』に金勇倶楽部と書かれている旧料亭金勇さんがあります。
昭和8年(1933)創業の魚松さん、お店は新しいものみたいですね。おそらくこの頃に作られたと思われる住宅地図を見つけたのですが、上記の二軒以外にもしお松、紫明館、都亭、ちょっと離れた西側に二葉といった感じで、この界隈に数軒の料亭が集まっていたようです。
問題は向かいの元金勇倶楽部の旧料亭金勇さん、なんか工事やっているのですが・・・。
結局入れず外から眺めるだけ・・・。明治23年(1890)創業、現在の建物は昭和12年(1937)に建て替えられたもの、国の登録文化財です。能代を代表する料亭でしたが『旧』とありますように、平成20年(2008)に廃業しています。その後市に寄贈され、現在は無料で見学できるみたいです。たぶんそのための工事だったみたい・・・相変わらずもっていない男です。
お爺ちゃんの言ったとおりでしたね。遺構と言えるのは二軒の料亭のみ、嘗ての隆盛はほとんど感じられなかった能代の花街跡でした。後半は花街と隣接していた遊廓跡を訪れます。多少でもいい、成果があるのといいのですが・・・。