飯盛女由来の遊廓跡・£遊びは止めましょう・千曲川を跨ぐコンクリートアーチ
ほんの僅かですが宿場の面影、感じることができました。
今回からお届けするのは久しぶりの信州長野シリーズ。最近のマイブームである『知られざる遊里』を発見か!?なんてものも織り交ぜながらレポしていきたいと思います。まずは長野県のほぼ中央部に位置する坂城町から・・・有力豪族である村上氏発祥の地であり、旧北国街道の宿場として栄えた町でした。当時は坂城ではなく坂木宿と呼ばれていました。この地に宿場が置かれたのは慶長8年(1603)のこと、旧北国街道では最も古く、そして随一の規模を誇った宿場でした。最盛期には100軒を越す旅籠が並んでいたそうです。
旅籠とくれば飯盛女・・・万治3年(1660)に新町と大門町、その後宝永年間(1704〜1710)に立町と横町にも飯盛女を置くことが許されます。これは権堂村(長野市)と並ぶ早さだったそうで、それだけこの宿場が重要だったという証拠なのかもしれません。これが後の遊廓の由来になったというのは言うまでもありません。しかし、明治に入り宿場が使命を終え、続いて信越線が開通すると町は一気に寂れていくことになります。現在は町というよりも山あいの静かな集落といった印象・・・隆盛を誇った宿場の面影も何処という感じみたい。まあ、それでも僅かながら残ってはいるようですので、それらを探しながらフラフラ彷徨ってみましょうか。以下は『全国遊廓案内』による遊廓の様子になります。
『坂城町遊廓 長野県埴科郡坂城町字坂城新地に在つて、信越線坂城駅から半丁と距つて居ない。坂城は千曲川の沿岸に在つて「岩鼻や茲処にも月の友一人」と芭蕉が詠じた処があつて、殊に「横吹」の勝地や、笄の渡場附近が風光優美である。昔は御天領の地で、宿場女郎の時代には、娼家が六十戸もあつて、素晴らしい発展振りだつたが、明治十二年に現在の個所に移転を命ぜられ、集娼制に成つてからは急に淋れて、現在は貸座敷が七軒あつて、娼妓は五十人居る。娼妓は全部居ぎ制で送り込みはやらない・・・内芸妓が居て、頻りと土地の民謡を宣伝して居る。殊に芝居踊りが評判だ。安価で、純で、のんびりした処である。坂城音頭「坂城ヨイトコ信州一よ、雲の降るのに花が咲く」ヨイヨイヨイヨイヨイトサア「坂城ヨイトコ千曲の流れ、鮎の名物河鹿鳴く」ヨイヨイヨイヨイヨイトサア』
初めて『週末パス』なるフリーパスを利用してみました。土日の二日間、¥8,500で普通列車が乗り放題ってやつなのですが、私のような途中駅でそれなりに滞在してしまう人間にとっては元を取るのが相当大変なんですよね。コレ、乗り鉄以外使いこなせないよなあなどと思いながら東京から五時間半、ようやく坂城駅に到着です。
まずは坂木宿のことを知るために駅前通り(県道339号線)を真っ直ぐ、この通り自体が旧北国街道になります。すぐに独特な長屋門が見えてきます。旧本陣の宮原家住宅、現在は坂木宿ふるさと歴史館という施設になっています。この門は江戸後期に建てられたものだそうです。
門を潜ると母屋があります。こちらは昭和4年(1929)に建てられました。
入母屋造り三階建ての立派なものです。
坂木宿のジオラマが展示されていました。青点線が旧北国街道、白点線がしなの鉄道、?現在地(本陣跡)、?坂城駅、?横町、?立町、?大門町、?新町、?坂城神社、?大英寺、?千曲川、?坂木陣屋跡になります。面白いのが旧北国街道の線形、なんでこんなに曲り角があるのでしょうね。そんなことより重要なのは遊廓のこと、前書きの『全国遊廓案内』に旅籠の飯盛女が明治になって一廓に集められたとあります。その場所とは横町の陣屋跡附近、?の処なのです。駅の真ん前なんだ・・・これだけ交通の便の良い遊里も珍しいのではないでしょうか。とりあえずそこに行ってみましょう。
来た道を戻って駅前へ、横町はこんな感じ。もちろんこの通り(県道160号線)も旧北国街道になります。
旧街道は横町通りとも呼ばれ当時の目抜き通りだったはず、そういった場所に面して貸座敷が並んでいたとは思えない・・・となると、此処しかない。地図を見ますと、旧街道としなの鉄道に挟まれた一画、駅前広場面して陣屋があったようですが、そこから妙な通りが延びているのです。この路地を抜けた先がそれなのですが・・・。
通りに出る前にこんな手摺が現れた。軒もそうなのですが、かなり出が大きい。バルコニー並みですな。
その全景、なんとも判断しずらい建物です。明らかなのは、遊廓があった頃には存在していたであろうということだけ。
結局、通りにこれこそと断定できるようなものは発見できませんでした。
妙な通りと言った理由はコレ。突当りがこんな状態、丁字路になっていて両側に分岐しているのは細い路地、広い幅員は此処でバッサリ終わっているのです。メインストリートだったのかも・・・。
突き当りには歴史がありそうな石垣の上にお城の狭間みたいな孔がポツリポツリ。コレ、塀ではなくて、どうやら蔵みたい。
そのまま片方の路地を辿っていくとこんな光景が現れます。写っている土蔵は横町通りに面した商家のものです。
横町通りに戻ってきました。宿場時代を忍ばせるのはこの土蔵ぐらいでしょうか。
念のため横町通りの北側も探索してみましたが収穫はありませんでした。まあ、これはこれで好きなんですけどね。
横町通りの終点にある西宮神社、向かいのたぶん宿場時代からのものと思われる商家?が凄い。元々は茅葺屋根だったと思われます。
旧本陣宮原家住宅前の通りに戻って今度は山の方(北)へ・・・ようやく元宿場に相応しい町並みが現れ始めましたよ。
鏝絵のとおりコチラは坂田家住宅、嘗ては名主を務めていたそうです。越し屋根と棟瓦が美しいですね。
向かいにはきっちりとリフォームされたお宅、大切にされているようです。三階建てに見えますが、此処は長野県、おそらく最上階はお蚕さんの部屋だと思われます。卯建もお見逃しないように。
日名沢川を渡ると大門町、山に向かう緩やかな登り坂が続いています。宿場の面影がいちばん残っている場所ではないでしょうか。
元旅籠が混じっているのかは分かりませんが、もしかするとどれかで飯盛女が・・・そう考えると感慨深いものがありますなあ。
それにしても手前のお宅、円窓がデカイ(笑)
卯建、門、板塀、瓦・・・織り成す構成美です。
連続する格子戸が壮観なのは山浦家住宅、これに唐破風でもあったらまさに妓楼そのものですな。コチラにもお蚕さんの部屋があるようです。奥の赤い屋根は元茅葺屋根だと思われます。
その先で旧北国街道は左折、新町に入ります。此処で暫し旧街道とはお別れ、真っ直ぐ山に向かいます。
通りをこんな鳥居が跨いでいます。突当りにある坂城神社の参道でもあるのです。
坂城神社・・・創建は定かではないようですが、白鳳2年(673)に本殿が奉納されたと伝えられています。現在の拝殿は武田信玄が寄進したものだとか。境内にはなぜか相撲の土俵が・・・。
坂城神社の脇にはこんな崩れ掛けの門が残っています。奥にある大英寺のものなのですが・・・。
なぞの注意書きが・・・『シンナーポンド遊びはやめましょう』新しいFXか外国為替か、はたまた今話題のビットコインか・・・まあ、FXもビットコインも書いている本人は全く分からないのですがね。いずれにしろポンド遊びはいけません。
大英寺・・・下調べの段階で地図を眺めていますと、池の向こうにお寺があることに気付きました。面白い光景が見られるんじゃないかとノコノコやって来たのですが・・・想像とはかなりかけ離れていた・・・うまくいかないものですね。
本堂は最近になって建て替えたみたい。嘗てのものと思われる鯱・・・というよりもお寺ですので鴟尾と言ったほうが正しいかな・・・が飾られておりました。『ポンド遊び』のところに戻って引き返そうと思っていると、坂城神社裏手の山道を下ってきた山ガールと呼ぶにはかなり失礼かと思われるお姉様二人組(笑)に声を掛けられました。この先に見晴らしの良い場所があるとのこと。それではせっかくなので・・・。
これがとんでもない急坂・・・ヒイヒイ言いながら登りきった先の光景。ちょっと煙っていましたが、坂城町を一面に見渡すことができました。紅葉は終わりを迎えていましたが、ケヤキの大木が見事でした。右端に大きく蛇行する水面が見えますが、あれが千曲川です。
その千曲川を跨いでいるコレがこれから向かう場所。息が整わないまま手持ちで300ミリ、これが限界です。
戻る途中、坂城神社脇の玉垣に、隣町の遊廓の名前が刻まれていることに気付きました。右には妓楼の屋号もありますね。上田市は二度訪れておりますが、未だに遊廓の場所がはっきりしていなんだよなあ。
旧北国街道に戻り、今度は新町に入りました。妙に広い幅員・・・最初に地図を見たとき此処が遊廓跡か!?と思いっきり勘違いしたのは内緒の話。
旧街道は駅方面に戻るように再び直角に左折、その先の四つ辻にコレが建っています。善光寺常夜灯、たぶん善光寺参りの旅人のための道標だったのでしょう。明りが点きっぱなしなんですけど・・・。此処で旧北国街道とはお別れ。
しなの鉄道を渡って千曲川を目指します。
山の紅葉は終わりかけでしたが、コチラは今が盛り。
坂城神社裏手の高台から見えたのがコレ、昭和橋といいます。昭和12年(1937)竣工、設計は長野県道路技師の中島武。全長500メートル、9つのアーチで千曲川を跨いでいます。鉄骨造によるこういった連続アーチ橋はよく見かけますが、鉄筋コンクリート造でこの規模はかなり珍しいと思います。平成14年に土木学会の選奨土木遺産に選定されています。
もちろん現役ですが、乗用車のすれ違いがやっという幅員です。鉄筋コンクリート造にしたのは、戦争による鋼材不足という時代背景があったようです。補修の跡が目立ちますが、荒々しいコンクリートの質感が堪りませんなあ。
最後に駅前の居酒屋で坂城町の郷土料理おしぼりうどんをいただきました。ねずみ大根という辛〜い大根をおろした絞り汁で食べるうどんです。付属される味噌で辛さを調整します。長野県には同じ方法で食べる蕎麦もありますよね。辛いの大の苦手でして、戦々恐々で口にしたのですが・・・あら意外、これ結構いけます。一口目は盛大に噎せましたけど・・・。
以上で旧北国街道最大の宿場町だった坂城の探索はオシマイ。次回は6年ぶりの小諸をつるべ落としの太陽と競争しながら彷徨います。文献に載っていない遊廓跡を訪れ歓喜、赤線跡かも!?という一画の惨状に絶句という忙しいものですが・・・。
ほんの僅かですが宿場の面影、感じることができました。
今回からお届けするのは久しぶりの信州長野シリーズ。最近のマイブームである『知られざる遊里』を発見か!?なんてものも織り交ぜながらレポしていきたいと思います。まずは長野県のほぼ中央部に位置する坂城町から・・・有力豪族である村上氏発祥の地であり、旧北国街道の宿場として栄えた町でした。当時は坂城ではなく坂木宿と呼ばれていました。この地に宿場が置かれたのは慶長8年(1603)のこと、旧北国街道では最も古く、そして随一の規模を誇った宿場でした。最盛期には100軒を越す旅籠が並んでいたそうです。
旅籠とくれば飯盛女・・・万治3年(1660)に新町と大門町、その後宝永年間(1704〜1710)に立町と横町にも飯盛女を置くことが許されます。これは権堂村(長野市)と並ぶ早さだったそうで、それだけこの宿場が重要だったという証拠なのかもしれません。これが後の遊廓の由来になったというのは言うまでもありません。しかし、明治に入り宿場が使命を終え、続いて信越線が開通すると町は一気に寂れていくことになります。現在は町というよりも山あいの静かな集落といった印象・・・隆盛を誇った宿場の面影も何処という感じみたい。まあ、それでも僅かながら残ってはいるようですので、それらを探しながらフラフラ彷徨ってみましょうか。以下は『全国遊廓案内』による遊廓の様子になります。
『坂城町遊廓 長野県埴科郡坂城町字坂城新地に在つて、信越線坂城駅から半丁と距つて居ない。坂城は千曲川の沿岸に在つて「岩鼻や茲処にも月の友一人」と芭蕉が詠じた処があつて、殊に「横吹」の勝地や、笄の渡場附近が風光優美である。昔は御天領の地で、宿場女郎の時代には、娼家が六十戸もあつて、素晴らしい発展振りだつたが、明治十二年に現在の個所に移転を命ぜられ、集娼制に成つてからは急に淋れて、現在は貸座敷が七軒あつて、娼妓は五十人居る。娼妓は全部居ぎ制で送り込みはやらない・・・内芸妓が居て、頻りと土地の民謡を宣伝して居る。殊に芝居踊りが評判だ。安価で、純で、のんびりした処である。坂城音頭「坂城ヨイトコ信州一よ、雲の降るのに花が咲く」ヨイヨイヨイヨイヨイトサア「坂城ヨイトコ千曲の流れ、鮎の名物河鹿鳴く」ヨイヨイヨイヨイヨイトサア』
初めて『週末パス』なるフリーパスを利用してみました。土日の二日間、¥8,500で普通列車が乗り放題ってやつなのですが、私のような途中駅でそれなりに滞在してしまう人間にとっては元を取るのが相当大変なんですよね。コレ、乗り鉄以外使いこなせないよなあなどと思いながら東京から五時間半、ようやく坂城駅に到着です。
まずは坂木宿のことを知るために駅前通り(県道339号線)を真っ直ぐ、この通り自体が旧北国街道になります。すぐに独特な長屋門が見えてきます。旧本陣の宮原家住宅、現在は坂木宿ふるさと歴史館という施設になっています。この門は江戸後期に建てられたものだそうです。
門を潜ると母屋があります。こちらは昭和4年(1929)に建てられました。
入母屋造り三階建ての立派なものです。
坂木宿のジオラマが展示されていました。青点線が旧北国街道、白点線がしなの鉄道、?現在地(本陣跡)、?坂城駅、?横町、?立町、?大門町、?新町、?坂城神社、?大英寺、?千曲川、?坂木陣屋跡になります。面白いのが旧北国街道の線形、なんでこんなに曲り角があるのでしょうね。そんなことより重要なのは遊廓のこと、前書きの『全国遊廓案内』に旅籠の飯盛女が明治になって一廓に集められたとあります。その場所とは横町の陣屋跡附近、?の処なのです。駅の真ん前なんだ・・・これだけ交通の便の良い遊里も珍しいのではないでしょうか。とりあえずそこに行ってみましょう。
来た道を戻って駅前へ、横町はこんな感じ。もちろんこの通り(県道160号線)も旧北国街道になります。
旧街道は横町通りとも呼ばれ当時の目抜き通りだったはず、そういった場所に面して貸座敷が並んでいたとは思えない・・・となると、此処しかない。地図を見ますと、旧街道としなの鉄道に挟まれた一画、駅前広場面して陣屋があったようですが、そこから妙な通りが延びているのです。この路地を抜けた先がそれなのですが・・・。
通りに出る前にこんな手摺が現れた。軒もそうなのですが、かなり出が大きい。バルコニー並みですな。
その全景、なんとも判断しずらい建物です。明らかなのは、遊廓があった頃には存在していたであろうということだけ。
結局、通りにこれこそと断定できるようなものは発見できませんでした。
妙な通りと言った理由はコレ。突当りがこんな状態、丁字路になっていて両側に分岐しているのは細い路地、広い幅員は此処でバッサリ終わっているのです。メインストリートだったのかも・・・。
突き当りには歴史がありそうな石垣の上にお城の狭間みたいな孔がポツリポツリ。コレ、塀ではなくて、どうやら蔵みたい。
そのまま片方の路地を辿っていくとこんな光景が現れます。写っている土蔵は横町通りに面した商家のものです。
横町通りに戻ってきました。宿場時代を忍ばせるのはこの土蔵ぐらいでしょうか。
念のため横町通りの北側も探索してみましたが収穫はありませんでした。まあ、これはこれで好きなんですけどね。
横町通りの終点にある西宮神社、向かいのたぶん宿場時代からのものと思われる商家?が凄い。元々は茅葺屋根だったと思われます。
旧本陣宮原家住宅前の通りに戻って今度は山の方(北)へ・・・ようやく元宿場に相応しい町並みが現れ始めましたよ。
鏝絵のとおりコチラは坂田家住宅、嘗ては名主を務めていたそうです。越し屋根と棟瓦が美しいですね。
向かいにはきっちりとリフォームされたお宅、大切にされているようです。三階建てに見えますが、此処は長野県、おそらく最上階はお蚕さんの部屋だと思われます。卯建もお見逃しないように。
日名沢川を渡ると大門町、山に向かう緩やかな登り坂が続いています。宿場の面影がいちばん残っている場所ではないでしょうか。
元旅籠が混じっているのかは分かりませんが、もしかするとどれかで飯盛女が・・・そう考えると感慨深いものがありますなあ。
それにしても手前のお宅、円窓がデカイ(笑)
卯建、門、板塀、瓦・・・織り成す構成美です。
連続する格子戸が壮観なのは山浦家住宅、これに唐破風でもあったらまさに妓楼そのものですな。コチラにもお蚕さんの部屋があるようです。奥の赤い屋根は元茅葺屋根だと思われます。
その先で旧北国街道は左折、新町に入ります。此処で暫し旧街道とはお別れ、真っ直ぐ山に向かいます。
通りをこんな鳥居が跨いでいます。突当りにある坂城神社の参道でもあるのです。
坂城神社・・・創建は定かではないようですが、白鳳2年(673)に本殿が奉納されたと伝えられています。現在の拝殿は武田信玄が寄進したものだとか。境内にはなぜか相撲の土俵が・・・。
坂城神社の脇にはこんな崩れ掛けの門が残っています。奥にある大英寺のものなのですが・・・。
なぞの注意書きが・・・『シンナーポンド遊びはやめましょう』新しいFXか外国為替か、はたまた今話題のビットコインか・・・まあ、FXもビットコインも書いている本人は全く分からないのですがね。いずれにしろポンド遊びはいけません。
大英寺・・・下調べの段階で地図を眺めていますと、池の向こうにお寺があることに気付きました。面白い光景が見られるんじゃないかとノコノコやって来たのですが・・・想像とはかなりかけ離れていた・・・うまくいかないものですね。
本堂は最近になって建て替えたみたい。嘗てのものと思われる鯱・・・というよりもお寺ですので鴟尾と言ったほうが正しいかな・・・が飾られておりました。『ポンド遊び』のところに戻って引き返そうと思っていると、坂城神社裏手の山道を下ってきた山ガールと呼ぶにはかなり失礼かと思われるお姉様二人組(笑)に声を掛けられました。この先に見晴らしの良い場所があるとのこと。それではせっかくなので・・・。
これがとんでもない急坂・・・ヒイヒイ言いながら登りきった先の光景。ちょっと煙っていましたが、坂城町を一面に見渡すことができました。紅葉は終わりを迎えていましたが、ケヤキの大木が見事でした。右端に大きく蛇行する水面が見えますが、あれが千曲川です。
その千曲川を跨いでいるコレがこれから向かう場所。息が整わないまま手持ちで300ミリ、これが限界です。
戻る途中、坂城神社脇の玉垣に、隣町の遊廓の名前が刻まれていることに気付きました。右には妓楼の屋号もありますね。上田市は二度訪れておりますが、未だに遊廓の場所がはっきりしていなんだよなあ。
旧北国街道に戻り、今度は新町に入りました。妙に広い幅員・・・最初に地図を見たとき此処が遊廓跡か!?と思いっきり勘違いしたのは内緒の話。
旧街道は駅方面に戻るように再び直角に左折、その先の四つ辻にコレが建っています。善光寺常夜灯、たぶん善光寺参りの旅人のための道標だったのでしょう。明りが点きっぱなしなんですけど・・・。此処で旧北国街道とはお別れ。
しなの鉄道を渡って千曲川を目指します。
山の紅葉は終わりかけでしたが、コチラは今が盛り。
坂城神社裏手の高台から見えたのがコレ、昭和橋といいます。昭和12年(1937)竣工、設計は長野県道路技師の中島武。全長500メートル、9つのアーチで千曲川を跨いでいます。鉄骨造によるこういった連続アーチ橋はよく見かけますが、鉄筋コンクリート造でこの規模はかなり珍しいと思います。平成14年に土木学会の選奨土木遺産に選定されています。
もちろん現役ですが、乗用車のすれ違いがやっという幅員です。鉄筋コンクリート造にしたのは、戦争による鋼材不足という時代背景があったようです。補修の跡が目立ちますが、荒々しいコンクリートの質感が堪りませんなあ。
最後に駅前の居酒屋で坂城町の郷土料理おしぼりうどんをいただきました。ねずみ大根という辛〜い大根をおろした絞り汁で食べるうどんです。付属される味噌で辛さを調整します。長野県には同じ方法で食べる蕎麦もありますよね。辛いの大の苦手でして、戦々恐々で口にしたのですが・・・あら意外、これ結構いけます。一口目は盛大に噎せましたけど・・・。
以上で旧北国街道最大の宿場町だった坂城の探索はオシマイ。次回は6年ぶりの小諸をつるべ落としの太陽と競争しながら彷徨います。文献に載っていない遊廓跡を訪れ歓喜、赤線跡かも!?という一画の惨状に絶句という忙しいものですが・・・。