猫屋敷と化した老舗旅館・大門思案橋完備の裏町・思わず二度見した遺構!?
名も無き近代建築が堪らなく愛おしい・・・。
またまた『女の線区』ことJR水郡線に揺られること30分、磐城石川駅に到着です。福島県中通り南部に位置する石川町、康平6年(1063)、源(石川)有光がこの地に土着、石川城を築き町の基盤が形成されます。その後、天正18年(1590)に豊臣秀吉に領地を没収されるまで500年もの間、石川一族がこの地を支配していたそうです。以上のことから城下町という括りで問題ないと思われるのですが、前回の塙町同様情報が極めて少ない町であることに変わりはありません。
特産とされているのが鉱物です。町の東側が変成岩帯、西側が花崗岩帯といった感じで二つの異なる岩盤がぶつかることから、水晶・柘榴石といった希少な鉱物が産出されるそうです。滋賀県田ノ上山、岐阜県苗木地方と並び日本三大鉱物産地と呼ばれているとか。驚くことに、希少な鉱物の中にはウランも含まれていたそうで、太平洋戦争中、日本帝国陸軍の元で原爆研究が行われていたというのはあまり知られていない事実ではないでしょうか。石川町から北東60キロには福島第一原子力発電所が位置しているわけでして、何か因果みたいなものを感じてしまうのには微妙な距離でしょうかね。
肝心なのは遊里、『よるの女性街 全国案内版』には赤線が存在したとありますが、場所までは相変わらず明記されておりません。下調べの段階でも遊里関係の情報は皆無、そうなると頼りになるのは地図だけ。幸いにも今回は町の様子が分かるまで、そして建物の形が分かるまで拡大することができます。あ、グーグルマップというか、ゼンリンの地図のことね。言っている意味の訳は前回の塙町を参照してくだされ。町の中心は駅前を横切る県道40号線を北上した先にあるみたい。ジックリと地図を眺めると、南町の県道と今出川に挟まれた一画がどうやら飲み屋街になっているようです。しかし、遊里特有の町割りみたいなものは確認できませんでしたが、とりあえず此処を目標にしてフラフラ彷徨ってみることにしましょう。
町の中心までは2キロほど。結構距離がありますが、今日は前半飛ばしましたのでかなり時間の余裕があります。まあ、ノンビリ行きましょうや。駅前に建つ看板建築の洋品店、大森の『森』の字がレリーフになっていました。たぶん元々は呉服屋さんだったのではないでしょうか。
バス停の前には歪みまくっているお宅。これでは引き戸は開きませんな。
切妻屋根に石貼り風の目地が切られた端正な洋館。矢吹医院とありますが、地図には表記されておりません。既に現役ではないのでしょう。
その先、通りのカーブに合わせて建つ入母屋屋根のお宅がステキ。縦長のプロポーションと回り込む連窓が妙に気に入ってしまいました。
今出川を渡った先には変わった造作が付いた窓があるお宅、まるで忍び返しみたいですね。お隣には上げ下げ窓が規則正しく並んだ洋館があります。
洋館のファサード、旭日旗風の欄間とメダイヨン。住宅というよりも何かの会社のオフィスだったと思われます。
古びた門が残っているとおり、駐車場には嘗て何かが建っていたようです。桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿、ことわざどおりですな。
その先の丁字路に冒頭画像のお店があります。名も無きと言いましたが、ちゃんと屋号がありますよ。坂路酒店さんです。
回り込むと全然違う表情が現れます。アールを多用したモダンなデザインです。
向かいにはなぜか狛犬。背後は今出川、何も無いのですが・・・。どうやら川の対岸の山に石都々古和気神社という社があります。ちゃんと調べませんでしたが、たぶんそこのものだと思われます。
前回の塙町同様、この町でも跳ね出した床屋を見つけましたよ。鏝絵によるフォントがいいなあ。残念ながらもうやっていないみたい・・・。背後は学法石川高校、甲子園でもお馴染の古豪ですね。
嘗ては商家だったと思われる重厚な造りの町屋です。真新しい薬局の看板に物凄い違和感。
看板建築の呉服店、現在はお婆ちゃんのブティックです(笑)
お隣には庭木に隠れるようにしてこんな洋館が。コチラもお医者さんっぽいですね。
二階の窓が美しいのは江名屋米店さんです。
その先にまるで旅籠みたいな立派な旅館が現れます。町いちばんの老舗らしい、緑屋旅館さんです。しかし、様子が変・・・言い方が悪いのですが、まるで夜逃げ、もしくはゴミ屋敷みたいな様相・・・。戸が開け放たれているのですが、人の気配は皆無。代わりにニャンコが出入りしてる・・・。
後述する民俗資料館の方の話ですと、嘗ては数々の著名人も宿泊した名旅館だったそうですが、没落したとのこと・・・それ以上詳しく話してくれませんでしたが、何があったのでしょう。ネットの情報では2010年頃までは現役だったようです。
通りは再び今出橋で今出川を渡るのですが、その手前にこんな物件があります。一瞬、もしや!?と反応したのですが、完全な早とちり。どうやらコチラも旅館だったみたい。入母屋の破風がある部分、現在は駐車場になっていますが、あそこが玄関だったのでしょう。帰りに喫茶店に寄ってみましたが、至って普通すぎてコメントに困るお店でした(笑)
その先で通りは県道14号線(御斉所街道)と交わります。この交差点附近が町の中心だと思われます。
交差点を左折すると見えてくるのが創業百有余年という老舗割烹の高田屋さん。うなぎが名物です。
入口には料理店の鑑札が残っておりました。
三芦橋で今出川の支流北須川を渡ります。土手には桜並木が続いているのですが、やっぱりタイミング合わなかった・・・。
北須川沿いにあるのが石川町立歴史民俗資料館。民俗資料館と言いつつも、展示されているのは町特産の鉱物関係ばかり、まるでそれの博物館状態。係の方も鉱物ばかりで申し訳ないって恐縮してました(笑)でも嫌いじゃないですよ。カットされた宝石となるとあれですが、柘榴石の原石なんかはとても魅力的ですから。その方に遊里関係のお話を伺うことができました。それにつきましてはその2のほうで・・・。
近くでこんな物件を見つけました。十字架がありますよね。コチラ、日本基督教団石川伝道所とのこと・・・教会ではないようですが、何をする施設なのでしょう。
それでは少し戻って係の方から聞いた場所に向かいましょう。
前半はここまで。まあ、自慢じゃありませんけど、係の方から聞いた場所と私が最初に怪しいと睨んだ場所が一致していたわけです。繰り返しますが、自慢じゃありませんよ(笑)場所が確定できたら、次は遺構の発見です。こう偉そうに言っているということは・・・さて、どうなるでしょう。
名も無き近代建築が堪らなく愛おしい・・・。
またまた『女の線区』ことJR水郡線に揺られること30分、磐城石川駅に到着です。福島県中通り南部に位置する石川町、康平6年(1063)、源(石川)有光がこの地に土着、石川城を築き町の基盤が形成されます。その後、天正18年(1590)に豊臣秀吉に領地を没収されるまで500年もの間、石川一族がこの地を支配していたそうです。以上のことから城下町という括りで問題ないと思われるのですが、前回の塙町同様情報が極めて少ない町であることに変わりはありません。
特産とされているのが鉱物です。町の東側が変成岩帯、西側が花崗岩帯といった感じで二つの異なる岩盤がぶつかることから、水晶・柘榴石といった希少な鉱物が産出されるそうです。滋賀県田ノ上山、岐阜県苗木地方と並び日本三大鉱物産地と呼ばれているとか。驚くことに、希少な鉱物の中にはウランも含まれていたそうで、太平洋戦争中、日本帝国陸軍の元で原爆研究が行われていたというのはあまり知られていない事実ではないでしょうか。石川町から北東60キロには福島第一原子力発電所が位置しているわけでして、何か因果みたいなものを感じてしまうのには微妙な距離でしょうかね。
肝心なのは遊里、『よるの女性街 全国案内版』には赤線が存在したとありますが、場所までは相変わらず明記されておりません。下調べの段階でも遊里関係の情報は皆無、そうなると頼りになるのは地図だけ。幸いにも今回は町の様子が分かるまで、そして建物の形が分かるまで拡大することができます。あ、グーグルマップというか、ゼンリンの地図のことね。言っている意味の訳は前回の塙町を参照してくだされ。町の中心は駅前を横切る県道40号線を北上した先にあるみたい。ジックリと地図を眺めると、南町の県道と今出川に挟まれた一画がどうやら飲み屋街になっているようです。しかし、遊里特有の町割りみたいなものは確認できませんでしたが、とりあえず此処を目標にしてフラフラ彷徨ってみることにしましょう。
町の中心までは2キロほど。結構距離がありますが、今日は前半飛ばしましたのでかなり時間の余裕があります。まあ、ノンビリ行きましょうや。駅前に建つ看板建築の洋品店、大森の『森』の字がレリーフになっていました。たぶん元々は呉服屋さんだったのではないでしょうか。
バス停の前には歪みまくっているお宅。これでは引き戸は開きませんな。
切妻屋根に石貼り風の目地が切られた端正な洋館。矢吹医院とありますが、地図には表記されておりません。既に現役ではないのでしょう。
その先、通りのカーブに合わせて建つ入母屋屋根のお宅がステキ。縦長のプロポーションと回り込む連窓が妙に気に入ってしまいました。
今出川を渡った先には変わった造作が付いた窓があるお宅、まるで忍び返しみたいですね。お隣には上げ下げ窓が規則正しく並んだ洋館があります。
洋館のファサード、旭日旗風の欄間とメダイヨン。住宅というよりも何かの会社のオフィスだったと思われます。
古びた門が残っているとおり、駐車場には嘗て何かが建っていたようです。桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿、ことわざどおりですな。
その先の丁字路に冒頭画像のお店があります。名も無きと言いましたが、ちゃんと屋号がありますよ。坂路酒店さんです。
回り込むと全然違う表情が現れます。アールを多用したモダンなデザインです。
向かいにはなぜか狛犬。背後は今出川、何も無いのですが・・・。どうやら川の対岸の山に石都々古和気神社という社があります。ちゃんと調べませんでしたが、たぶんそこのものだと思われます。
前回の塙町同様、この町でも跳ね出した床屋を見つけましたよ。鏝絵によるフォントがいいなあ。残念ながらもうやっていないみたい・・・。背後は学法石川高校、甲子園でもお馴染の古豪ですね。
嘗ては商家だったと思われる重厚な造りの町屋です。真新しい薬局の看板に物凄い違和感。
看板建築の呉服店、現在はお婆ちゃんのブティックです(笑)
お隣には庭木に隠れるようにしてこんな洋館が。コチラもお医者さんっぽいですね。
二階の窓が美しいのは江名屋米店さんです。
その先にまるで旅籠みたいな立派な旅館が現れます。町いちばんの老舗らしい、緑屋旅館さんです。しかし、様子が変・・・言い方が悪いのですが、まるで夜逃げ、もしくはゴミ屋敷みたいな様相・・・。戸が開け放たれているのですが、人の気配は皆無。代わりにニャンコが出入りしてる・・・。
後述する民俗資料館の方の話ですと、嘗ては数々の著名人も宿泊した名旅館だったそうですが、没落したとのこと・・・それ以上詳しく話してくれませんでしたが、何があったのでしょう。ネットの情報では2010年頃までは現役だったようです。
通りは再び今出橋で今出川を渡るのですが、その手前にこんな物件があります。一瞬、もしや!?と反応したのですが、完全な早とちり。どうやらコチラも旅館だったみたい。入母屋の破風がある部分、現在は駐車場になっていますが、あそこが玄関だったのでしょう。帰りに喫茶店に寄ってみましたが、至って普通すぎてコメントに困るお店でした(笑)
その先で通りは県道14号線(御斉所街道)と交わります。この交差点附近が町の中心だと思われます。
交差点を左折すると見えてくるのが創業百有余年という老舗割烹の高田屋さん。うなぎが名物です。
入口には料理店の鑑札が残っておりました。
三芦橋で今出川の支流北須川を渡ります。土手には桜並木が続いているのですが、やっぱりタイミング合わなかった・・・。
北須川沿いにあるのが石川町立歴史民俗資料館。民俗資料館と言いつつも、展示されているのは町特産の鉱物関係ばかり、まるでそれの博物館状態。係の方も鉱物ばかりで申し訳ないって恐縮してました(笑)でも嫌いじゃないですよ。カットされた宝石となるとあれですが、柘榴石の原石なんかはとても魅力的ですから。その方に遊里関係のお話を伺うことができました。それにつきましてはその2のほうで・・・。
近くでこんな物件を見つけました。十字架がありますよね。コチラ、日本基督教団石川伝道所とのこと・・・教会ではないようですが、何をする施設なのでしょう。
それでは少し戻って係の方から聞いた場所に向かいましょう。
前半はここまで。まあ、自慢じゃありませんけど、係の方から聞いた場所と私が最初に怪しいと睨んだ場所が一致していたわけです。繰り返しますが、自慢じゃありませんよ(笑)場所が確定できたら、次は遺構の発見です。こう偉そうに言っているということは・・・さて、どうなるでしょう。