これじゃ宿泊できませんがな・花街跡近くの赤煉瓦・どん詰まりの飲み屋横丁
常磐町近くで見つけたコチラは何だったのでしょう。
さて、長々とレポして参りました東北遊里跡巡礼の旅も、ようやく最終回となりました。最後に訪れたのは、嘗て佐竹氏の本拠地だった40万石の城下町、秋田市であります。今回の旅のベースキャンプという重要な役割を果たしてくれた町でもあります。『秋田県遊里史』によりますと、久保田(秋田市)に遊里が形成されたのは江戸時代中期以降か末期だったそうです。場所は下米二丁目、現在の大町一丁目の西端辺りとされています。隣接するように南北に長く伸びる寺町があるわけでして、此処でも宗教と遊里の不思議な関係が見られたようです。明治元年(1868)8月に発生した大火で下米町は全焼してしまいます。大火後、お上は再建を許さず、前回レポした土崎港の新柳町に吸収合併させられてしまうのです。これによって大所帯になった新柳町はたちまち大繁昌、それをお上が羨ましく思ったかどうかは知りませんが、再び下米町が遊廓地として復活することになります。大小20軒近くの揚屋が軒を連ね、中には3、40人もの娼妓を抱えているお店もあったそうです。当時の隆盛が忍ばれますね。
試練が訪れるのは明治19年(1886)のこと、再び発生した大火で遊廓地は全焼の憂き目に・・・その後、同地での再建を申出ましたが知事の許可はなかなか下りませんでした。ようやく諸問題が解決したのは明治27年(1894)、寺町を挟んだ西側の南鉄砲町に移転が決まります。下米町からは二、三丁という近場でした。俗に『常磐町』と呼ばれ、昭和元年時点で75名の娼妓が働いていたそうです。しかし、またもや大火が遊廓を襲います。昭和3年(1928)に発生したそれで2、3軒を残して遊廓はほぼ全滅・・・幸い同じ場所での再建が許されますが、数年後には公娼廃止になってしまうわけです。貸座敷業者は一斉に料理屋に転業したそうです。この常磐町、戦後も赤線として続いていたようですので、公娼廃止から戦後までの間、十数年はどういった業態だったのでしょう。やはり乙種料理店みたいなものがひっそりと営業していたのではないか・・・そう妄想すると楽しいわけです。以下は、上から『全国遊廓案内』『全国花街めぐり』による昭和初期、『よるの女性街 全国案内版』による戦後の様子になります。
『秋田市常磐遊廓 秋田県秋田市保戸野鉄砲町に在つて、奥羽線秋田駅で下車して約十二丁の処に在る。秋田は佐竹氏の旧城下で、両羽第一の都会である。市の中央を旭川が貫通して内町外町の二つに分けて居る。内町は官街、学校、兵営で、外町は賑やかな商家である。八丈織羽二重、金銀細工、秋田蕗、蕗砂糖等の産物がある。県庁、兵営、秋田鉱山専門学校等があり、旧城下の千秋公園は、東北各市の公園中で最も首位を占めるものだ。秋田には美人が多い。元市内下末町二丁目に在つた遊廓が、明治廿一年に現在の個処に移転されたもので、目下貸座敷が十軒あり、娼妓は六十人居る。何れも秋田県の女計りである・・・妓楼には、白根楼、世界楼、新し屋、蕾楼、松屋、伊勢楼、櫻屋、新開楼、栗田楼、松月楼等がある。秋田里謡に名物を唄つた物がある。「秋田名物男鹿づりコ、能代春慶、檜山ナツトー、大館曲げわつぱ」』
『常磐町遊廓 秋田市から土崎港に通ずる場末の裏町なる南鉄砲町に一廓を成し、略称して「南廓」。距離は秋田駅から約十八町・・・秋田市唯一の遊廓で、東は寺町に接し北は土崎街道の花笠町に併行し、西南は寺内村八橋田圃。寝ちよツて小田の蛙の泣き声が聞こえるといふ色街である。秋田音頭の唄に“一丁目小路の腐れナノハは、必ず買ふごて無ア、三百取られて、揚句の果には鼻までもンがれたあ”と今に囃されて居る通り、明治二十年迄は市内米町に在つたもので、ナノハは娼妓の異名である。但此唄は尚ほ謡はれるが「ナノハ」という名称は今日は最早殆んど使用されて居らぬ。現在の妓楼十二軒、娼妓約七十人。此市の遊廓としては甚だ小規模で衰運に陥りつつある。主なる妓楼 世界楼、白根屋、時田楼』
『〈赤線〉昔の常磐町遊廓。略して、“みなみ”ここも二五軒ほどのお寒さ。【親切らん】美人は多いが一体に冷い。町端れの保戸野南鉄砲町にある。市電では表鉄砲町下車』
前回の土崎港から戻ってきました。長旅の疲れがかなり・・・相変わらず残暑も厳しいし、正直言ってあまりテンションは上がっておりません。まあ、ノンビリいきましょうや。駅の西口にあるのが千秋公園、嘗ての久保田城址です。外堀?の睡蓮が満開、とても綺麗でした。
千秋公園に寄ってみましたが、暑さのため途中で断念・・・なんかだだっ広い芝生広場ばかりなんだもの。これは内堀でしょうか、ちょっと木陰で休ませてください。
そのまま常磐町を目指します。途中で見つけた一風変わった看板建築。通りのカーブに合わせたらL字プランになっちゃったという感じですかね。
オモチャの積み木みたいな装飾がカワイイですね。
旭川を渡った先にあるのが高砂堂さん、明治27年(1894)創業の老舗和菓子店です。お店は大正7年(1918)に建てられた国の登録文化財、市内では珍しいと思われる見世蔵です。寄棟屋根の棟に屋号の鏝絵が見られます。
近くにあるのが旧金子家住宅、江戸時代は質屋、明治に入ると呉服屋を営んでいた商家でした。現在の建物は大火後の明治20年(1887)に建てられたもの。平成8年(1996)に市に寄贈され、現在は背後に見える秋田市民俗芸能伝承館の一部となっており内部も見学できます。この地方の典型的な商家の造りだと思います。チラと写っておりますが、秋田市の民俗芸能といえば竿燈まつりですよね。しかし、民俗芸能より空腹が優先という私・・・近くのそば一という蕎麦屋さんで遅い昼食、後で知ったのですが結構有名なお店だったみたい。
とりあえず満たされましたので先を急ぎましょう。この通り、地元で鉄砲町通りと呼ばれているのですが、私が立っている側が嘗て常磐町だったとされる旧南鉄砲町の現旭北栄町。コチラは後ほど紹介しますが、問題は向かい側の保戸野鉄砲町なのです。
微妙な感じの看板建築の間、駐車場の奥を覗くとこんな古ぼけた建物が・・・。残念ながらこれ以上の接近は困難。結局正体不明・・・何だったのでしょう。
一本裏通りに入ったところで見つけたのが冒頭画像のお宅。一部がサイディングで包まれていましたが、奥に高欄風の手摺が残っているのお分かりになります???コチラもかなり歴史のある建物だと思います。
同じ建物の反対側・・・こっちはいい感じに草臥れた押縁下見板張り。目と鼻の先が遊廓跡ですから、気にならないというほうが可笑しいわけです。
辺りにはこんなお宅も残っておりました。秋田市を歩いて気付いたのは、歴史ある城下町だというのに、これといった古い町並みが全く残っていないのです。空襲の影響なのかなとも思ったのですが、前回の土崎港は終戦間近の8月14日に米軍最後とされる大空襲がありましたが、秋田市の中心に焼夷弾は投下されなかったようです。そうなると、前書きにもある頻繁に発生したらしい大火が原因なのでしょうか。それにしては無さ過ぎるよなあ・・・。
近くにある勝平神社、何か遊廓との繋がりを・・・無駄足に終わりました。
常磐町と呼ばれた旧南鉄砲町こと旭北栄町・・・町内を東西に貫く通り、これが嘗てのメインストリートだったのでしょうか。左手の空き地、『赤線跡を歩く 完結編』にはいわくあり気な旅館が写っていたのですが、草むらの中に焼け焦げた残骸が・・・。
その先には入母屋破風がある旅館森山さん、当初は此処をベースキャンプにしようかと思っていたわけ。でも、駅から此処まで結構距離があるんですよね。重いキャリーバッグを転がしていくのが面倒で、結局駅前のホテルにしちゃったのですが・・・。ん?なんか様子が変だぞ。
なんと、解体工事が始まっているではありませんか。これじゃ泊れませんよね。もしかすると転業旅館だったのかもしれないのに・・・。これまた『赤線跡を歩く』に載っている、向かいのしもた屋風の建物も消え失せ駐車場に変わっておりました。
森山旅館さん裏の細い路地で見つけたこんな窓。赤線時代のものかも・・・と思ったのですが、地図を見ますと床屋さんだったみたい。以上、県庁所在地の遊廓跡としてはかなり淋しい結果に終わった常磐町でした。
花街跡に向かう途中で見つけたもうやっていないと思われるアダルトショップ。このイラストの作者誰だっけ・・・。
山王大通り沿いで数奇屋造りの美しい塀に出会いました。料亭志田屋さんです。
明治9年(1876)創業、以前は別の場所にあったようです。嘗てはこれから向かう花街跡の芸者さん達も出入りしていました。竿燈まつりの際は、二階の建具を取外し即席の特等席でご覧になれるそうですぞ。
山王大通りを右折、赤れんが通りに入りました。通りの名の由来と思われるのがコチラ。秋田市立赤れんが郷土館こと旧秋田銀行本店です。
明治45年(1912)に建てられた国の重文です。銅板葺きの寄棟屋根、隅から立ち上がるルネッサンス風の塔が特徴的。一階は白の磁器質タイル、二階が赤煉瓦、コントラストが美しい近代建築なのですが、正面の並木が物凄く邪魔(笑)
見所は何と言っても嘗ての出納室。バルコニー状の回廊が取り囲む吹抜空間、天井の石膏による装飾が素晴しいなあ。
カウンターはオニックス?腰は蛇紋岩ですね。高価な石がふんだんに使われております。
首が痛くなるまで見上げておりました。
出納室には暖炉までも!?それしても見事な修復の腕です。職人さんに感謝。
こちらは頭取室、腰板や天井板、内部の建具は総ケヤキ造り、重厚な空間です。
石膏の装飾があるゲートを潜って二階へ・・・。
階段の天井のデザイン、大変宜しいと思います。
手摺のディテールです。階段の踏み面、蹴込み共大理石が使われています。豪華にすりゃいいってものではありませんが、こういった建物にはお似合いですよね。
二階の貴賓室、こちらにも暖炉があります。
最後に出納室を上から見下ろします。この建物、一見の価値有りだと思いますぞ。古い町並みもそうですが、秋田市はこういった近代建築もあまり残っていないのです。何でだろう・・・。
前半はここまで。遊廓跡は残念でした。後半では川反(かわばた)と呼ばれた文字通り川沿いの花街跡を訪ねます。
常磐町近くで見つけたコチラは何だったのでしょう。
さて、長々とレポして参りました東北遊里跡巡礼の旅も、ようやく最終回となりました。最後に訪れたのは、嘗て佐竹氏の本拠地だった40万石の城下町、秋田市であります。今回の旅のベースキャンプという重要な役割を果たしてくれた町でもあります。『秋田県遊里史』によりますと、久保田(秋田市)に遊里が形成されたのは江戸時代中期以降か末期だったそうです。場所は下米二丁目、現在の大町一丁目の西端辺りとされています。隣接するように南北に長く伸びる寺町があるわけでして、此処でも宗教と遊里の不思議な関係が見られたようです。明治元年(1868)8月に発生した大火で下米町は全焼してしまいます。大火後、お上は再建を許さず、前回レポした土崎港の新柳町に吸収合併させられてしまうのです。これによって大所帯になった新柳町はたちまち大繁昌、それをお上が羨ましく思ったかどうかは知りませんが、再び下米町が遊廓地として復活することになります。大小20軒近くの揚屋が軒を連ね、中には3、40人もの娼妓を抱えているお店もあったそうです。当時の隆盛が忍ばれますね。
試練が訪れるのは明治19年(1886)のこと、再び発生した大火で遊廓地は全焼の憂き目に・・・その後、同地での再建を申出ましたが知事の許可はなかなか下りませんでした。ようやく諸問題が解決したのは明治27年(1894)、寺町を挟んだ西側の南鉄砲町に移転が決まります。下米町からは二、三丁という近場でした。俗に『常磐町』と呼ばれ、昭和元年時点で75名の娼妓が働いていたそうです。しかし、またもや大火が遊廓を襲います。昭和3年(1928)に発生したそれで2、3軒を残して遊廓はほぼ全滅・・・幸い同じ場所での再建が許されますが、数年後には公娼廃止になってしまうわけです。貸座敷業者は一斉に料理屋に転業したそうです。この常磐町、戦後も赤線として続いていたようですので、公娼廃止から戦後までの間、十数年はどういった業態だったのでしょう。やはり乙種料理店みたいなものがひっそりと営業していたのではないか・・・そう妄想すると楽しいわけです。以下は、上から『全国遊廓案内』『全国花街めぐり』による昭和初期、『よるの女性街 全国案内版』による戦後の様子になります。
『秋田市常磐遊廓 秋田県秋田市保戸野鉄砲町に在つて、奥羽線秋田駅で下車して約十二丁の処に在る。秋田は佐竹氏の旧城下で、両羽第一の都会である。市の中央を旭川が貫通して内町外町の二つに分けて居る。内町は官街、学校、兵営で、外町は賑やかな商家である。八丈織羽二重、金銀細工、秋田蕗、蕗砂糖等の産物がある。県庁、兵営、秋田鉱山専門学校等があり、旧城下の千秋公園は、東北各市の公園中で最も首位を占めるものだ。秋田には美人が多い。元市内下末町二丁目に在つた遊廓が、明治廿一年に現在の個処に移転されたもので、目下貸座敷が十軒あり、娼妓は六十人居る。何れも秋田県の女計りである・・・妓楼には、白根楼、世界楼、新し屋、蕾楼、松屋、伊勢楼、櫻屋、新開楼、栗田楼、松月楼等がある。秋田里謡に名物を唄つた物がある。「秋田名物男鹿づりコ、能代春慶、檜山ナツトー、大館曲げわつぱ」』
『常磐町遊廓 秋田市から土崎港に通ずる場末の裏町なる南鉄砲町に一廓を成し、略称して「南廓」。距離は秋田駅から約十八町・・・秋田市唯一の遊廓で、東は寺町に接し北は土崎街道の花笠町に併行し、西南は寺内村八橋田圃。寝ちよツて小田の蛙の泣き声が聞こえるといふ色街である。秋田音頭の唄に“一丁目小路の腐れナノハは、必ず買ふごて無ア、三百取られて、揚句の果には鼻までもンがれたあ”と今に囃されて居る通り、明治二十年迄は市内米町に在つたもので、ナノハは娼妓の異名である。但此唄は尚ほ謡はれるが「ナノハ」という名称は今日は最早殆んど使用されて居らぬ。現在の妓楼十二軒、娼妓約七十人。此市の遊廓としては甚だ小規模で衰運に陥りつつある。主なる妓楼 世界楼、白根屋、時田楼』
『〈赤線〉昔の常磐町遊廓。略して、“みなみ”ここも二五軒ほどのお寒さ。【親切らん】美人は多いが一体に冷い。町端れの保戸野南鉄砲町にある。市電では表鉄砲町下車』
前回の土崎港から戻ってきました。長旅の疲れがかなり・・・相変わらず残暑も厳しいし、正直言ってあまりテンションは上がっておりません。まあ、ノンビリいきましょうや。駅の西口にあるのが千秋公園、嘗ての久保田城址です。外堀?の睡蓮が満開、とても綺麗でした。
千秋公園に寄ってみましたが、暑さのため途中で断念・・・なんかだだっ広い芝生広場ばかりなんだもの。これは内堀でしょうか、ちょっと木陰で休ませてください。
そのまま常磐町を目指します。途中で見つけた一風変わった看板建築。通りのカーブに合わせたらL字プランになっちゃったという感じですかね。
オモチャの積み木みたいな装飾がカワイイですね。
旭川を渡った先にあるのが高砂堂さん、明治27年(1894)創業の老舗和菓子店です。お店は大正7年(1918)に建てられた国の登録文化財、市内では珍しいと思われる見世蔵です。寄棟屋根の棟に屋号の鏝絵が見られます。
近くにあるのが旧金子家住宅、江戸時代は質屋、明治に入ると呉服屋を営んでいた商家でした。現在の建物は大火後の明治20年(1887)に建てられたもの。平成8年(1996)に市に寄贈され、現在は背後に見える秋田市民俗芸能伝承館の一部となっており内部も見学できます。この地方の典型的な商家の造りだと思います。チラと写っておりますが、秋田市の民俗芸能といえば竿燈まつりですよね。しかし、民俗芸能より空腹が優先という私・・・近くのそば一という蕎麦屋さんで遅い昼食、後で知ったのですが結構有名なお店だったみたい。
とりあえず満たされましたので先を急ぎましょう。この通り、地元で鉄砲町通りと呼ばれているのですが、私が立っている側が嘗て常磐町だったとされる旧南鉄砲町の現旭北栄町。コチラは後ほど紹介しますが、問題は向かい側の保戸野鉄砲町なのです。
微妙な感じの看板建築の間、駐車場の奥を覗くとこんな古ぼけた建物が・・・。残念ながらこれ以上の接近は困難。結局正体不明・・・何だったのでしょう。
一本裏通りに入ったところで見つけたのが冒頭画像のお宅。一部がサイディングで包まれていましたが、奥に高欄風の手摺が残っているのお分かりになります???コチラもかなり歴史のある建物だと思います。
同じ建物の反対側・・・こっちはいい感じに草臥れた押縁下見板張り。目と鼻の先が遊廓跡ですから、気にならないというほうが可笑しいわけです。
辺りにはこんなお宅も残っておりました。秋田市を歩いて気付いたのは、歴史ある城下町だというのに、これといった古い町並みが全く残っていないのです。空襲の影響なのかなとも思ったのですが、前回の土崎港は終戦間近の8月14日に米軍最後とされる大空襲がありましたが、秋田市の中心に焼夷弾は投下されなかったようです。そうなると、前書きにもある頻繁に発生したらしい大火が原因なのでしょうか。それにしては無さ過ぎるよなあ・・・。
近くにある勝平神社、何か遊廓との繋がりを・・・無駄足に終わりました。
常磐町と呼ばれた旧南鉄砲町こと旭北栄町・・・町内を東西に貫く通り、これが嘗てのメインストリートだったのでしょうか。左手の空き地、『赤線跡を歩く 完結編』にはいわくあり気な旅館が写っていたのですが、草むらの中に焼け焦げた残骸が・・・。
その先には入母屋破風がある旅館森山さん、当初は此処をベースキャンプにしようかと思っていたわけ。でも、駅から此処まで結構距離があるんですよね。重いキャリーバッグを転がしていくのが面倒で、結局駅前のホテルにしちゃったのですが・・・。ん?なんか様子が変だぞ。
なんと、解体工事が始まっているではありませんか。これじゃ泊れませんよね。もしかすると転業旅館だったのかもしれないのに・・・。これまた『赤線跡を歩く』に載っている、向かいのしもた屋風の建物も消え失せ駐車場に変わっておりました。
森山旅館さん裏の細い路地で見つけたこんな窓。赤線時代のものかも・・・と思ったのですが、地図を見ますと床屋さんだったみたい。以上、県庁所在地の遊廓跡としてはかなり淋しい結果に終わった常磐町でした。
花街跡に向かう途中で見つけたもうやっていないと思われるアダルトショップ。このイラストの作者誰だっけ・・・。
山王大通り沿いで数奇屋造りの美しい塀に出会いました。料亭志田屋さんです。
明治9年(1876)創業、以前は別の場所にあったようです。嘗てはこれから向かう花街跡の芸者さん達も出入りしていました。竿燈まつりの際は、二階の建具を取外し即席の特等席でご覧になれるそうですぞ。
山王大通りを右折、赤れんが通りに入りました。通りの名の由来と思われるのがコチラ。秋田市立赤れんが郷土館こと旧秋田銀行本店です。
明治45年(1912)に建てられた国の重文です。銅板葺きの寄棟屋根、隅から立ち上がるルネッサンス風の塔が特徴的。一階は白の磁器質タイル、二階が赤煉瓦、コントラストが美しい近代建築なのですが、正面の並木が物凄く邪魔(笑)
見所は何と言っても嘗ての出納室。バルコニー状の回廊が取り囲む吹抜空間、天井の石膏による装飾が素晴しいなあ。
カウンターはオニックス?腰は蛇紋岩ですね。高価な石がふんだんに使われております。
首が痛くなるまで見上げておりました。
出納室には暖炉までも!?それしても見事な修復の腕です。職人さんに感謝。
こちらは頭取室、腰板や天井板、内部の建具は総ケヤキ造り、重厚な空間です。
石膏の装飾があるゲートを潜って二階へ・・・。
階段の天井のデザイン、大変宜しいと思います。
手摺のディテールです。階段の踏み面、蹴込み共大理石が使われています。豪華にすりゃいいってものではありませんが、こういった建物にはお似合いですよね。
二階の貴賓室、こちらにも暖炉があります。
最後に出納室を上から見下ろします。この建物、一見の価値有りだと思いますぞ。古い町並みもそうですが、秋田市はこういった近代建築もあまり残っていないのです。何でだろう・・・。
前半はここまで。遊廓跡は残念でした。後半では川反(かわばた)と呼ばれた文字通り川沿いの花街跡を訪ねます。