四つ辻向こうの遊廓跡・震災で消えた近代建築・廃墟裏の桜と謎の銅像
ノープランでもなんとかなるものですな。
『女の線区』ことJR水郡線の旅も郡山でオシマイ。この総延長150キロもあるローカル線を水戸から乗り倒すのって乗り鉄以外では結構珍しいのではないでしょうか。今日は郡山に一泊するのですが、実は明日の予定が真っ白、ノープランなのです。急遽思い立った旅でしたので、二日目まで手が回らなかったわけ。ホテルのPCでプランを練るつもりなのですが、その前に腹ごしらえと駅を出た途端とんでもない寒気に襲われビックリ。おまけに冷たい氷雨も降り出しちゃうし、もうすぐ桜が開花するというのにどうなっているのでしょうね。赤線跡近くで見つけたホルモン大豊さんで燃料補給、塩ホルモンって初体験でしたがなかなかイケますな。ホロ酔い加減で店を出たのですが、あまりの寒さのせいでホテルに着くまでにすっかり醒めちゃった(笑)
ロビーのPCをお借りしてプランの検討・・・幾つかの案は頭の中にありました。福島市を再訪して、その先の以前から気になっている桑折町を訪ねる案・・・帰りがちょっとしんどいか、却下。帰りルートの途中にある須賀川市と白河市を再訪する案・・・去年の今頃に行っているため却下。そうだ、三春町を再訪しようか、でもまだ滝桜咲いていないしなあ・・・と地図と睨めっこしながら腕組みしていたのですが、ある町の存在に気付きました。三春町を通るJR磐越東線の終点であるいわき市です。7年ぶりになりますか、当時はこういったもの(遊里跡)に目覚めたばかり、遊廓跡とされる界隈をおっかなびっくり歩いてみたのですが何も発見できなかったなあ。もう一度ちゃんと確認してみようか・・・というわけで7年ぶりにいわき市を再訪することに決定。隣町の湯本も再訪して、時間が余ったら前回行けなかった小名浜を訪れるというプランです。まあ、あまり時間を気にせず流れに任せて漂う感じでいきたいと思います。
『平五色町遊廓 福島県石城郡平町字五色町に在つて、常磐線平駅下車東へ約十二丁の地点に当つて居る。人力車賃約五十銭。本遊廓は明治四十年に設立されたもので、現在は貸座敷が六軒、娼妓が四十八人居る。娼妓は全部居稼制で、東京式の廻し制に成つて居る。店は大抵陰店である。御定りは甲三円、乙二円六十銭で、本部屋の御定りは五円である。此れで酒肴が皆附く事に成つて居る。遊興税は全額の八分五厘である。芸妓を呼べば一時間玉代が一円である。炭山が近い丈けに炭坑節が盛んであり、盆には磐城盆踊りが盛大である。妓楼は、小泉楼、新甲子楼、栄楼、大豆楼、住吉楼、萬歳楼の六軒』
以上は『全国遊廓案内』による昭和初期の様子です。平とありますが昭和41年(1966)の周辺町村との合併で誕生したのが現在のいわき市の姿、それまでは平市でした。五色町は現在も存在しています。距離方角共『全国遊廓案内』の内容と合致していますのでこの界隈にあったはずなのです。前回も此処を歩いたのですが何も収穫はありませんでした。まあ、当時は駆け出しでしたから・・・今の私は違うのだよと言えるような状況になるといいのですがね。とりあえず地図を出力させて貰ってポイントを手書きで書き込み即席の探索マップを作成。まあ、これがあればなんとかなるでしょう。
翌朝、凍えるような寒さの中、郡山駅を出た磐越東線。三春を過ぎた辺りから車窓の風景が一変します。なんと、一面の雪景色。昨晩の氷雨が雪に変わったようです。乗客の皆さんは至って普段どおりでしたが、4月の雪ってこの辺りでは普通のことなのですかね。水墨画のような風景はいわき市手前で消えてしまいましたが、一時間半の列車の旅が退屈せず楽しめました。降り立ったいわき駅前、いわき市立図書館という強力な援軍が待っておりました。何か遊里に関する書物をと軽い気持ち入ったのですが、そこで見つけたのが下の地図(クリックで拡大します)。
記憶が曖昧で申し訳ないのですが、コレ、確か大正7年(1918)に発行されたものだったかな。赤丸にハッキリと『五色町遊廓』と記されています。現代の地図と照らし合わせてみますと、町を東西に貫く国道6号線の五色町交差点附近がそれになるようです。でも、此処って前回も訪れたよなあ、何も見つからなかったのですが・・・。国道6号線は戦後になって開通したようですので、道路の造成で消え失せてしまったのでしょうか。まあ、そのあたりのことを再確認しに行きましょう。
註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
駅の近くで出会ったかなり奥行きのある大谷石造の蔵。何を貯蔵していたのかは分かりませんが、現在は飲食店が店子さんになっているようです。
その先に見事な造りの商家が現れます。元禄13年(1700)創業の旧諸橋金物店釜屋さん、築年代ははっきりしないようですが100年は経っているとのこと。左は重厚な銅板貼りの見世蔵、右には防火の袖壁が突き出した焼き過ぎ煉瓦蔵。その間を何となくロマネスク風の洋館が繋いでいるという豪華版。
分厚い袖壁をご覧下さい。こりゃ凄いわ。
現在は見世蔵が美容室、煉瓦蔵がバー、洋館がカフェといった感じで第二の人生を歩んでおります。
五色町手前の鎌田町で見つけたお宅の門がステキ。
前書きの地図をご覧下さい。遊廓の手前、夏井川に架かる鎌田橋という橋がありますね。この橋は今も健在です。もちろん当時のものではないと思いますが。車は通行できない歩道橋です。
橋の袂に河原子地蔵堂という小さな祠があります。別名首切り地蔵という恐ろしい名前が・・・元文3年(1738)に発生した一揆、後日捕らえられた代表者が近くの鎌田河原で斬首されたそうです。それを供養するために建立されたものとのこと。哀しい歴史があったのですね。
遊廓跡と思われる五色町交差点の手前、何か名残みたいなものをとフラフラしてみましたが、何とも判断が難しい物件ばかり。
此処が五色町交差点、案の定な〜んにもありません。やはり国道造成と共に消えてしまったか・・・このときはそう思ったのですが、帰ってから航空写真などで調べてみましたら間違っておりました。どうやら交差点の向こう側(南側)が遊廓跡だったようです。仕方なく禁じ手であるストリートビューでも確認してみましたが、結局収穫はありませんでした。うまくいかないものですな。
駅の近くに戻って参りました。そこで見つけた『ヤングサロン たいらっ娘』・・・これは珍しい、Aカップの女の子専門店ですか。まあ、嗜好というものは人それぞれですからねえ(すっとぼけ)もちろん『たいら』は『平』のこと・・・のはず(笑)
近くには前回偶然出会った白銀小路という飲み屋横丁。
以前は随分と寂れた感じでしたが、現在は夜明け市場という震災復興のシンボル的な場所になっているようです。いわき市は東日本大震災で甚大な被害が発生しています。主に津波によるものだと思いますが、400名を超える方が亡くなっている被災地なのです。
7年前はこんな様子、えらい変わりようですな。
駅前通りを渡って平二町目と三町目へ・・・ビルとビルの間が更地になっていますね。
嘗て此処にはこんな近代建築が建っていました。ナカヤ洋服店さんです。無くなった理由はもうお分かりだと思いますが、震災で何かしらダメージを受けたようです。いわき市では震度6弱を観測しています。
残念だったのは近くのコチラも消え失せていたこと。昭和初期竣工とされる中野洋服店さん、お隣の瓦葺の堀薬局さんと共に駐車場に変わっておりました。この独特な鐘楼風の塔、もう一度見たかったです。
市立図書館が入るショッピングセンター裏手にある看板建築は無事。コレ、色分けされていますが、一棟なんだと思います。前回のときは足場が組まれており、ちょうど外壁の塗り替えの真っ最中でした。帰りに此処の並びにある洋風食堂ヴォン・アッペティートさんで昼食、お野菜たっぷりの牛の煮込みおいしゅうございました。
その裏手の田町はお店が連なる飲み屋街、かなりの規模です。
その中にこんなものが・・・最初はもしかすると検番!?と思ったのですが・・・
どうやら純粋な舞踊の稽古場みたい。でも、これだけの歓楽街です。芸者さんがいても不思議ではないですよね。
前回の様子はあまり覚えていないのですが、更地が増えているような気がします。これも震災の影響なのでしょうか。
良さげなお店ですね。
相変わらず飲み屋建築は面白いなあと思いながら見上げた空、半端ない電線量に唖然。
この飲み屋街、もっと西に続いているのに気付きました。平れんが通りというそうです。
変なゲートがある焼肉屋さんが目を引きますが、問題はお隣のお店。
『サムライ』ってかっこよすぎでしょう。でもなんか笑っちゃう(笑)
通りは次第に寂しくなってきて、仕舞いにはこんな廃墟が待ち構えておりました。
廃墟裏手の更地、ほころび始めた桜の根元に何かあるようですよ。
近寄ってみるとこれが銅像、『鷹寄千代女史像』とのこと・・・えーと、どちら様???ネットでも一切ヒットしなかったのですが・・・。
明治10年(1877)創業の割烹谷口楼さん。建物は新しいものですが、昭和63年まで使っていたという三階建てのお店が素晴らしいのなんのって。気になる方はお店のHPでどうぞ。コレ見たかったなあ。
向かいには何となく気になる造りのお店が二軒。界隈には谷口楼さん以外にも割烹が数軒あるわけでして、花街とはいかなかったのかもしれませんが、それに近いものがあったのではないでしょうか。
近くにある平看護家政婦紹介所、変形の入母屋屋根と軒下の装飾が面白いです。
此処だったんだ・・・前回も訪れた昭和な模型店、いいじまホビーさん。建物もレトロフューチャーだったのには気付きませんでした。
その先の飲み屋さんが入った長屋風の看板建築、頂部に装飾が残っておりました。
前回の写真を見直しておりましたら、何処で撮ったのか全く覚えていない一枚を見つけました。もしかしたらコチラも既に・・・。それにしてもこの頃の写真の色合い、今のより断然好みなんですけど・・・。
以上でいわき市の再訪編はオシマイ。結局、遊廓跡は跡形も無く消え失せていたという残念な結果に終わりました。まあ、そう毎回毎回うまく事が運ぶわけありませんよね。次回は隣町の湯本、この町も前回訪れております。目的は何と言ってもあの芝居小屋・・・しかし、過酷な現実が私を待ちうけているのでした。
ノープランでもなんとかなるものですな。
『女の線区』ことJR水郡線の旅も郡山でオシマイ。この総延長150キロもあるローカル線を水戸から乗り倒すのって乗り鉄以外では結構珍しいのではないでしょうか。今日は郡山に一泊するのですが、実は明日の予定が真っ白、ノープランなのです。急遽思い立った旅でしたので、二日目まで手が回らなかったわけ。ホテルのPCでプランを練るつもりなのですが、その前に腹ごしらえと駅を出た途端とんでもない寒気に襲われビックリ。おまけに冷たい氷雨も降り出しちゃうし、もうすぐ桜が開花するというのにどうなっているのでしょうね。赤線跡近くで見つけたホルモン大豊さんで燃料補給、塩ホルモンって初体験でしたがなかなかイケますな。ホロ酔い加減で店を出たのですが、あまりの寒さのせいでホテルに着くまでにすっかり醒めちゃった(笑)
ロビーのPCをお借りしてプランの検討・・・幾つかの案は頭の中にありました。福島市を再訪して、その先の以前から気になっている桑折町を訪ねる案・・・帰りがちょっとしんどいか、却下。帰りルートの途中にある須賀川市と白河市を再訪する案・・・去年の今頃に行っているため却下。そうだ、三春町を再訪しようか、でもまだ滝桜咲いていないしなあ・・・と地図と睨めっこしながら腕組みしていたのですが、ある町の存在に気付きました。三春町を通るJR磐越東線の終点であるいわき市です。7年ぶりになりますか、当時はこういったもの(遊里跡)に目覚めたばかり、遊廓跡とされる界隈をおっかなびっくり歩いてみたのですが何も発見できなかったなあ。もう一度ちゃんと確認してみようか・・・というわけで7年ぶりにいわき市を再訪することに決定。隣町の湯本も再訪して、時間が余ったら前回行けなかった小名浜を訪れるというプランです。まあ、あまり時間を気にせず流れに任せて漂う感じでいきたいと思います。
『平五色町遊廓 福島県石城郡平町字五色町に在つて、常磐線平駅下車東へ約十二丁の地点に当つて居る。人力車賃約五十銭。本遊廓は明治四十年に設立されたもので、現在は貸座敷が六軒、娼妓が四十八人居る。娼妓は全部居稼制で、東京式の廻し制に成つて居る。店は大抵陰店である。御定りは甲三円、乙二円六十銭で、本部屋の御定りは五円である。此れで酒肴が皆附く事に成つて居る。遊興税は全額の八分五厘である。芸妓を呼べば一時間玉代が一円である。炭山が近い丈けに炭坑節が盛んであり、盆には磐城盆踊りが盛大である。妓楼は、小泉楼、新甲子楼、栄楼、大豆楼、住吉楼、萬歳楼の六軒』
以上は『全国遊廓案内』による昭和初期の様子です。平とありますが昭和41年(1966)の周辺町村との合併で誕生したのが現在のいわき市の姿、それまでは平市でした。五色町は現在も存在しています。距離方角共『全国遊廓案内』の内容と合致していますのでこの界隈にあったはずなのです。前回も此処を歩いたのですが何も収穫はありませんでした。まあ、当時は駆け出しでしたから・・・今の私は違うのだよと言えるような状況になるといいのですがね。とりあえず地図を出力させて貰ってポイントを手書きで書き込み即席の探索マップを作成。まあ、これがあればなんとかなるでしょう。
翌朝、凍えるような寒さの中、郡山駅を出た磐越東線。三春を過ぎた辺りから車窓の風景が一変します。なんと、一面の雪景色。昨晩の氷雨が雪に変わったようです。乗客の皆さんは至って普段どおりでしたが、4月の雪ってこの辺りでは普通のことなのですかね。水墨画のような風景はいわき市手前で消えてしまいましたが、一時間半の列車の旅が退屈せず楽しめました。降り立ったいわき駅前、いわき市立図書館という強力な援軍が待っておりました。何か遊里に関する書物をと軽い気持ち入ったのですが、そこで見つけたのが下の地図(クリックで拡大します)。
記憶が曖昧で申し訳ないのですが、コレ、確か大正7年(1918)に発行されたものだったかな。赤丸にハッキリと『五色町遊廓』と記されています。現代の地図と照らし合わせてみますと、町を東西に貫く国道6号線の五色町交差点附近がそれになるようです。でも、此処って前回も訪れたよなあ、何も見つからなかったのですが・・・。国道6号線は戦後になって開通したようですので、道路の造成で消え失せてしまったのでしょうか。まあ、そのあたりのことを再確認しに行きましょう。
註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
駅の近くで出会ったかなり奥行きのある大谷石造の蔵。何を貯蔵していたのかは分かりませんが、現在は飲食店が店子さんになっているようです。
その先に見事な造りの商家が現れます。元禄13年(1700)創業の旧諸橋金物店釜屋さん、築年代ははっきりしないようですが100年は経っているとのこと。左は重厚な銅板貼りの見世蔵、右には防火の袖壁が突き出した焼き過ぎ煉瓦蔵。その間を何となくロマネスク風の洋館が繋いでいるという豪華版。
分厚い袖壁をご覧下さい。こりゃ凄いわ。
現在は見世蔵が美容室、煉瓦蔵がバー、洋館がカフェといった感じで第二の人生を歩んでおります。
五色町手前の鎌田町で見つけたお宅の門がステキ。
前書きの地図をご覧下さい。遊廓の手前、夏井川に架かる鎌田橋という橋がありますね。この橋は今も健在です。もちろん当時のものではないと思いますが。車は通行できない歩道橋です。
橋の袂に河原子地蔵堂という小さな祠があります。別名首切り地蔵という恐ろしい名前が・・・元文3年(1738)に発生した一揆、後日捕らえられた代表者が近くの鎌田河原で斬首されたそうです。それを供養するために建立されたものとのこと。哀しい歴史があったのですね。
遊廓跡と思われる五色町交差点の手前、何か名残みたいなものをとフラフラしてみましたが、何とも判断が難しい物件ばかり。
此処が五色町交差点、案の定な〜んにもありません。やはり国道造成と共に消えてしまったか・・・このときはそう思ったのですが、帰ってから航空写真などで調べてみましたら間違っておりました。どうやら交差点の向こう側(南側)が遊廓跡だったようです。仕方なく禁じ手であるストリートビューでも確認してみましたが、結局収穫はありませんでした。うまくいかないものですな。
駅の近くに戻って参りました。そこで見つけた『ヤングサロン たいらっ娘』・・・これは珍しい、Aカップの女の子専門店ですか。まあ、嗜好というものは人それぞれですからねえ(すっとぼけ)もちろん『たいら』は『平』のこと・・・のはず(笑)
近くには前回偶然出会った白銀小路という飲み屋横丁。
以前は随分と寂れた感じでしたが、現在は夜明け市場という震災復興のシンボル的な場所になっているようです。いわき市は東日本大震災で甚大な被害が発生しています。主に津波によるものだと思いますが、400名を超える方が亡くなっている被災地なのです。
7年前はこんな様子、えらい変わりようですな。
駅前通りを渡って平二町目と三町目へ・・・ビルとビルの間が更地になっていますね。
嘗て此処にはこんな近代建築が建っていました。ナカヤ洋服店さんです。無くなった理由はもうお分かりだと思いますが、震災で何かしらダメージを受けたようです。いわき市では震度6弱を観測しています。
残念だったのは近くのコチラも消え失せていたこと。昭和初期竣工とされる中野洋服店さん、お隣の瓦葺の堀薬局さんと共に駐車場に変わっておりました。この独特な鐘楼風の塔、もう一度見たかったです。
市立図書館が入るショッピングセンター裏手にある看板建築は無事。コレ、色分けされていますが、一棟なんだと思います。前回のときは足場が組まれており、ちょうど外壁の塗り替えの真っ最中でした。帰りに此処の並びにある洋風食堂ヴォン・アッペティートさんで昼食、お野菜たっぷりの牛の煮込みおいしゅうございました。
その裏手の田町はお店が連なる飲み屋街、かなりの規模です。
その中にこんなものが・・・最初はもしかすると検番!?と思ったのですが・・・
どうやら純粋な舞踊の稽古場みたい。でも、これだけの歓楽街です。芸者さんがいても不思議ではないですよね。
前回の様子はあまり覚えていないのですが、更地が増えているような気がします。これも震災の影響なのでしょうか。
良さげなお店ですね。
相変わらず飲み屋建築は面白いなあと思いながら見上げた空、半端ない電線量に唖然。
この飲み屋街、もっと西に続いているのに気付きました。平れんが通りというそうです。
変なゲートがある焼肉屋さんが目を引きますが、問題はお隣のお店。
『サムライ』ってかっこよすぎでしょう。でもなんか笑っちゃう(笑)
通りは次第に寂しくなってきて、仕舞いにはこんな廃墟が待ち構えておりました。
廃墟裏手の更地、ほころび始めた桜の根元に何かあるようですよ。
近寄ってみるとこれが銅像、『鷹寄千代女史像』とのこと・・・えーと、どちら様???ネットでも一切ヒットしなかったのですが・・・。
明治10年(1877)創業の割烹谷口楼さん。建物は新しいものですが、昭和63年まで使っていたという三階建てのお店が素晴らしいのなんのって。気になる方はお店のHPでどうぞ。コレ見たかったなあ。
向かいには何となく気になる造りのお店が二軒。界隈には谷口楼さん以外にも割烹が数軒あるわけでして、花街とはいかなかったのかもしれませんが、それに近いものがあったのではないでしょうか。
近くにある平看護家政婦紹介所、変形の入母屋屋根と軒下の装飾が面白いです。
此処だったんだ・・・前回も訪れた昭和な模型店、いいじまホビーさん。建物もレトロフューチャーだったのには気付きませんでした。
その先の飲み屋さんが入った長屋風の看板建築、頂部に装飾が残っておりました。
前回の写真を見直しておりましたら、何処で撮ったのか全く覚えていない一枚を見つけました。もしかしたらコチラも既に・・・。それにしてもこの頃の写真の色合い、今のより断然好みなんですけど・・・。
以上でいわき市の再訪編はオシマイ。結局、遊廓跡は跡形も無く消え失せていたという残念な結果に終わりました。まあ、そう毎回毎回うまく事が運ぶわけありませんよね。次回は隣町の湯本、この町も前回訪れております。目的は何と言ってもあの芝居小屋・・・しかし、過酷な現実が私を待ちうけているのでした。