巨匠の佳作・川っぺりのドライフラワーと廃屋・色街跡?謎の一画の惨状
古からそこに置かれていたように見えるのです。
しなの鉄道で約30分、小諸に到着です。6年ぶりになりますか・・・前回は隣町の上田とセットだったのですが、レンズにトラブルが発生してしまい、サブの魚眼レンズを使うしかなくなってしまったのです。魚眼レンズってアクセントにはいいかもしれませんが、こういったものにフルで使うものではないとつくづく思い知らされました。冷たい雨にも降られて中途半端な探索になってしまい、いつかリベンジしたいと思っておりました。遊里の場所も分かりませんでしたしね。あ、当時はこういったものにはそこまで興味は無かったなあ・・・。
小諸市は牧野氏が治めた城下町、旧北国街道の宿場町、周辺からの物資が集まる商業の町、といった感じで三つの顔を持つ町でした。小諸藩の藩都でもありましたからそれなりに栄えていたのだと思います。でも、遊里に関する記述などがほとんど見つからない不思議な町なのです。宿場でしたから、前回の坂城と同様に飯盛女も間違いなく置いていたはずなのですがね。ちなみに手前の旧中山道から分岐する追分宿には飯盛女の証文などが残っているそうです。その飯盛女由来の遊里が形成されたはずだと睨んでいたのですが・・・。こういった所謂悪所って町にとっては黒歴史と考えられることもあるのではないか・・・町はそのことを意図的に隠しているのではないか・・・というのは勘ぐりすぎですね(笑)まあ、結論から言えば公許の遊里は存在しなかったということになるのだと思います。これはマイブームの『知られざる遊里』ということになるのかと。存在していればの話ですぞ。ですので、いつもの『全国遊廓案内』や『全国花街めぐり』といった文献の抜粋はございません、あしからず。
註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
駅前広場脇に前回は無かった公園ができていましたが、コチラ健在。レトロなお店、レストランさかいさん。一階の土産物屋は現役ですが、二階のレストランはもうやっていないのです。此処入りたかったなあ。
このお店、松本英子著『謎のあの店』第一巻に『レストランむかい』の名で出てきます。
小諸駅のホーム脇に赤煉瓦の小屋が残っています。客室などのランプの灯油を保管していた油庫です。明治42年(1909)に建てられました。
地下道でしなの鉄道を潜ると小諸城址、現在は懐古園という公園として整備されています。入口を兼ねているのは小諸城三の門です。明和3年(1766)に建てられた国の重文です。
懐古園には入らず脇の通りを奥へ行くと、グネグネとうねるスタッコ仕上の外壁が見えてきます。小諸市立小山敬三美術館、昭和50年(1975)竣工、小山敬三は小諸出身の洋画家です。
設計は村野藤吾、巨匠と呼ばれている方ですのでご存知の方も多いかと。古代遺跡というか・・・岩船でしたっけ?山頂に謎の巨岩が!?みたいな・・・あれが最初に思い浮かびました。
今や設計はほぼ100%CADですが、私はギリギリ手書き世代。このフリーハンド的な曲線の苦労よく分かるわけです。気に入っているのが軽やかな屋根というか、建物全体を覆っているわけではないので笠木といったほうが正しいですね。ちょっと浮かした感じが大変宜しい。
個人的には京都宝ヶ池プリンスホテルと大阪なんば新歌舞伎座が傑作だと思っていますので、コチラはそこまでいっていないかな・・・佳作ということで。近代建築や名も無き看板建築には簡単に感動してしまう人間ですが、現代建築にはちょっと辛口なのです(笑)
敷地は小諸城址の一部になっているようでして、背後は崖に面しています。千曲川を望むことができました。
旧北国街道(県道40号線)に出ました。しなの鉄道の高架脇の高台に建つ謎の洋館、これ以上の詳細は分かりませんが、次に紹介する旧本陣と同じ敷地にあるのかもしれません。
コチラが国の重文、旧小諸宿本陣問屋。前回も紹介しましたね。江戸後期のものと伝えられています。妻入りの豪壮な造りですなあ。旧北国街道は加賀百万石の前田の殿様も参勤交代で通った街道、それらに対応できる本陣が必要だったわけです。
その先にあるのが粂屋・旧脇本陣、こちらも江戸後期のものみたいです。脇本陣ですので、大名の宿泊がない場合は一般の旅人も泊まれたはずです。中庭の奥には上客用の美しい造りの離れがあるそうです。見てみたいなあ。
桧皮葺の屋根付き看板、看板自体はありませんけどね。
小諸城址の大手門を忘れていた・・・前回のときは補修工事か何かで足場が組まれていて見られなかったのです。三の門と同じく国の重文、慶長17年(1612)に建てられました。この大手門と三の門との間をしなの鉄道が通っているわけ、結構珍しい状況なのではないでしょうか。
大手門を抜けたら駅前に戻ってしまった。背後がさきほどのレストランさかいさんです。右側の看板建築、変だと思いませんか???こちら側の壁が傾いているのです。二階のサッシ上端が段々になっているのお分かりになります???建物自体が傾いているわけではなく、最初からこの状態だったようなのですが・・・何だコレ。
向かいの登喜和食堂さんが素晴らしい佇まい。しかも現役!?
駅前のゴチャゴチャした一画に、前回足を踏み入れなかった通りがあることに気付きました。
地図にも載っていないこんな路地があったりして、これはめっけものだとホクホクしていたら、背後から声をかけられました。振り向くと渋い和服姿のお母さん、私が邪魔だったみたい・・・。
お母さんに遊廓のことを教えていただきました。お母さんは遊廓ではなく芸者さんがいた、料理屋なんかもあったと仰っていましたが、ちょっとあやふやな部分も・・・場所は成就寺の門前とのこと・・・これが『知られざる遊里』なのでしょうか。とにかく行ってみましょう。
と、その前に・・・。
前回偶然見つけた国道141号線沿いにあるどん詰まりの飲み屋街に寄っていきましょう。手前の一見カフェー風のパーマ屋さんは健在。
この窓には気付かなかった。
店子は変わっているようですが、雰囲気は以前のままでした。
何処で撮ったのか全く覚えていない一枚、たぶん旧北国街道に戻る途中だと思います。
旧北国街道に戻ってきました。本町二丁目と三丁目、この界隈がいちばん古い町並みが残っていると思います。とはいえ、ジックリ巡っている時間がないのが残念。萬屋骨董店さん・・・元々は小諸銀行だった建物を使っています。明治十年代後半に建てられたものだそうで、国の登録文化財です。
向かいは結城屋大塚味噌醤油店、奥の平入りの母屋は江戸後期、手前の袖蔵は明治に建てられたものだそうです。
その先にある見世蔵風のギャラリーつたやさん、元々は旅籠時代から300年続いた旅館だったそうです。遊廓があったらしい成就寺へは左に入ります。
つたやさん裏手に続く土蔵、この土蔵なりに行くと成就寺なのですが、この通りの名前が大門小路、そして左に行くのが祇園坂・・・いろいろと想像が膨らむ名前ではありませんか。
しかし、大門小路沿いにはコレといったものは発見できず・・・奥に小さく見えるのが成就寺の山門です。
一瞬、遊里アンテナが反応を示したのですが・・・違ったみたい。
強いていえばコチラの袖卯建のある土蔵風のお宅・・・いや、これも違うような気がする。
そうこう迷っているうちに成就寺の門前に着いちゃった。ふと視線を動かすと気になる物件が・・・トタンサイディングで直されていますが、かなり歴史がありそう。
なんと、破風の部分が『ぬけられます』状態。これは面白い。
そのままグルリと回り込んでL字型のプランになっているようですね。
庇にはこんな雲形の持ち送りも残っていました。だからといって遺構だとは断定できないわけ・・・難しいなあ。
通りを挟んだ隣にもこんな物件が・・・もしかしてって場所に来るとみんなソレに見えちゃう、困ったものですね。結局、そうだったのか違うのか・・・正直言って遊里跡特有の空気みたいなものはあまり感じられませんでした。
その1はここまで、ちなみに祇園坂とありましたが、あれは坂の先の建速神社で行なわれる祇園祭からきているみたいです。なんだか中途半端な結果になっちゃいましたが、小諸にはもう一ヶ所興味深い場所があるのです。再訪したのも実はそこが目的だったりするわけです。でも、急がないと日が暮れそう。続きはその2にて・・・。
古からそこに置かれていたように見えるのです。
しなの鉄道で約30分、小諸に到着です。6年ぶりになりますか・・・前回は隣町の上田とセットだったのですが、レンズにトラブルが発生してしまい、サブの魚眼レンズを使うしかなくなってしまったのです。魚眼レンズってアクセントにはいいかもしれませんが、こういったものにフルで使うものではないとつくづく思い知らされました。冷たい雨にも降られて中途半端な探索になってしまい、いつかリベンジしたいと思っておりました。遊里の場所も分かりませんでしたしね。あ、当時はこういったものにはそこまで興味は無かったなあ・・・。
小諸市は牧野氏が治めた城下町、旧北国街道の宿場町、周辺からの物資が集まる商業の町、といった感じで三つの顔を持つ町でした。小諸藩の藩都でもありましたからそれなりに栄えていたのだと思います。でも、遊里に関する記述などがほとんど見つからない不思議な町なのです。宿場でしたから、前回の坂城と同様に飯盛女も間違いなく置いていたはずなのですがね。ちなみに手前の旧中山道から分岐する追分宿には飯盛女の証文などが残っているそうです。その飯盛女由来の遊里が形成されたはずだと睨んでいたのですが・・・。こういった所謂悪所って町にとっては黒歴史と考えられることもあるのではないか・・・町はそのことを意図的に隠しているのではないか・・・というのは勘ぐりすぎですね(笑)まあ、結論から言えば公許の遊里は存在しなかったということになるのだと思います。これはマイブームの『知られざる遊里』ということになるのかと。存在していればの話ですぞ。ですので、いつもの『全国遊廓案内』や『全国花街めぐり』といった文献の抜粋はございません、あしからず。
註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
駅前広場脇に前回は無かった公園ができていましたが、コチラ健在。レトロなお店、レストランさかいさん。一階の土産物屋は現役ですが、二階のレストランはもうやっていないのです。此処入りたかったなあ。
このお店、松本英子著『謎のあの店』第一巻に『レストランむかい』の名で出てきます。
小諸駅のホーム脇に赤煉瓦の小屋が残っています。客室などのランプの灯油を保管していた油庫です。明治42年(1909)に建てられました。
地下道でしなの鉄道を潜ると小諸城址、現在は懐古園という公園として整備されています。入口を兼ねているのは小諸城三の門です。明和3年(1766)に建てられた国の重文です。
懐古園には入らず脇の通りを奥へ行くと、グネグネとうねるスタッコ仕上の外壁が見えてきます。小諸市立小山敬三美術館、昭和50年(1975)竣工、小山敬三は小諸出身の洋画家です。
設計は村野藤吾、巨匠と呼ばれている方ですのでご存知の方も多いかと。古代遺跡というか・・・岩船でしたっけ?山頂に謎の巨岩が!?みたいな・・・あれが最初に思い浮かびました。
今や設計はほぼ100%CADですが、私はギリギリ手書き世代。このフリーハンド的な曲線の苦労よく分かるわけです。気に入っているのが軽やかな屋根というか、建物全体を覆っているわけではないので笠木といったほうが正しいですね。ちょっと浮かした感じが大変宜しい。
個人的には京都宝ヶ池プリンスホテルと大阪なんば新歌舞伎座が傑作だと思っていますので、コチラはそこまでいっていないかな・・・佳作ということで。近代建築や名も無き看板建築には簡単に感動してしまう人間ですが、現代建築にはちょっと辛口なのです(笑)
敷地は小諸城址の一部になっているようでして、背後は崖に面しています。千曲川を望むことができました。
旧北国街道(県道40号線)に出ました。しなの鉄道の高架脇の高台に建つ謎の洋館、これ以上の詳細は分かりませんが、次に紹介する旧本陣と同じ敷地にあるのかもしれません。
コチラが国の重文、旧小諸宿本陣問屋。前回も紹介しましたね。江戸後期のものと伝えられています。妻入りの豪壮な造りですなあ。旧北国街道は加賀百万石の前田の殿様も参勤交代で通った街道、それらに対応できる本陣が必要だったわけです。
その先にあるのが粂屋・旧脇本陣、こちらも江戸後期のものみたいです。脇本陣ですので、大名の宿泊がない場合は一般の旅人も泊まれたはずです。中庭の奥には上客用の美しい造りの離れがあるそうです。見てみたいなあ。
桧皮葺の屋根付き看板、看板自体はありませんけどね。
小諸城址の大手門を忘れていた・・・前回のときは補修工事か何かで足場が組まれていて見られなかったのです。三の門と同じく国の重文、慶長17年(1612)に建てられました。この大手門と三の門との間をしなの鉄道が通っているわけ、結構珍しい状況なのではないでしょうか。
大手門を抜けたら駅前に戻ってしまった。背後がさきほどのレストランさかいさんです。右側の看板建築、変だと思いませんか???こちら側の壁が傾いているのです。二階のサッシ上端が段々になっているのお分かりになります???建物自体が傾いているわけではなく、最初からこの状態だったようなのですが・・・何だコレ。
向かいの登喜和食堂さんが素晴らしい佇まい。しかも現役!?
駅前のゴチャゴチャした一画に、前回足を踏み入れなかった通りがあることに気付きました。
地図にも載っていないこんな路地があったりして、これはめっけものだとホクホクしていたら、背後から声をかけられました。振り向くと渋い和服姿のお母さん、私が邪魔だったみたい・・・。
お母さんに遊廓のことを教えていただきました。お母さんは遊廓ではなく芸者さんがいた、料理屋なんかもあったと仰っていましたが、ちょっとあやふやな部分も・・・場所は成就寺の門前とのこと・・・これが『知られざる遊里』なのでしょうか。とにかく行ってみましょう。
と、その前に・・・。
前回偶然見つけた国道141号線沿いにあるどん詰まりの飲み屋街に寄っていきましょう。手前の一見カフェー風のパーマ屋さんは健在。
この窓には気付かなかった。
店子は変わっているようですが、雰囲気は以前のままでした。
何処で撮ったのか全く覚えていない一枚、たぶん旧北国街道に戻る途中だと思います。
旧北国街道に戻ってきました。本町二丁目と三丁目、この界隈がいちばん古い町並みが残っていると思います。とはいえ、ジックリ巡っている時間がないのが残念。萬屋骨董店さん・・・元々は小諸銀行だった建物を使っています。明治十年代後半に建てられたものだそうで、国の登録文化財です。
向かいは結城屋大塚味噌醤油店、奥の平入りの母屋は江戸後期、手前の袖蔵は明治に建てられたものだそうです。
その先にある見世蔵風のギャラリーつたやさん、元々は旅籠時代から300年続いた旅館だったそうです。遊廓があったらしい成就寺へは左に入ります。
つたやさん裏手に続く土蔵、この土蔵なりに行くと成就寺なのですが、この通りの名前が大門小路、そして左に行くのが祇園坂・・・いろいろと想像が膨らむ名前ではありませんか。
しかし、大門小路沿いにはコレといったものは発見できず・・・奥に小さく見えるのが成就寺の山門です。
一瞬、遊里アンテナが反応を示したのですが・・・違ったみたい。
強いていえばコチラの袖卯建のある土蔵風のお宅・・・いや、これも違うような気がする。
そうこう迷っているうちに成就寺の門前に着いちゃった。ふと視線を動かすと気になる物件が・・・トタンサイディングで直されていますが、かなり歴史がありそう。
なんと、破風の部分が『ぬけられます』状態。これは面白い。
そのままグルリと回り込んでL字型のプランになっているようですね。
庇にはこんな雲形の持ち送りも残っていました。だからといって遺構だとは断定できないわけ・・・難しいなあ。
通りを挟んだ隣にもこんな物件が・・・もしかしてって場所に来るとみんなソレに見えちゃう、困ったものですね。結局、そうだったのか違うのか・・・正直言って遊里跡特有の空気みたいなものはあまり感じられませんでした。
その1はここまで、ちなみに祇園坂とありましたが、あれは坂の先の建速神社で行なわれる祇園祭からきているみたいです。なんだか中途半端な結果になっちゃいましたが、小諸にはもう一ヶ所興味深い場所があるのです。再訪したのも実はそこが目的だったりするわけです。でも、急がないと日が暮れそう。続きはその2にて・・・。