直前まで現役だった横丁建築・妓楼風元ストリップ劇場・嗚呼三凾座よお前もか
風で捲れる赤テント、踊り子さんもこんなのをヒラヒラさせていたのでしょうね。
いわき駅からJR常磐線で水戸方面に戻ること二駅で湯本駅に到着、嘗ては湯本町でしたが現在はいわき市の一部になっています。この町もいわき市同様7年前に訪れております。湯本の名のとおり、此処は古くからの温泉地。諸説あるようですが、起源は奈良時代まで遡るそうで日本三古湯の一つとされているそうです。他の二つは道後温泉と有馬温泉ですので、世間の認知度からするとかなり劣勢だと思います。これは静かな湯治場であるという意味ですので、くれぐれも誤解なさらぬように(笑)実際のところ、若干寂れ気味であるということは否めません。まあ、拙ブログ的には有難い町なのですがね。
湯本のもう一つの顔が炭鉱の町。福島県富岡町から茨城県日立市まで広範囲に広がっているのが常磐炭田です。発見されたのが戊辰戦争直後、首都圏に近い炭山として注目されましたが、硫黄分が多くあまり品質は良くなかったようです。それでも昭和51年(1976)に閉山となるまで採掘は続けられました。湯本周辺でも数多くの抗道が掘られ、現在も廃墟マニア垂涎の遺構が点在している地でもあります。戦後すぐに米軍が撮影した航空写真を見ますと、駅の東側に膨大な数の炭鉱住宅と思われる建物が規則正しく並んでいるのが分かります。古くからの温泉に隆盛を誇った炭鉱・・・遊里が必要とされる条件が揃っているわけです。もちろん、この町にも存在していましたよ。以下は『全国遊廓案内』による遊廓の様子になります。
『湯本町遊廓 福島県石城郡湯本町に在つて、鉄道は常磐線湯本駅で下車する。湯本は元温泉場として有名な処だつたが、近年は温泉場としてよりも、炭山の一中心地として知られて来た。其れは温泉の湧出量が減り、温度も下つたからであるが、一つには抗夫其他鉱山関係者の出入が多く、界隈一帯の歓楽境と成つたからであらう。附近には磐城炭鉱、入山炭鉱、大日本炭鉱等があつて、駅の附近等は、殆んど石炭の山脈の様に成つてゐる。貸座敷は五軒程あるが、私娼からどしどしと其の領分を侵食されつつある形だ・・・』
私娼が勢力を拡大していたようですが、それにしてもたった五軒というのはちょっと寂しいような気がするのです。温泉に炭鉱と盛りだくさんなのにね。前夜、ホテルのPCで地図を眺めたかぎりでは、遊廓特有の区画みたいなものは見つけられませんでした。帰ってから昔の航空写真でも確認してみましたがやっぱり空振り・・・いったい何処にあったのでしょうね。なんだか始める前から結果が判明しちゃっておりますが、今回は下調べなしのノープランの旅ですのでご理解くださいませ。実は最初から遊里跡目当てではないのです。この町を選んだのは、あの郷愁を誘う芝居小屋に再会したいから。しかし、彼は思いもしなかった姿で私の前に現れたのでした。
註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
駅を出て右へ・・・前回は歩かなかった一画を探ってみましたが収穫なし。こりゃあかん、すぐさまUターン、温泉街を目指しましょう。
途中にある『カラオケねるとん』・・・バブルの頃からこのまんまなんだろうなあ。
常磐線を跨ぐ県道14号線(御斉所街道)の陸橋下で見つけた毒々しい赤で彩られた元飲み屋さんと思われる物件。アーチ窓が並んでいます。
この赤、まるで場末バーのベテランママさんのルージュみたい・・・。扉上のプラスチッキーな照明がカワイイ。
照明繋がりになりますが、この町、レトロな街灯にも注目ですぞ。
お隣の羽が舞う型板ガラス、これがまたイイ。このデザインは初見です。
常磐線と並行する通りを北へ・・・分岐している路地を覗いてみました。
現役のお店は少ないようですな。
この通りに温泉宿は少ないようですが、湯治客はおろか人影さえも皆無・・・。
途中の分岐する路地に足を踏み入れた途端、7年前の記憶が鮮やかに蘇ってきました。此処、訪れている・・・。
所謂横丁建築です。前回のレポには此処がストリップ劇場だったと書いているのですが、はて?どうしてそう言ったのか全然覚えていない、たぶん間違っています。それにしても酷い状態です。東日本大震災で受けた損傷だと思われます。
こんな状態です。さすがに現役のお店はと覗き込んでみますと、めだかさんの貼り紙に気がつきました。
閉店のお知らせなのですが、なんとほんの一週間前まで現役だったとは・・・。
どうやらめだかさんが最後のお店だったようです。37年間、お疲れ様でした。
近くのビル、なぜか外壁を亀がよじ登っておりました(笑)
地元で温泉通りと呼ばれている通りに出ました。何となくですが兄弟みたいに見える看板建築の奥、重厚な瓦屋根が顔を覗かせています。あ、此処も覚えている・・・。
寺亀醸造元さん、味噌と醤油の蔵元です。
7年前の様子、この時点で既に現役ではなかったと記憶しています。手前の土蔵は無くなっておりました。
そして今回、土蔵跡の奥、お分かりになるでしょうか。赤煉瓦の煙突が倒壊しておりました。これも震災によるものでしょう。
別角度から・・・窓の向こうが青空・・・倒壊した煙突が屋根を突き破ってしまいました。あれから3年間、そのまま放置されているようです。
温泉通りに戻って更に北へ・・・しばらく行くと見えてくるのが冒頭画像の赤テント、いわきミュージックさんです。ライブハウスとありますが、元ストリップ劇場です。まあ、ストリップもライブですからね(笑)ネットの情報では、10年ぐらい前までは現役だったようです。赤テントに目が行ってしまいますが、急勾配の入母屋屋根にも注目です。コレ、元々は妓楼だった・・・と妄想すると楽しいわけです。そもそも前身は何だったのでしょう。
塞がれたもぎりの窓口には色褪せた造花の薔薇・・・。閉館後はレンタルスペースと余生を送っていたようですが、もう使われていないみたい・・・。
いわきミュージックさん脇の路地を辿っていったら常磐線にぶつかってしまった。そこで出会った一部が石蔵になっている珍しい造りのお宅です。
今度は山側の裏通りへ・・・此処でも昭和レトロな街灯を発見、カワイイですね。
近くにはこんな欄間があるお宅があったりするのですが、どうもピンとこないわけ。
果たして遊廓は何処にあったのでしょう。仕方がない、遊廓跡は諦めて当初の目的である芝居小屋を目指しましょう。
温泉通りに出て駅方面に戻ります。途中には両サイドにボーダー状の装飾が残る看板建築があります。コチラのほうが元ストリップ劇場っぽいですな(笑)
全く覚えていないのですが、7年前も写真に収めておりました。
お隣にも看板建築の商店があります。おや?裏手の造りが面白いですよ。
洗い出し風の左官仕上のベランダ、コレってもしかして・・・違うよなあ。
その先の山側に入る路地の突当りに目的の・・・って、な、無い!!綺麗さっぱり更地になっちゃってる・・・。近くでお子さんと遊んでいた若奥さんに尋ねたところ、去年の6月に解体されてしまったとのこと。此処があったからこそこの町を再訪したのに・・・そりゃないよ・・・。
在りし日の姿を載せておきます。これが目的の芝居小屋、三凾座です。『さはこざ』だと思っていたのですが、『みはこざ』とも呼ばれていたようです。建てられたのは明治30年代、当初は芝居小屋でしたが大正時代に映画館に改修されます。炭鉱が閉山された6年後の昭和57年(1982)まで現役だったそうです。湯本の盛衰を見守ってきた建物なのです。7年前に訪れた直後に国の登録文化財に指定されたと聞き、これで暫くは大丈夫だと思っていたのですが、震災にやられてしまいました。ファサードに大きな被害はなかったようですが、裏手の屋根が崩壊するなど大きなダメージ受けたのが解体の理由のようです。有志の方が活用法を探っている最中の出来事でした。またこの世から大好きな建物が消えてしまいました。
嗚呼、ショックと思いながら適当にフラフラ・・・あら、また見覚えのある場所に出ましたよ。
だるまさんとすみれさん、覚えておりますよ。
7年前はこんな感じ、突き当りの下見板張りのお店は無くなっておりました。この路地、とてもいい雰囲気なのです。
近くにあるのが共同浴場の『さはこの湯』、パンフには江戸末期の建物様式を再現とあるのですが、こんな妓楼があったとしてもおかしくないと思えるような造りになっております。まあ、外観はそんな感じですが、中はいまいちなんですけどね(笑)浴室もあまり広くないし。でも、230円で源泉かけ流しですから、近くの宿の立寄り湯などに比べたら大変お徳だと思いますぞ。
1時間ほどゆっくり湯に浸かり全身フニャフニャ状態、缶ビールを呑んだら三凾座のこともあって完全にオシマイモード(笑)もう何もする気が起きません。これでお暇させていただきます。また小名浜に行けなかった・・・。以上でノープランの旅はオシマイ、たまにはこういうのもいいですね。
風で捲れる赤テント、踊り子さんもこんなのをヒラヒラさせていたのでしょうね。
いわき駅からJR常磐線で水戸方面に戻ること二駅で湯本駅に到着、嘗ては湯本町でしたが現在はいわき市の一部になっています。この町もいわき市同様7年前に訪れております。湯本の名のとおり、此処は古くからの温泉地。諸説あるようですが、起源は奈良時代まで遡るそうで日本三古湯の一つとされているそうです。他の二つは道後温泉と有馬温泉ですので、世間の認知度からするとかなり劣勢だと思います。これは静かな湯治場であるという意味ですので、くれぐれも誤解なさらぬように(笑)実際のところ、若干寂れ気味であるということは否めません。まあ、拙ブログ的には有難い町なのですがね。
湯本のもう一つの顔が炭鉱の町。福島県富岡町から茨城県日立市まで広範囲に広がっているのが常磐炭田です。発見されたのが戊辰戦争直後、首都圏に近い炭山として注目されましたが、硫黄分が多くあまり品質は良くなかったようです。それでも昭和51年(1976)に閉山となるまで採掘は続けられました。湯本周辺でも数多くの抗道が掘られ、現在も廃墟マニア垂涎の遺構が点在している地でもあります。戦後すぐに米軍が撮影した航空写真を見ますと、駅の東側に膨大な数の炭鉱住宅と思われる建物が規則正しく並んでいるのが分かります。古くからの温泉に隆盛を誇った炭鉱・・・遊里が必要とされる条件が揃っているわけです。もちろん、この町にも存在していましたよ。以下は『全国遊廓案内』による遊廓の様子になります。
『湯本町遊廓 福島県石城郡湯本町に在つて、鉄道は常磐線湯本駅で下車する。湯本は元温泉場として有名な処だつたが、近年は温泉場としてよりも、炭山の一中心地として知られて来た。其れは温泉の湧出量が減り、温度も下つたからであるが、一つには抗夫其他鉱山関係者の出入が多く、界隈一帯の歓楽境と成つたからであらう。附近には磐城炭鉱、入山炭鉱、大日本炭鉱等があつて、駅の附近等は、殆んど石炭の山脈の様に成つてゐる。貸座敷は五軒程あるが、私娼からどしどしと其の領分を侵食されつつある形だ・・・』
私娼が勢力を拡大していたようですが、それにしてもたった五軒というのはちょっと寂しいような気がするのです。温泉に炭鉱と盛りだくさんなのにね。前夜、ホテルのPCで地図を眺めたかぎりでは、遊廓特有の区画みたいなものは見つけられませんでした。帰ってから昔の航空写真でも確認してみましたがやっぱり空振り・・・いったい何処にあったのでしょうね。なんだか始める前から結果が判明しちゃっておりますが、今回は下調べなしのノープランの旅ですのでご理解くださいませ。実は最初から遊里跡目当てではないのです。この町を選んだのは、あの郷愁を誘う芝居小屋に再会したいから。しかし、彼は思いもしなかった姿で私の前に現れたのでした。
註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
駅を出て右へ・・・前回は歩かなかった一画を探ってみましたが収穫なし。こりゃあかん、すぐさまUターン、温泉街を目指しましょう。
途中にある『カラオケねるとん』・・・バブルの頃からこのまんまなんだろうなあ。
常磐線を跨ぐ県道14号線(御斉所街道)の陸橋下で見つけた毒々しい赤で彩られた元飲み屋さんと思われる物件。アーチ窓が並んでいます。
この赤、まるで場末バーのベテランママさんのルージュみたい・・・。扉上のプラスチッキーな照明がカワイイ。
照明繋がりになりますが、この町、レトロな街灯にも注目ですぞ。
お隣の羽が舞う型板ガラス、これがまたイイ。このデザインは初見です。
常磐線と並行する通りを北へ・・・分岐している路地を覗いてみました。
現役のお店は少ないようですな。
この通りに温泉宿は少ないようですが、湯治客はおろか人影さえも皆無・・・。
途中の分岐する路地に足を踏み入れた途端、7年前の記憶が鮮やかに蘇ってきました。此処、訪れている・・・。
所謂横丁建築です。前回のレポには此処がストリップ劇場だったと書いているのですが、はて?どうしてそう言ったのか全然覚えていない、たぶん間違っています。それにしても酷い状態です。東日本大震災で受けた損傷だと思われます。
こんな状態です。さすがに現役のお店はと覗き込んでみますと、めだかさんの貼り紙に気がつきました。
閉店のお知らせなのですが、なんとほんの一週間前まで現役だったとは・・・。
どうやらめだかさんが最後のお店だったようです。37年間、お疲れ様でした。
近くのビル、なぜか外壁を亀がよじ登っておりました(笑)
地元で温泉通りと呼ばれている通りに出ました。何となくですが兄弟みたいに見える看板建築の奥、重厚な瓦屋根が顔を覗かせています。あ、此処も覚えている・・・。
寺亀醸造元さん、味噌と醤油の蔵元です。
7年前の様子、この時点で既に現役ではなかったと記憶しています。手前の土蔵は無くなっておりました。
そして今回、土蔵跡の奥、お分かりになるでしょうか。赤煉瓦の煙突が倒壊しておりました。これも震災によるものでしょう。
別角度から・・・窓の向こうが青空・・・倒壊した煙突が屋根を突き破ってしまいました。あれから3年間、そのまま放置されているようです。
温泉通りに戻って更に北へ・・・しばらく行くと見えてくるのが冒頭画像の赤テント、いわきミュージックさんです。ライブハウスとありますが、元ストリップ劇場です。まあ、ストリップもライブですからね(笑)ネットの情報では、10年ぐらい前までは現役だったようです。赤テントに目が行ってしまいますが、急勾配の入母屋屋根にも注目です。コレ、元々は妓楼だった・・・と妄想すると楽しいわけです。そもそも前身は何だったのでしょう。
塞がれたもぎりの窓口には色褪せた造花の薔薇・・・。閉館後はレンタルスペースと余生を送っていたようですが、もう使われていないみたい・・・。
いわきミュージックさん脇の路地を辿っていったら常磐線にぶつかってしまった。そこで出会った一部が石蔵になっている珍しい造りのお宅です。
今度は山側の裏通りへ・・・此処でも昭和レトロな街灯を発見、カワイイですね。
近くにはこんな欄間があるお宅があったりするのですが、どうもピンとこないわけ。
果たして遊廓は何処にあったのでしょう。仕方がない、遊廓跡は諦めて当初の目的である芝居小屋を目指しましょう。
温泉通りに出て駅方面に戻ります。途中には両サイドにボーダー状の装飾が残る看板建築があります。コチラのほうが元ストリップ劇場っぽいですな(笑)
全く覚えていないのですが、7年前も写真に収めておりました。
お隣にも看板建築の商店があります。おや?裏手の造りが面白いですよ。
洗い出し風の左官仕上のベランダ、コレってもしかして・・・違うよなあ。
その先の山側に入る路地の突当りに目的の・・・って、な、無い!!綺麗さっぱり更地になっちゃってる・・・。近くでお子さんと遊んでいた若奥さんに尋ねたところ、去年の6月に解体されてしまったとのこと。此処があったからこそこの町を再訪したのに・・・そりゃないよ・・・。
在りし日の姿を載せておきます。これが目的の芝居小屋、三凾座です。『さはこざ』だと思っていたのですが、『みはこざ』とも呼ばれていたようです。建てられたのは明治30年代、当初は芝居小屋でしたが大正時代に映画館に改修されます。炭鉱が閉山された6年後の昭和57年(1982)まで現役だったそうです。湯本の盛衰を見守ってきた建物なのです。7年前に訪れた直後に国の登録文化財に指定されたと聞き、これで暫くは大丈夫だと思っていたのですが、震災にやられてしまいました。ファサードに大きな被害はなかったようですが、裏手の屋根が崩壊するなど大きなダメージ受けたのが解体の理由のようです。有志の方が活用法を探っている最中の出来事でした。またこの世から大好きな建物が消えてしまいました。
嗚呼、ショックと思いながら適当にフラフラ・・・あら、また見覚えのある場所に出ましたよ。
だるまさんとすみれさん、覚えておりますよ。
7年前はこんな感じ、突き当りの下見板張りのお店は無くなっておりました。この路地、とてもいい雰囲気なのです。
近くにあるのが共同浴場の『さはこの湯』、パンフには江戸末期の建物様式を再現とあるのですが、こんな妓楼があったとしてもおかしくないと思えるような造りになっております。まあ、外観はそんな感じですが、中はいまいちなんですけどね(笑)浴室もあまり広くないし。でも、230円で源泉かけ流しですから、近くの宿の立寄り湯などに比べたら大変お徳だと思いますぞ。
1時間ほどゆっくり湯に浸かり全身フニャフニャ状態、缶ビールを呑んだら三凾座のこともあって完全にオシマイモード(笑)もう何もする気が起きません。これでお暇させていただきます。また小名浜に行けなかった・・・。以上でノープランの旅はオシマイ、たまにはこういうのもいいですね。