よくぞ残っていてくれました・軒燈かと思いきや・シーリングセンターと裸電球
震災が追い討ちをかけたようです。
なんとか嵐のような年度末を無事乗り切ることができました。今年度は特にしんどかったあ・・・まあ、こんなところでお話しても何なので詳細は省略しますが、簡単に申せば多忙のため暫く探索に行けなかったわけです。もうストレス溜まりまくりですわ。正月にちょこっと遠出したきりですもの。気が付くといつのまにか春だものなあ。そのわりにはブログの更新頻繁だったじゃねえかと思われるかもしれませんが、あれの実態は一種の現実逃避だったりするわけ(笑)そんなこんなでとりあえず峠は越えましたので以前から注目していた場所を訪ねて参りました。拙ブログでは大変貴重な撮りたてホヤホヤのレポですぞ。
以前から注目していた場所というのが『女の線区』ことJR水郡線沿いの町。水郡線は文字通り茨城県水戸市と福島県郡山市を結ぶ非電化のローカル線ですが、どういうわけか沿線の町々に遊里が存在しているのです。それが理由で『女の線区』と呼ばれていたのでしょうが、その名付け親というのが度々紹介している『よるの女性街 全国案内版』になります。
『常陸太田 水郡線は女の線区で水戸から入れば、まずしよつぱなが上菅谷宿でここは赤線一一軒に三八名。続くは気働車で一八分の常陸太田の東三丁目にも約一〇軒、四八名いる。瓜連・静 上菅谷から二つ目の瓜連にも古い赤線が七軒、二四名。隣駅の静にも二軒、九名。その二つ先の玉川村駅にも四軒、一七名、と列んでいる。袋田 沿線で唯一つの湯治場のせいか、通し湯ながらなかなかの繁昌。芸者みたいなのが二〇名。ほかに赤線が三軒ある。このほか郡山までの赤線所在地だけ示しても常陸大子、磐城棚倉、磐城石川と続く盛況ぶり』
常陸太田は上菅谷から分岐する枝線の終点ですし、二度レポを掲載しておりますので今回の候補から外しています。水戸−郡山間に存在する駅数は37、そのうちの8つの駅周辺に遊里が存在していたことになるわけです。何でしょうこの密集ぶり・・・大都市や有名観光地(強いて言えば袋田の滝ぐらいですかね)があるわけでもないのに不思議ですよね。しかもこれらの町、遊里関係の情報がほぼゼロなのです。まあ、これがこの地域に惹かれたいちばんの理由でもあるのですが。さすがに8つ全部を一時間に一本程度のローカル線で巡るのは無理がありまですので今回は玉川村・常陸大子・磐城塙・磐城石川をピックアップさせていただきました。磐城塙は『よるの女性街・・・』には載っていませんが、どうしても見ておきたい物件がありまして、無理矢理スケジュールにぶっ込んじゃいました。
さて、初っ端は玉川村、現在は常陸大宮市の一部になっておりますが、名前のとおり元々は独立した村でした。村に赤線が存在していた・・・これは驚きの事実ではないかと思うわけです。行ってみれば分かりますが、まさに山あいの集落としか表現しようのない場所ですから。湯治場とかいうのでしたらまだ納得はできるのですが、そういった場所でもないのです。往時はまだまだ車なんて普及していなかった時代のはず、男達はわざわざ鉄道で通いつめたのでしょうか。それだけ夢中にさせる妓がいたのでしょうか。存在価値や由来なども含めて謎ばかりの遊里跡なのですが、コチラ、業界(笑)でも結構有名な遺構が残っております。既に廃屋でしたので消え失せる前に訪れたいと常日頃思っておりました。果たしてまだ残っているのでしょうか。
前夜のうちに水戸入り、その足で奈良屋町の赤線跡を訪れてみましたが、前回(2011)からあまり変化は無いようでした。ただ、てっきり退役済みかと思っていた『まりも』さんに煌々と明りが灯っていたのには驚かされました。それ以外にも現役の飲み屋さんが結構ありまして日中のうらぶれた雰囲気とはちょっと違って見えました。そんなことよりとにかく寒い!!真冬並みの低気圧が関東から東北までを覆っており冷たい雨がシトシト。水戸の桜はちょうど見頃だったのですが、これは花冷えってレベルじゃねえぞ。ほんと洒落にならない冷え込みです。雨は夜更けすぎには上がるようですが、明日は今日以上の寒さみたい・・・。翌朝、寒さに震えながら郡山行きの始発に乗り込み約40分で玉川村駅に到着。途中には赤線が存在したという上菅谷・瓜連・静があるのですが、『赤線跡を歩く』には何も残っていないとありましたのでリストから外しました。木村氏を信じて(笑)まあ、地図を見てもピンときませんでしたしね。
列車から降りたのは当然のように私だけ、もちろん乗り込む人もおりません。次の列車まで1時間、たぶん20分もあれば済んでしまう探索なのです。残りの時間どうしようと思いながら駅を出ますと、唖然・・・何も無い!?いや、あった。喫茶店の成れの果て、なぜか入口がたくさんあるのです。
向かいには『赤線跡を歩く』にも載っている謎のお店?があります。これも遺構なのでしょうか、平屋というのが妙に引っかかるのです。見上げると桧皮葺!?かと思ったら、金属の平葺が吹っ飛んで下地の野地板が露わになっていただけでした。
凝った桟が入った建具、腰には板金による麻の葉模様・・・なんだか統一感のない入口廻りですな。
傍らには竪樋からの雨水を受ける土管?防火水槽代わりにしていたのでしょう。それに屋号らしきものが刻まれています。花○屋・・・二文字目がどうしても解読できない。
短い駅前通りの突当りを左折すると問題の遺構があるはずなのですが・・・よかった、まだ残っていましたよ。
残ってはいましたが、酷い有様です。崩壊寸前、かなり危険な状態だぞこりゃ。長らく廃屋状態だったようですので、いろいろとガタがきていたのでしょう。そこに震災が追い討ちをかけたのだと思われます。
通りに面した部分には左官による石貼り風の目地が切られた洋風の下屋が附属しています。こっち側もボロボロです。
椿の赤が毒々しい色に見えてしまうのはなぜでしょう。
側面には不自然な大穴。人為的なものに思えてしまうのですが・・・。
そして縁起物の雷紋、妙にクッキリと残っております。
重厚な造りはいいのですが、長閑なローケーションのせいでしょうか、どうも遺構に見えてこないのです。まるで久しぶりに田舎のお婆ちゃん家に来たような、とでも申しましょうか・・・おかしな感覚です。
そんな感覚もコレを見た途端、全て吹っ飛びましたわ。うわ、こりゃ酷い・・・風に揺れる裸電球が哀しいなあ。冷静になって観察して気付いたのですが、不思議なことに遺構に相応しい華美な装飾が全く見られないのです。広縁に囲まれた続き間の和室、まさに田舎のお屋敷だよなあ。本当に遺構なのか・・・また混乱してきた。
深い軒の出と出桁造り、かなり立派な部材を使っているようです。あ、軒燈が下がっているではありませんか、なんだやっぱり遺構じゃん。しかし、よくよく見ましたら、なんとこれがスズメバチの巣(爆)活動時期じゃなくてよかった。
ドアの額(ガラスが入っている部分ね)からレンズだけを突っ込んでみましたら、こんな光景が・・・お人形さん、恐い・・・。手前にはカウンターらしきものが写っているような気がするのですが、如何でしょう。
お隣の窓の桟がちょっと気になりました。
帰りに花○屋さんの窓のガラスが外れた部分にも突っ込んでみました。石膏製シーリングセンターから下がる裸電球、奥の小窓は何でしょう。そして一段上がったところ、雨戸が閉め切りになっている部分ですね。ガラス障子の桟が凄いことになっております。どちらかというとこっちのほうが遺構に相応しいような・・・コレ、カフェーっぽいと思いません???にしては狭すぎるか・・・ウーム、ますます混乱。
釈然としないまま駅に戻りました。次の列車までまだ30分もあるんですよね・・・。
以上、残っていてくれたのは嬉しいのですが、謎だけが深まった玉川村の探索でした。遺構とされるお屋敷、ご覧のとおりいつ倒壊してもおかしくない状態です。中にまで入ろうという猛者はいないと思いますが、何かあっても当ブログは一切関知しませんのでくれぐれもお願い致しますぞ。次回は常陸大子、この町も素性がよく分からない町。まあ、そのほうが探索し甲斐があるってものです。
震災が追い討ちをかけたようです。
なんとか嵐のような年度末を無事乗り切ることができました。今年度は特にしんどかったあ・・・まあ、こんなところでお話しても何なので詳細は省略しますが、簡単に申せば多忙のため暫く探索に行けなかったわけです。もうストレス溜まりまくりですわ。正月にちょこっと遠出したきりですもの。気が付くといつのまにか春だものなあ。そのわりにはブログの更新頻繁だったじゃねえかと思われるかもしれませんが、あれの実態は一種の現実逃避だったりするわけ(笑)そんなこんなでとりあえず峠は越えましたので以前から注目していた場所を訪ねて参りました。拙ブログでは大変貴重な撮りたてホヤホヤのレポですぞ。
以前から注目していた場所というのが『女の線区』ことJR水郡線沿いの町。水郡線は文字通り茨城県水戸市と福島県郡山市を結ぶ非電化のローカル線ですが、どういうわけか沿線の町々に遊里が存在しているのです。それが理由で『女の線区』と呼ばれていたのでしょうが、その名付け親というのが度々紹介している『よるの女性街 全国案内版』になります。
『常陸太田 水郡線は女の線区で水戸から入れば、まずしよつぱなが上菅谷宿でここは赤線一一軒に三八名。続くは気働車で一八分の常陸太田の東三丁目にも約一〇軒、四八名いる。瓜連・静 上菅谷から二つ目の瓜連にも古い赤線が七軒、二四名。隣駅の静にも二軒、九名。その二つ先の玉川村駅にも四軒、一七名、と列んでいる。袋田 沿線で唯一つの湯治場のせいか、通し湯ながらなかなかの繁昌。芸者みたいなのが二〇名。ほかに赤線が三軒ある。このほか郡山までの赤線所在地だけ示しても常陸大子、磐城棚倉、磐城石川と続く盛況ぶり』
常陸太田は上菅谷から分岐する枝線の終点ですし、二度レポを掲載しておりますので今回の候補から外しています。水戸−郡山間に存在する駅数は37、そのうちの8つの駅周辺に遊里が存在していたことになるわけです。何でしょうこの密集ぶり・・・大都市や有名観光地(強いて言えば袋田の滝ぐらいですかね)があるわけでもないのに不思議ですよね。しかもこれらの町、遊里関係の情報がほぼゼロなのです。まあ、これがこの地域に惹かれたいちばんの理由でもあるのですが。さすがに8つ全部を一時間に一本程度のローカル線で巡るのは無理がありまですので今回は玉川村・常陸大子・磐城塙・磐城石川をピックアップさせていただきました。磐城塙は『よるの女性街・・・』には載っていませんが、どうしても見ておきたい物件がありまして、無理矢理スケジュールにぶっ込んじゃいました。
さて、初っ端は玉川村、現在は常陸大宮市の一部になっておりますが、名前のとおり元々は独立した村でした。村に赤線が存在していた・・・これは驚きの事実ではないかと思うわけです。行ってみれば分かりますが、まさに山あいの集落としか表現しようのない場所ですから。湯治場とかいうのでしたらまだ納得はできるのですが、そういった場所でもないのです。往時はまだまだ車なんて普及していなかった時代のはず、男達はわざわざ鉄道で通いつめたのでしょうか。それだけ夢中にさせる妓がいたのでしょうか。存在価値や由来なども含めて謎ばかりの遊里跡なのですが、コチラ、業界(笑)でも結構有名な遺構が残っております。既に廃屋でしたので消え失せる前に訪れたいと常日頃思っておりました。果たしてまだ残っているのでしょうか。
前夜のうちに水戸入り、その足で奈良屋町の赤線跡を訪れてみましたが、前回(2011)からあまり変化は無いようでした。ただ、てっきり退役済みかと思っていた『まりも』さんに煌々と明りが灯っていたのには驚かされました。それ以外にも現役の飲み屋さんが結構ありまして日中のうらぶれた雰囲気とはちょっと違って見えました。そんなことよりとにかく寒い!!真冬並みの低気圧が関東から東北までを覆っており冷たい雨がシトシト。水戸の桜はちょうど見頃だったのですが、これは花冷えってレベルじゃねえぞ。ほんと洒落にならない冷え込みです。雨は夜更けすぎには上がるようですが、明日は今日以上の寒さみたい・・・。翌朝、寒さに震えながら郡山行きの始発に乗り込み約40分で玉川村駅に到着。途中には赤線が存在したという上菅谷・瓜連・静があるのですが、『赤線跡を歩く』には何も残っていないとありましたのでリストから外しました。木村氏を信じて(笑)まあ、地図を見てもピンときませんでしたしね。
列車から降りたのは当然のように私だけ、もちろん乗り込む人もおりません。次の列車まで1時間、たぶん20分もあれば済んでしまう探索なのです。残りの時間どうしようと思いながら駅を出ますと、唖然・・・何も無い!?いや、あった。喫茶店の成れの果て、なぜか入口がたくさんあるのです。
向かいには『赤線跡を歩く』にも載っている謎のお店?があります。これも遺構なのでしょうか、平屋というのが妙に引っかかるのです。見上げると桧皮葺!?かと思ったら、金属の平葺が吹っ飛んで下地の野地板が露わになっていただけでした。
凝った桟が入った建具、腰には板金による麻の葉模様・・・なんだか統一感のない入口廻りですな。
傍らには竪樋からの雨水を受ける土管?防火水槽代わりにしていたのでしょう。それに屋号らしきものが刻まれています。花○屋・・・二文字目がどうしても解読できない。
短い駅前通りの突当りを左折すると問題の遺構があるはずなのですが・・・よかった、まだ残っていましたよ。
残ってはいましたが、酷い有様です。崩壊寸前、かなり危険な状態だぞこりゃ。長らく廃屋状態だったようですので、いろいろとガタがきていたのでしょう。そこに震災が追い討ちをかけたのだと思われます。
通りに面した部分には左官による石貼り風の目地が切られた洋風の下屋が附属しています。こっち側もボロボロです。
椿の赤が毒々しい色に見えてしまうのはなぜでしょう。
側面には不自然な大穴。人為的なものに思えてしまうのですが・・・。
そして縁起物の雷紋、妙にクッキリと残っております。
重厚な造りはいいのですが、長閑なローケーションのせいでしょうか、どうも遺構に見えてこないのです。まるで久しぶりに田舎のお婆ちゃん家に来たような、とでも申しましょうか・・・おかしな感覚です。
そんな感覚もコレを見た途端、全て吹っ飛びましたわ。うわ、こりゃ酷い・・・風に揺れる裸電球が哀しいなあ。冷静になって観察して気付いたのですが、不思議なことに遺構に相応しい華美な装飾が全く見られないのです。広縁に囲まれた続き間の和室、まさに田舎のお屋敷だよなあ。本当に遺構なのか・・・また混乱してきた。
深い軒の出と出桁造り、かなり立派な部材を使っているようです。あ、軒燈が下がっているではありませんか、なんだやっぱり遺構じゃん。しかし、よくよく見ましたら、なんとこれがスズメバチの巣(爆)活動時期じゃなくてよかった。
ドアの額(ガラスが入っている部分ね)からレンズだけを突っ込んでみましたら、こんな光景が・・・お人形さん、恐い・・・。手前にはカウンターらしきものが写っているような気がするのですが、如何でしょう。
お隣の窓の桟がちょっと気になりました。
帰りに花○屋さんの窓のガラスが外れた部分にも突っ込んでみました。石膏製シーリングセンターから下がる裸電球、奥の小窓は何でしょう。そして一段上がったところ、雨戸が閉め切りになっている部分ですね。ガラス障子の桟が凄いことになっております。どちらかというとこっちのほうが遺構に相応しいような・・・コレ、カフェーっぽいと思いません???にしては狭すぎるか・・・ウーム、ますます混乱。
釈然としないまま駅に戻りました。次の列車までまだ30分もあるんですよね・・・。
以上、残っていてくれたのは嬉しいのですが、謎だけが深まった玉川村の探索でした。遺構とされるお屋敷、ご覧のとおりいつ倒壊してもおかしくない状態です。中にまで入ろうという猛者はいないと思いますが、何かあっても当ブログは一切関知しませんのでくれぐれもお願い致しますぞ。次回は常陸大子、この町も素性がよく分からない町。まあ、そのほうが探索し甲斐があるってものです。