全国唯一の遺構かも・懸造りのお稲荷さん・名無しの謎銭湯
トンネルを抜けるとそこは大門だった・・・実際は逆の状況なんですけどね。
小諸でJR小海線に乗り換えて20分ほどで岩村田に到着、今日はこの町で一泊します。宿は正長元年(1428)創業というとんでもない老舗の佐久ホテルさん。老舗ではありますが、私が利用するのですからそこまで高級な宿ではありませんぞ(笑)建物も当時のものではありませんしね。佐久名物の鯉料理発祥のお店でして、鯉こくが旨かったですし、宿名物の甘茶、初体験でしたが不思議な味でした。そんな老舗が残っているということからも分かりますが、岩村田は旧中山道の宿場でした。本陣などは置かれなかったようですが、佐久甲州街道や日影新道などが分岐する交通の要衝でしたので、善光寺参りや商人の旅人で賑わったそうです。間違いなく旅籠には飯盛女が置かれていたのでしょう。それが後の遊廓の由来になったのだと思います。以下はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の様子です。
『岩村田町遊廓 長野県岩村田町に在つて、佐久線岩村田駅で下車する。貸座敷は目下十軒あつて、娼妓は約五六十人居るが、新潟県の女が多い。店は陰店を張つて居て、娼妓は居稼ぎ制、送り込みはやらない。遊興は廻し花制で、通し花は取らない。費用は御定りが二円で、本部屋は三円五十銭位からである。此れで各台の物が付いて一泊出来る』
相変わらず案内と銘打ちながら案内になっていない案内ですな・・・案内を連発してしまいましたが、これじゃ場所が分からないと思うでしょ?ご安心を、国土地理院『国土変遷アーカイブ』の戦後すぐ米軍が撮った航空写真を見ますと、町の東の外れを流れる湯川の畔、現在の花園町ですね。そこに陸上競技のトラックというか、縦長の五角形の不思議な区画を見つけることができるはずです。これが遊廓跡なのです。この時点で建物は残っていないようですが、周囲の並木と思われる物体は確認できます。場所が場所だけに戦前に廃止されちゃったのでしょうか。この航空写真、転載禁止ですので文章で説明させていただきました。気になる方はサイトの岩村田周辺を探ってみてください。
問題はここから・・・なんだ建物は残っていないのかよ・・・とお嘆きの貴兄に朗報ですぞ。この遊廓跡、全国でも此処だけと思われる遺構が残っているのです。まあ、同じようなものは確認されているようですし、拙ブログでも幾つか紹介してきました。しかし、これだけ立派で、これだけ完全なものは知る限り此処だけのはず・・・だと思う。間違っていましたらご免なさい。近くには面白い造りのお稲荷さんもあるようですから、ついでにお参りしていきましょう。
おはようございます。外はまだこんな感じ、西から台風並みの低気圧が接近していまして、いつ降り出してもおかしくない雲行き。今日はスケジュールが詰まっております。どうも嫌な予感が・・・。
この通りが遊廓跡へと続く道。往時はこれ一本だけだったようですので、此処を様々な想いを抱いた男達が行き来していたわけ。そう考えると感慨深いものがありますな。
小高い丘が見えてきたら遊廓跡はすぐそこ。丘の中腹に赤い屋根が見えますが、あれが面白い造りのお稲荷さん、紹介は後ほど。
はい、こちらが全国唯一の遺構です。お分かりになります???そう、遊廓の入口を守っていた大門です。あまりにも普通に道端に建っていましたのでちょっと拍子抜け、しかも今やゴミの集積場所ですから(笑)見事に現代の風景に馴染んじゃってる・・・。まあ、それをぬきにしてもこれだけ完全なものって本当に貴重だと思いますよ。奥の通りは県道44号線、往時は存在しなかった道です。
面白いのが背面に刻まれた文字。こういうのって遊廓設置に尽力した人物の名前が刻まれるのが普通だと思うのですが・・・明治四十一年一月起工、明治四十一年八月落成、矢ヶ崎雲濤 設計、土工 小○伊八、鐵工 友野鵜三郎、石工 小嶋○二(○は判読できず)・・・なんと設計者と施工者が記されているのです。鐵工とありますから、往時は何かしら鉄製の装飾も付いていたのではないでしょうか。それにしても随分とのんびりした工期ですな(笑)
大門を抜けるとこんな建物があります。現在は公民館として使われているようですが、妙に気になっていたのです。佐久ホテルさんのブログを見ていましたら此処のことが書かれておりました。なんとコチラ、花柳病、所謂梅毒や淋病などに罹った娼妓を隔離していた病棟なんだそうです。これは驚きの事実だ・・・。これも遺構の一つかと、建物としての遺構も存在していましたね。
県道44号線のトンネルを潜った先が嘗ての遊廓跡、残念ながら現在は花園団地という公営住宅に変わっております。念のため一巡りしてみましたが、な〜んにも発見できませんでした。
佐久ホテルさんのブログに遊廓の成り立ちも記されてありました。この地に遊廓が置かれたのは明治22年(1889)のこと、前回の小諸で少し触れた追分宿が鉄道開通で寂れ、そこの娼妓たちが移ってきて形成されたものなんだそうです。たぶん岩村田の飯盛女を由来とする女性も強制的にこの地に集められたのではないでしょうか。遊廓が存在していたのは昭和15年(1940)までだったそうで、これで航空写真の状況が納得。ちなみに大門に刻まれていた矢ヶ崎さん、この方は遊廓の業者の代表者だったみたいです。
遊廓跡の脇を流れる湯川、向こう岸の丘に奇妙な赤い屋根がへばりつくようにして続いています。鼻顔稲荷神社です。『はなづら』と読みます。
跳ね出した木組みの上に建物が乗る所謂懸造りです。清水寺と同じですね。気になるのが手前の『こいとかもの家』・・・鴨は分かりますが、鯉は住めないじゃん(笑)
鼻顔橋からの光景、手前がかぐら殿、奥の懸造りが本殿なのですが、面白いのが真ん中の建物。コレ、実はボート小屋、嘗て湯川ではボート遊びができたというのです。可能だったのかは分かりませんが、娼妓を連れてのボート遊びなんて粋なことができたのかもしれませんね。
振り返ると遊廓跡、団地のある辺りがそれになります。
鼻顔稲荷神社は永禄年間に創建、400年の歴史があり、京都伏見稲荷から勧請されたものだそうです。この辺りの紅葉も散る寸前でした。
鳥居の続く急坂を登っていくと懸造りの部分に出ます。『鼻顔』という不思議な名前、どうやら古い地名が由来みたいです。
中に入るとのぼりがズラリ、なんだこのキッチュな空間は・・・。
突当りの朱塗り格子の奥、崖に半分めり込むような形でご神体が置かれていました。
そこからの光景・・・建物のボロさ具合も相まってかなりの高度感を味わえます。奥の橋が鼻顔橋です。
『今、流行 東京スカイツリーパスタ』巷ではそんなものが流行っているのですか、知らなかった・・・。
来た道を戻る途中、脇道で見つけた凄い造りのお宅。まるでお城みたい。
そのまま脇道を進んでいきますと、空き地に面した建物の向こうに特徴的な煙突が見えてきました。
お風呂屋さんであることに間違いないようなのですが、随分とアッサリした造りですな。見た感じ既に現役ではないと思います。不思議なのは大和町入浴券と記された券売機の存在、どんなシステムだったのでしょう。大和町はこの辺りの町名なのですが、町営の公衆浴場ってこと???此処、地図にも明記されていませんし、ネットでもヒットしないのです・・・謎の銭湯ですな。
木の葉のタイルがカワイイ。
佐久ホテルさんの近くに戻ってきました。行きのとき気になっていた元飲み屋さん、入口を覗いてみますと・・・。
なんと、ハイボールが二桁・・・コレ、いつ頃の物価なのでしょう。レモンジース・・・これまた謎の飲み物だ。
列車までまだ時間があります。もう少し寄り道していきましょう。
崩れかけの蔵の奥、『ぬけられます』状態の向こうが旧中山道です。
隣はもじゃハウス、放置された蔦のボリュームが凄いことになっております。
なんだろうと思って覗いてみますと・・・喫茶店でした。
これが旧中山道(県道9号線)、残念ながら宿場の名残みたいなものは見つけられませんでした。
しかし、なぜかこういうものは見つけてしまうのです。半ば横丁建築と化した飲み屋街です。
思っていた以上に奥行きがありますぞ。
中にはカフェー風のお店も・・・窓の配置が絶妙、素っ気無いドアもいいですね。
いつ頃から此処にあるのでしょう、歴史を感じさせる飲み屋街です。
突き当りには共同便所、すぐ横には居酒屋の入口。なんか嫌だなあ(笑)
旧街道を渡って西側へ、そろそろ駅に向かいましょうか。
途中にある好楽センター、横丁建築の一種としても宜しいかと。
外観もそうですが中も昭和で時が止まっておりました。
通路は途中でL字型に曲がっていてそのまま『ぬけられます』
昨晩、宿に向かう途中此処を見つけたのですが、一軒だけ明りが灯っていましたよ。ところでニュースナックってなんぞ???
何気なく岩村田駅前に設置された案内地図を見ましたら、見所ということで『遊廓大門の跡』と表示されているではありませんか。さらには『鯉と鴨の家』も(笑)役所的には観光名所という位置づけなのでしょうか・・・こうやって表示されているかぎりは壊されないんじゃないかと少し楽観したのですが、甘いですかね?まあ、とにかく貴重なものですので大切にしてほしいなあ。以上で岩村田はオシマイ、このまま小海線で小淵沢に出て中央線沿いの町を訪ねます。知られざる遊里を発見か!?ということで、今回の旅でいちばん楽しみにしていた町なのですが・・・アチャー、ついに降り出しちゃった・・・。
トンネルを抜けるとそこは大門だった・・・実際は逆の状況なんですけどね。
小諸でJR小海線に乗り換えて20分ほどで岩村田に到着、今日はこの町で一泊します。宿は正長元年(1428)創業というとんでもない老舗の佐久ホテルさん。老舗ではありますが、私が利用するのですからそこまで高級な宿ではありませんぞ(笑)建物も当時のものではありませんしね。佐久名物の鯉料理発祥のお店でして、鯉こくが旨かったですし、宿名物の甘茶、初体験でしたが不思議な味でした。そんな老舗が残っているということからも分かりますが、岩村田は旧中山道の宿場でした。本陣などは置かれなかったようですが、佐久甲州街道や日影新道などが分岐する交通の要衝でしたので、善光寺参りや商人の旅人で賑わったそうです。間違いなく旅籠には飯盛女が置かれていたのでしょう。それが後の遊廓の由来になったのだと思います。以下はお馴染『全国遊廓案内』による昭和初期の様子です。
『岩村田町遊廓 長野県岩村田町に在つて、佐久線岩村田駅で下車する。貸座敷は目下十軒あつて、娼妓は約五六十人居るが、新潟県の女が多い。店は陰店を張つて居て、娼妓は居稼ぎ制、送り込みはやらない。遊興は廻し花制で、通し花は取らない。費用は御定りが二円で、本部屋は三円五十銭位からである。此れで各台の物が付いて一泊出来る』
相変わらず案内と銘打ちながら案内になっていない案内ですな・・・案内を連発してしまいましたが、これじゃ場所が分からないと思うでしょ?ご安心を、国土地理院『国土変遷アーカイブ』の戦後すぐ米軍が撮った航空写真を見ますと、町の東の外れを流れる湯川の畔、現在の花園町ですね。そこに陸上競技のトラックというか、縦長の五角形の不思議な区画を見つけることができるはずです。これが遊廓跡なのです。この時点で建物は残っていないようですが、周囲の並木と思われる物体は確認できます。場所が場所だけに戦前に廃止されちゃったのでしょうか。この航空写真、転載禁止ですので文章で説明させていただきました。気になる方はサイトの岩村田周辺を探ってみてください。
問題はここから・・・なんだ建物は残っていないのかよ・・・とお嘆きの貴兄に朗報ですぞ。この遊廓跡、全国でも此処だけと思われる遺構が残っているのです。まあ、同じようなものは確認されているようですし、拙ブログでも幾つか紹介してきました。しかし、これだけ立派で、これだけ完全なものは知る限り此処だけのはず・・・だと思う。間違っていましたらご免なさい。近くには面白い造りのお稲荷さんもあるようですから、ついでにお参りしていきましょう。
おはようございます。外はまだこんな感じ、西から台風並みの低気圧が接近していまして、いつ降り出してもおかしくない雲行き。今日はスケジュールが詰まっております。どうも嫌な予感が・・・。
この通りが遊廓跡へと続く道。往時はこれ一本だけだったようですので、此処を様々な想いを抱いた男達が行き来していたわけ。そう考えると感慨深いものがありますな。
小高い丘が見えてきたら遊廓跡はすぐそこ。丘の中腹に赤い屋根が見えますが、あれが面白い造りのお稲荷さん、紹介は後ほど。
はい、こちらが全国唯一の遺構です。お分かりになります???そう、遊廓の入口を守っていた大門です。あまりにも普通に道端に建っていましたのでちょっと拍子抜け、しかも今やゴミの集積場所ですから(笑)見事に現代の風景に馴染んじゃってる・・・。まあ、それをぬきにしてもこれだけ完全なものって本当に貴重だと思いますよ。奥の通りは県道44号線、往時は存在しなかった道です。
面白いのが背面に刻まれた文字。こういうのって遊廓設置に尽力した人物の名前が刻まれるのが普通だと思うのですが・・・明治四十一年一月起工、明治四十一年八月落成、矢ヶ崎雲濤 設計、土工 小○伊八、鐵工 友野鵜三郎、石工 小嶋○二(○は判読できず)・・・なんと設計者と施工者が記されているのです。鐵工とありますから、往時は何かしら鉄製の装飾も付いていたのではないでしょうか。それにしても随分とのんびりした工期ですな(笑)
大門を抜けるとこんな建物があります。現在は公民館として使われているようですが、妙に気になっていたのです。佐久ホテルさんのブログを見ていましたら此処のことが書かれておりました。なんとコチラ、花柳病、所謂梅毒や淋病などに罹った娼妓を隔離していた病棟なんだそうです。これは驚きの事実だ・・・。これも遺構の一つかと、建物としての遺構も存在していましたね。
県道44号線のトンネルを潜った先が嘗ての遊廓跡、残念ながら現在は花園団地という公営住宅に変わっております。念のため一巡りしてみましたが、な〜んにも発見できませんでした。
佐久ホテルさんのブログに遊廓の成り立ちも記されてありました。この地に遊廓が置かれたのは明治22年(1889)のこと、前回の小諸で少し触れた追分宿が鉄道開通で寂れ、そこの娼妓たちが移ってきて形成されたものなんだそうです。たぶん岩村田の飯盛女を由来とする女性も強制的にこの地に集められたのではないでしょうか。遊廓が存在していたのは昭和15年(1940)までだったそうで、これで航空写真の状況が納得。ちなみに大門に刻まれていた矢ヶ崎さん、この方は遊廓の業者の代表者だったみたいです。
遊廓跡の脇を流れる湯川、向こう岸の丘に奇妙な赤い屋根がへばりつくようにして続いています。鼻顔稲荷神社です。『はなづら』と読みます。
跳ね出した木組みの上に建物が乗る所謂懸造りです。清水寺と同じですね。気になるのが手前の『こいとかもの家』・・・鴨は分かりますが、鯉は住めないじゃん(笑)
鼻顔橋からの光景、手前がかぐら殿、奥の懸造りが本殿なのですが、面白いのが真ん中の建物。コレ、実はボート小屋、嘗て湯川ではボート遊びができたというのです。可能だったのかは分かりませんが、娼妓を連れてのボート遊びなんて粋なことができたのかもしれませんね。
振り返ると遊廓跡、団地のある辺りがそれになります。
鼻顔稲荷神社は永禄年間に創建、400年の歴史があり、京都伏見稲荷から勧請されたものだそうです。この辺りの紅葉も散る寸前でした。
鳥居の続く急坂を登っていくと懸造りの部分に出ます。『鼻顔』という不思議な名前、どうやら古い地名が由来みたいです。
中に入るとのぼりがズラリ、なんだこのキッチュな空間は・・・。
突当りの朱塗り格子の奥、崖に半分めり込むような形でご神体が置かれていました。
そこからの光景・・・建物のボロさ具合も相まってかなりの高度感を味わえます。奥の橋が鼻顔橋です。
『今、流行 東京スカイツリーパスタ』巷ではそんなものが流行っているのですか、知らなかった・・・。
来た道を戻る途中、脇道で見つけた凄い造りのお宅。まるでお城みたい。
そのまま脇道を進んでいきますと、空き地に面した建物の向こうに特徴的な煙突が見えてきました。
お風呂屋さんであることに間違いないようなのですが、随分とアッサリした造りですな。見た感じ既に現役ではないと思います。不思議なのは大和町入浴券と記された券売機の存在、どんなシステムだったのでしょう。大和町はこの辺りの町名なのですが、町営の公衆浴場ってこと???此処、地図にも明記されていませんし、ネットでもヒットしないのです・・・謎の銭湯ですな。
木の葉のタイルがカワイイ。
佐久ホテルさんの近くに戻ってきました。行きのとき気になっていた元飲み屋さん、入口を覗いてみますと・・・。
なんと、ハイボールが二桁・・・コレ、いつ頃の物価なのでしょう。レモンジース・・・これまた謎の飲み物だ。
列車までまだ時間があります。もう少し寄り道していきましょう。
崩れかけの蔵の奥、『ぬけられます』状態の向こうが旧中山道です。
隣はもじゃハウス、放置された蔦のボリュームが凄いことになっております。
なんだろうと思って覗いてみますと・・・喫茶店でした。
これが旧中山道(県道9号線)、残念ながら宿場の名残みたいなものは見つけられませんでした。
しかし、なぜかこういうものは見つけてしまうのです。半ば横丁建築と化した飲み屋街です。
思っていた以上に奥行きがありますぞ。
中にはカフェー風のお店も・・・窓の配置が絶妙、素っ気無いドアもいいですね。
いつ頃から此処にあるのでしょう、歴史を感じさせる飲み屋街です。
突き当りには共同便所、すぐ横には居酒屋の入口。なんか嫌だなあ(笑)
旧街道を渡って西側へ、そろそろ駅に向かいましょうか。
途中にある好楽センター、横丁建築の一種としても宜しいかと。
外観もそうですが中も昭和で時が止まっておりました。
通路は途中でL字型に曲がっていてそのまま『ぬけられます』
昨晩、宿に向かう途中此処を見つけたのですが、一軒だけ明りが灯っていましたよ。ところでニュースナックってなんぞ???
何気なく岩村田駅前に設置された案内地図を見ましたら、見所ということで『遊廓大門の跡』と表示されているではありませんか。さらには『鯉と鴨の家』も(笑)役所的には観光名所という位置づけなのでしょうか・・・こうやって表示されているかぎりは壊されないんじゃないかと少し楽観したのですが、甘いですかね?まあ、とにかく貴重なものですので大切にしてほしいなあ。以上で岩村田はオシマイ、このまま小海線で小淵沢に出て中央線沿いの町を訪ねます。知られざる遊里を発見か!?ということで、今回の旅でいちばん楽しみにしていた町なのですが・・・アチャー、ついに降り出しちゃった・・・。