いろいろと想像がふくらむ造形だと思いませんか。具体的には申しませんが・・・。
古くから貿易港として栄えた能代、遊里に関してもかなりの歴史を誇っていたようです。『秋田県遊里史』によりますと、天保13年(1842)頃で遊女屋が8軒。安政年間で揚屋14軒、抱え遊女39名、芸者26名という記録が残っているそうです。明治45年(1912)に発生した大火後、風紀上の問題から遊廓の移転問題が起こります。すったもんだの末、大正元年に県令により、芸妓娼妓が混在していたその1でレポした柳町から西側の新柳町に移転が決まります。これによって柳町は花街、新柳町は遊廓といった感じで明確な区分けがされることになります。新柳町には吉原に倣って、東西の入口に黒門を構えていたそうです。大正2年(1913)時点で貸座敷27軒、娼妓120名とのこと、かなりの規模だと思います。しかし、この遊廓も昭和8年(1933)の公娼廃止をもって消え失せる運命にありました。その直前の規模は貸座敷6軒、娼妓19人という著しい衰退ぶりでした。
『能代遊廓 秋田県能代港新柳町にあつて、鉄道は奥羽線機織駅で能代線に乗換え能代駅で下車する。能代港は、斉明天皇時代に有名な阿部此羅夫が、舟師百八十人を率ゐて、上陸したのは之の港であると言はれてゐる。従つて古くから日本海の良港として知られて居た処である。現在でも材木の集散地として有名であり、秋田木材会社の規模の莫大を見る時は、木材の能代たるを感ぜしむるに充分だ。遊廓は、妓楼約十二軒娼妓八十人位居り・・・娼妓は当地名物「秋田おばこ」が得意であるさうな』
『新柳町に遊廓があり、その門前に方言「ハガワ屋」といふ私娼専門の料理店が二十八軒、そこに五六十名からの酌婦が居つて近在の兄ちやんやプロ客を相手に相当繁昌してゐるが、私娼窟のことは茲には書くまい。能代遊廓は随分古い歴史を有し、琴曲遊女など云つてなかなか有名なものであつたが、時勢には抗することが出来ず、一流の妓楼として知られた安宅楼の如きすら、昨年六月限り廃業して料理店と早変りした位で、遠からず其の跡を絶つだらうと言はれてゐる・・・』
『市の中心柳町一帯に芸者屋二三軒あり芸妓は六八名。この街では芸者を呼ばずに、「はがわ屋」へ行く。のみ屋、おでん屋、そば屋など小料理屋の女が泊る。土地の言葉では「がわ屋」。新柳町界隈に四、五〇軒ある』
上から『全国遊廓案内』、『全国花街めぐり』、『よるの女性街・全国案内版』による新柳町の様子です。その1で出会ったお爺ちゃんが言っていた『はがわ屋』が記されていますね。公娼は廃止になってしまったけど、柳町の芸者では物足らないし、懐具合も心配だし・・・そんな男達のためにこういったお店が繁昌していたのだと思います。所謂乙種料理店みたいなものではないかと。でもそうなりますと、一見してそれと判る外観じゃないんだろうなあ。何も残っていないぞとお爺ちゃんも言っていましたし、あまり期待し過ぎると痛い目に遭いそう。さきほどから遠くで雷様が怒ってる・・・ちゃっちゃと済ませましょう。
花街跡である柳町の西、能代街道(国道101号線)の向こう側が嘗ての新柳町。現在は西通町に町名が変わっています。
南北を貫く通り沿いには飲み屋さん続いています。これらが『はがわ屋』の名残なのでしょうか。通りが広いせいなのか、あまり如何わしい感じはしませんね。前方に見える松の木が気になりますが、それは後回しにしてその先を右折すると・・・。
こんなお店が現れます。実際の『はがわ屋』がどんなものだったのか全く分かりませんが、入口を隠すようにして植えられたヤツデが物凄く気になるわけです。
近くにもう一軒、二階のウィンドウクーラーが嵌った木製窓が凄くいいぞ。
お店を閉めてからかなり時間が経過しているようです。
通りを挟むようにして松の木が二本、まるで大門みたい。『赤線跡を歩く 完結編』には、往時は柳並木が続いていたとありました。左手のお店は料亭宮茂登さん、一応ネットでヒットはしますが、どうも微妙な感じ。ひっそりと静まり返っておりました。今度はその先を左折、すると衝撃(笑撃)の物件が現れるのです。
「ハア???」思わず声が出ちゃった。酒場まきさん、何処から飛来したのでしょうね。
ちゃんとてっぺんにポッチ状のトップライトがあるわけ。いっそのこと同じお店を二つ並べちゃえばよかったのに(笑)
近くには、こんなしもた屋風の建物もあったりします。何の商売をされていたのでしょう。
路地を抜けると冒頭画像の女王様がお出迎え。
曲線に曲線を重ねるという高度なテクニックをご覧下さい(笑)安っぽいタイルがこれまたいい。飲み屋建築の自由奔放さには、ほんと毎回驚かされますなあ。
平和通り・・・『ぬけられます』状の横丁建築も発見です。
片側だけにお店が並んでいるタイプ、風情は皆無ですな。
結局これというものは発見できず、通りを更に北へ・・・。二階が妙な造りのお宅、奥行きが凄いです。入口廻りの半分アーチとガラスブロックが気になるけど・・・違うだろうなあ。
やっぱり何もない・・・お爺ちゃん、貴方が正しかったようです。まあ、こうまで何も見つからないとある意味スッキリしますな。
あ、遂に降り出しちゃった。そろそろ戻ると致しましょう・・・。
柳通りを辿って駅に向かいます。県道205号線に出る手前にあるのがたっぺの坂。由来は江戸時代、この辺りに住んでいた田端多兵衛さんにあるそうです。
県道を渡った先で摩訶不思議な造りの看板建築を見つけました。
どうやら喫茶店だったみたい。屋根の感じからして、元々は倉庫か工場だったのではないでしょうか。それを店主が自ら改修したのでは・・・と思えるほど、意味不明なデザインですな。残念ながら現役ではないみたい・・・。
忘れていました。能代と言えば能代工業高校、バスケの町でしたね。駅のホームにはゴールもありますよ。
駅前の観光案内所の看板写真。白神山地でしょうか、それと花嫁さん???謎の構図だ。コレ、どこかで見た記憶があるんだよなあ・・・。修学旅行の土産物屋でこんな絵葉書売っていませんでしたっけ???
以上で能代の探索はオシマイ。大火から逃れたはずの遊里跡でしたが、何も発見できませんでしたね。唯一の遺構(旧料亭金勇)も見学できなかったし、前回の大館が素晴しかっただけにちょっと残念でした。
とっぷり日も暮れた頃、ベースキャンプの秋田市に戻って参りました。今日の夕食は春駒食堂さん。コチラ、秋田市民のソウルフードがいただけるお店です。
コレが秋田市民のソウルフードこと肉鍋。豚バラに豆腐、ゴボウやネギやタマネギなどなどを出汁の効いた醤油味のスープで煮込んだものと言えば分かりやすいでしょうか。何かに似ている・・・あ、コレ、薄味のスキヤキだ・・・実家のスキヤキは基本豚でしたので(笑)でも、これがどうしてソウルフードなのでしょう。
明日はこの旅の最終日、土崎港と秋田市内を巡ります。ここ数日は始発に飛び乗る毎日でしたが、明日はかなり余裕をもったスケジュール・・・ゆっくり眠れそう。というわけで、これから精進落しに行って参ります。実はこれがいちばん楽しみだったりして(笑)これから旧花街である川反の眩いネオンに消えます。もちろんレポはありません、あしからず・・・。