大人の風呂屋街の招きニャンコ・花街の僅かな残り香・モノレールが貫通する遊廓跡
早朝の大人の風呂屋街、とても静かです・・・。
今回は千葉県の県庁所在地です。千葉という地名は平安時代中期に書かれた和名類聚抄に『下総国千葉郡千葉郷』と記されているそうです。古くから千葉と呼ばれていたわけですな。現在は典型的なベッドタウンといった様相の千葉市ですが、嘗ては有数の軍都でした。主に帝国陸軍関係の施設が多かったようですが、野戦砲兵学校に戦車学校、兵器廠などなど。更には鉄道連隊、津田沼から軍用線が延びていたそうです。変わったところでは、唯一米国本土を爆撃した風船爆弾を飛ばした気球連隊なんてものも駐屯していました。兵隊さんのいるところに遊里有りです。もちろん、この町にも存在していましたよ。当時の様子は上から『全国遊廓案内』、『よるの女性街・全国案内版』になります。
『千葉市遊廓 千葉県庁の所在地であつて鉄道に依る時は総武線千葉駅にて下車すれば自動車の便がある。昔は千葉城主の城下として相当繁華であつたが天正年間千葉氏亡びてから、次第に衰へた。但し明治時代に至つて県庁を置かれ行政上の中心となつたので、官公衛歯科大学校等設けられるにつれ、次第に遊廓も発展し現在では約十軒八十人位の娼妓が居る・・・附近の名勝、千葉神社、大日寺、来迎寺、千葉寺等猫鼻台(亥鼻台の間違いと思われます)は駅から東南十五町袖ヶ浦を眼下に見下し風光絶佳である。又海水浴場では登戸が有名である』
『芸妓は一〇〇名、ここの花代はかわつていて料亭ではお約束一〇〇円、時間三五〇円で四五〇円、次時から一五〇円。旅館に入るとお約束一〇〇円、時間四〇〇円で五〇〇円になり、次時から二〇〇円増。赤線は一〇軒で二五名。平均八〇〇円で泊める』
相変わらずなのですが、何処にあったのか全く記されていない、案内になっていないわけです。『よるの女性街』に至っては費用の話に終始しているし(笑)遊廓だけでなく花街も存在していたのですが、それについてはある程度の情報があり場所も特定することができました。しかし、遊廓は完全にお手上げ状態、困ったなあと腕組みしているとはたと思いつきました。千葉県民の貴兄でしたらご存知だと思いますが、現代の遊廓とも言える栄町です。そう、大人のお風呂屋さん街の存在です。遊廓から赤線、そして風呂屋街と変遷していった例は全国にありますよね。しかし、地図を見てもいまひとつ・・・困った揚句禁断のストリービューにも手を出してしまいましたが、やはりピンと来ない。此処じゃないの???そんなこんなでこの町については後回しにしていたのです。
それが解決したのがつい先日のこと・・・ウィキペディアで千葉市を開いてみてください。1930年頃の千葉市周辺の地図があると思います。総武本線と並行している京成電車の『しんちば』駅の右下辺りに『新地』と表記されています。念のため、よく利用させて頂いている京都にある『国際日本文化研究センター』のサイトでも確認してみました。データベースから所蔵地図に飛んで千葉県を検索してください。昭和12年(1937)に発行された『千葉市新地図』が見つかると思います。やはり同じ場所に『新地遊廓』と記されています。どうやら此処で間違いないようです。栄町側ばかりに注目していたら実は反対側だったというわけ、またやっちゃった・・・。この『日文研』のデータベース、明治から昭和にかけての古地図データが豊富でして大変便利なのです。しかも拡大縮小できてしまうというスグレモノ。各地の図書館や資料館などのサイトでも古地図が閲覧できたりしますが、いきなり江戸時代まで遡っちゃうのが多いのが難点。遊里を探すという目的からするとこれはあまり有り難くない(笑)その頃のを見てもチンプンカンプンですしね。
場所は判明しましたが、遺構が残っているのかがいちばん肝心なところ。何しろ軍都だった千葉市は終戦間際の大空襲で、中心街の70%が焦土と化しているからです。終戦直後に米軍が撮影した航空写真には・・・オオッ、周囲の家屋とは全く違う大きな黒い屋根が密集しているのがハッキリ写っております。どうやら海側は空襲から逃れられたようです。順に年代を追って見ていきますと、どうやら70年代後半までは何かしら遺構と言えるものが残っていたようです。しかし、1979年(昭和54)に撮影された航空写真を見ますと状況が一変します。すっかり消え失せている・・・それどころか道路の位置自体が変わっているわけです。これは大規模な区画整理と再開発によるものだと思われます。まあ、駅に近い場所ですから仕方ないのでしょうが・・・などと地図と写真を見てああだこうだ言っていても始まりません。もしかすると何か痕跡くらいは・・・と淡い期待を抱いて早朝の総武線に乗り込んだのでした。
JR千葉駅を出るとまず目に飛び込んでくるのが物凄い鉄骨の架構、千葉モノレールです。レールから車体を吊る懸垂式というやつですな。高所恐怖症の私のような人間にはちと辛い乗物かも。レールの分岐部分、とんでもないことになっております。まるでピタゴラスイッチみたい(笑)カーブの先が栄町です。
早朝の栄町、現在時刻は6:00です。お店が開店する前にちょっとお邪魔させてください。
あんみつ姫・・・必ずありますよね、お城を模したお店。装飾に葵の御紋らしきものが使われているのですがいいのでしょうか。まあ、微妙に変えているんでしょうけど。
中央に植栽がある広場みたいな処に出ました。お風呂屋さん以外にも廃れきった飲み屋さんが並んでおります。左のアラビア館さんではボーイさんが忙しそうに出入りしていました。物凄く惹かれますが、私には遊里跡を探すという重要な任務があるのだ(爆)書いていて空しくなってきた・・・。
廃墟と化した飲み屋さんを覗いてみるとこんな酷い状態。奥には浮世絵風の女性の絵が飾られています。
アラビア館さんの招きニャンコ。実際にゴロニャンして客引きしてくれたりして(笑)私にはしてくれなかったけど・・・。
なんと金泉さんにも。この仔もゴロニャンしてくれない・・・金が無いのバレていたようです。
結構な数の飲み屋さんが並んでいるのですが、現役のお店は少ないようですね。
お風呂屋さん街を抜けて栄町の東隣の院内一丁目へ・・・そこで寄棟屋根の洋館風の物件を見つけました。外壁のモルタルの廃れ具合が最高レベルですな。
千葉県中華料理環境衛生同業組合とのことなのですが、華僑の方の組合みたいです。
その先の並びがなかなかステキ、いいでしょコレ。
近くで見つけた料亭風の物件。シャッター上の看板に鳥の絵が描かれています。
ご覧のとおり、とっくの昔に退役されているようです。
素晴らしい雰囲気ですなあ。現役だったら行ってみたいお店です。
千葉駅方面に戻って国道14号線(佐倉街道)を渡った先、中央三丁目界隈が嘗ての花街だったそうです。当時は蓮池と呼ばれていました。前書きの『よる女性街』に記されているのは此処のことだと思います。
パルコの先の路地裏、奥の二階建ては割烹はるのやさん。詳細は不明ですがおそらく遺構の一つだと思います。
表通りに面したはるのやさんの玄関廻り。窓の少ない造りが妙に気になります。
はるのやさんの物干し台、脇では黒ニャンコが凝固中(笑)
近くの路地、看板建築風の変わったお店を見つけました。ミタカ寿司さんです。手前もそうですが奥の高欄風の手摺部分が気になります。
お隣には板塀を構えたお宅。元置屋さんだったりすると嬉しいのですが、そうはうまく物事はいかないのでしょうね。
路地を抜けると、正面にコレが・・・元飲み屋さんだと思います。鉄板の腰に鉄平石、ショーケースの展示物の並びがいい味出しております。
別の路地、照明に蓮池と書かれているのは丸万寿司さん。花街が現役の頃から此処でお店を構えているそうです。お店のHPに花街のことが書かれてあります。
地図には丸万寿司さんの向かいに割烹早坂とあるのですが・・・なんと解体の真っ最中でした。
路地を抜けたところで見つけたお店の造りがちょっと面白いのです。
床屋さんかパーマ屋さんだったのではないのかと。でも、入口が二ヶ所というのが不思議です。グレーがかった水色のモザイクタイルが使われています。
国道126号線沿いにあるのが千葉市中央区役所。嘗てこの地に建っていたのが旧川崎銀行千葉支店、昭和2年(1927)竣工、設計は矢部又吉。あ、過去形は間違いですね、この近代建築、今もこの場所に建っているのですもの。近代建築なんて見えないじゃんと思われるかもしれませんが、もっと近付けば分かるはずです。
イオニア式のオーダーが見えますが、あの部分が旧川崎銀行千葉支店です。手前の丸柱は後から建てられた区役所部分になります。簡単に説明すると、以前の建物を包み込むようにして建物を上空に増築したと言えば分かりやすいでしょうか。その場所に建っていた近代建築のファサードだけを、新しいビルの外壁にペタッと貼り付けたのを見たことはありませんか?あれとは違って既存の建物には出来る限り手を加えていないのです。鞘堂方式といいます。あ、いちばん分かりやすい喩えが浮かびました。中尊寺金色堂、お堂(金色堂)をお堂で覆っていますよね、あれと同じ考え方です。しかし、様々な理由があったと思うのですが、とにかく丸柱が物凄く邪魔・・・この一言に尽きる。
更に南へ・・・市内を東西に流れる都川を渡ります。川沿いには寄棟屋根に出桁造りの商家が残っておりました。背後に見えるビルは千葉県庁です。
旧道っぽい細い通りを抜けて国道126号線から続く大通りに出ました。何かの気配を感じて振り返るとコレが・・・感想は言わないでおきます・・・。
大通りから覗き込むと突当りに十字架が見えるはずです。
日本基督教団千葉教会、明治28年(1895)に建てられました。設計はドイツ人建築家のリヒャルト・ゼール。千葉市には空襲のせいでこういった近代建築が殆んど残っていないのです。貴重な物件といえるでしょう。早朝ということで中が見られなかったのが残念です。
そろそろ遊廓跡に向かいましょうか。都川沿いを行き、JR外房線と京成千原線の高架を潜ったら線路沿いを千葉駅方面へ。
国道4号線(千葉街道)に出たら左折、そごうを通り過ぎると千葉モノレールが合流します。その先、登戸二丁目交差点でモノレールが再び国道から離れていきます。交差点の両側、神殿風の建物と奥の駐車場辺りが遊廓跡なのです。ちなみに神殿風の建物はウェディングドレス専門店、なんだか不思議な取り合わせですな。
遊廓跡と思われる界隈を一通り歩いてみましたが徒労に終わりました。
このモノレール、遊廓跡を貫通していることになります。それにしてもコレ、高所恐怖症の私にとってはちょっとしたアトラクションですな(笑)
一廓の東の外れで見つけた天満宮、何か無いかと探してみましたが全滅。記念之碑なるものをよくよく見ましたら、この神様、平成2年にこの地に移転したものなんだとか・・・ワハハ・・・。
遊廓跡から南西に300mほど、国道357号線(湾岸道路)が走っています。嘗てはこの辺りが海岸線でした。往時は妓楼の二階三階から海が望めたのではないでしょうか。今やそれも埋立てによって遥か彼方に遠ざかってしまいました。ちょっと寂しいですが、都市化の波に埋もれてしまった遊里ということなるのでしょうね。以上で千葉市の探索はオシマイ。
早朝の大人の風呂屋街、とても静かです・・・。
今回は千葉県の県庁所在地です。千葉という地名は平安時代中期に書かれた和名類聚抄に『下総国千葉郡千葉郷』と記されているそうです。古くから千葉と呼ばれていたわけですな。現在は典型的なベッドタウンといった様相の千葉市ですが、嘗ては有数の軍都でした。主に帝国陸軍関係の施設が多かったようですが、野戦砲兵学校に戦車学校、兵器廠などなど。更には鉄道連隊、津田沼から軍用線が延びていたそうです。変わったところでは、唯一米国本土を爆撃した風船爆弾を飛ばした気球連隊なんてものも駐屯していました。兵隊さんのいるところに遊里有りです。もちろん、この町にも存在していましたよ。当時の様子は上から『全国遊廓案内』、『よるの女性街・全国案内版』になります。
『千葉市遊廓 千葉県庁の所在地であつて鉄道に依る時は総武線千葉駅にて下車すれば自動車の便がある。昔は千葉城主の城下として相当繁華であつたが天正年間千葉氏亡びてから、次第に衰へた。但し明治時代に至つて県庁を置かれ行政上の中心となつたので、官公衛歯科大学校等設けられるにつれ、次第に遊廓も発展し現在では約十軒八十人位の娼妓が居る・・・附近の名勝、千葉神社、大日寺、来迎寺、千葉寺等猫鼻台(亥鼻台の間違いと思われます)は駅から東南十五町袖ヶ浦を眼下に見下し風光絶佳である。又海水浴場では登戸が有名である』
『芸妓は一〇〇名、ここの花代はかわつていて料亭ではお約束一〇〇円、時間三五〇円で四五〇円、次時から一五〇円。旅館に入るとお約束一〇〇円、時間四〇〇円で五〇〇円になり、次時から二〇〇円増。赤線は一〇軒で二五名。平均八〇〇円で泊める』
相変わらずなのですが、何処にあったのか全く記されていない、案内になっていないわけです。『よるの女性街』に至っては費用の話に終始しているし(笑)遊廓だけでなく花街も存在していたのですが、それについてはある程度の情報があり場所も特定することができました。しかし、遊廓は完全にお手上げ状態、困ったなあと腕組みしているとはたと思いつきました。千葉県民の貴兄でしたらご存知だと思いますが、現代の遊廓とも言える栄町です。そう、大人のお風呂屋さん街の存在です。遊廓から赤線、そして風呂屋街と変遷していった例は全国にありますよね。しかし、地図を見てもいまひとつ・・・困った揚句禁断のストリービューにも手を出してしまいましたが、やはりピンと来ない。此処じゃないの???そんなこんなでこの町については後回しにしていたのです。
それが解決したのがつい先日のこと・・・ウィキペディアで千葉市を開いてみてください。1930年頃の千葉市周辺の地図があると思います。総武本線と並行している京成電車の『しんちば』駅の右下辺りに『新地』と表記されています。念のため、よく利用させて頂いている京都にある『国際日本文化研究センター』のサイトでも確認してみました。データベースから所蔵地図に飛んで千葉県を検索してください。昭和12年(1937)に発行された『千葉市新地図』が見つかると思います。やはり同じ場所に『新地遊廓』と記されています。どうやら此処で間違いないようです。栄町側ばかりに注目していたら実は反対側だったというわけ、またやっちゃった・・・。この『日文研』のデータベース、明治から昭和にかけての古地図データが豊富でして大変便利なのです。しかも拡大縮小できてしまうというスグレモノ。各地の図書館や資料館などのサイトでも古地図が閲覧できたりしますが、いきなり江戸時代まで遡っちゃうのが多いのが難点。遊里を探すという目的からするとこれはあまり有り難くない(笑)その頃のを見てもチンプンカンプンですしね。
場所は判明しましたが、遺構が残っているのかがいちばん肝心なところ。何しろ軍都だった千葉市は終戦間際の大空襲で、中心街の70%が焦土と化しているからです。終戦直後に米軍が撮影した航空写真には・・・オオッ、周囲の家屋とは全く違う大きな黒い屋根が密集しているのがハッキリ写っております。どうやら海側は空襲から逃れられたようです。順に年代を追って見ていきますと、どうやら70年代後半までは何かしら遺構と言えるものが残っていたようです。しかし、1979年(昭和54)に撮影された航空写真を見ますと状況が一変します。すっかり消え失せている・・・それどころか道路の位置自体が変わっているわけです。これは大規模な区画整理と再開発によるものだと思われます。まあ、駅に近い場所ですから仕方ないのでしょうが・・・などと地図と写真を見てああだこうだ言っていても始まりません。もしかすると何か痕跡くらいは・・・と淡い期待を抱いて早朝の総武線に乗り込んだのでした。
JR千葉駅を出るとまず目に飛び込んでくるのが物凄い鉄骨の架構、千葉モノレールです。レールから車体を吊る懸垂式というやつですな。高所恐怖症の私のような人間にはちと辛い乗物かも。レールの分岐部分、とんでもないことになっております。まるでピタゴラスイッチみたい(笑)カーブの先が栄町です。
早朝の栄町、現在時刻は6:00です。お店が開店する前にちょっとお邪魔させてください。
あんみつ姫・・・必ずありますよね、お城を模したお店。装飾に葵の御紋らしきものが使われているのですがいいのでしょうか。まあ、微妙に変えているんでしょうけど。
中央に植栽がある広場みたいな処に出ました。お風呂屋さん以外にも廃れきった飲み屋さんが並んでおります。左のアラビア館さんではボーイさんが忙しそうに出入りしていました。物凄く惹かれますが、私には遊里跡を探すという重要な任務があるのだ(爆)書いていて空しくなってきた・・・。
廃墟と化した飲み屋さんを覗いてみるとこんな酷い状態。奥には浮世絵風の女性の絵が飾られています。
アラビア館さんの招きニャンコ。実際にゴロニャンして客引きしてくれたりして(笑)私にはしてくれなかったけど・・・。
なんと金泉さんにも。この仔もゴロニャンしてくれない・・・金が無いのバレていたようです。
結構な数の飲み屋さんが並んでいるのですが、現役のお店は少ないようですね。
お風呂屋さん街を抜けて栄町の東隣の院内一丁目へ・・・そこで寄棟屋根の洋館風の物件を見つけました。外壁のモルタルの廃れ具合が最高レベルですな。
千葉県中華料理環境衛生同業組合とのことなのですが、華僑の方の組合みたいです。
その先の並びがなかなかステキ、いいでしょコレ。
近くで見つけた料亭風の物件。シャッター上の看板に鳥の絵が描かれています。
ご覧のとおり、とっくの昔に退役されているようです。
素晴らしい雰囲気ですなあ。現役だったら行ってみたいお店です。
千葉駅方面に戻って国道14号線(佐倉街道)を渡った先、中央三丁目界隈が嘗ての花街だったそうです。当時は蓮池と呼ばれていました。前書きの『よる女性街』に記されているのは此処のことだと思います。
パルコの先の路地裏、奥の二階建ては割烹はるのやさん。詳細は不明ですがおそらく遺構の一つだと思います。
表通りに面したはるのやさんの玄関廻り。窓の少ない造りが妙に気になります。
はるのやさんの物干し台、脇では黒ニャンコが凝固中(笑)
近くの路地、看板建築風の変わったお店を見つけました。ミタカ寿司さんです。手前もそうですが奥の高欄風の手摺部分が気になります。
お隣には板塀を構えたお宅。元置屋さんだったりすると嬉しいのですが、そうはうまく物事はいかないのでしょうね。
路地を抜けると、正面にコレが・・・元飲み屋さんだと思います。鉄板の腰に鉄平石、ショーケースの展示物の並びがいい味出しております。
別の路地、照明に蓮池と書かれているのは丸万寿司さん。花街が現役の頃から此処でお店を構えているそうです。お店のHPに花街のことが書かれてあります。
地図には丸万寿司さんの向かいに割烹早坂とあるのですが・・・なんと解体の真っ最中でした。
路地を抜けたところで見つけたお店の造りがちょっと面白いのです。
床屋さんかパーマ屋さんだったのではないのかと。でも、入口が二ヶ所というのが不思議です。グレーがかった水色のモザイクタイルが使われています。
国道126号線沿いにあるのが千葉市中央区役所。嘗てこの地に建っていたのが旧川崎銀行千葉支店、昭和2年(1927)竣工、設計は矢部又吉。あ、過去形は間違いですね、この近代建築、今もこの場所に建っているのですもの。近代建築なんて見えないじゃんと思われるかもしれませんが、もっと近付けば分かるはずです。
イオニア式のオーダーが見えますが、あの部分が旧川崎銀行千葉支店です。手前の丸柱は後から建てられた区役所部分になります。簡単に説明すると、以前の建物を包み込むようにして建物を上空に増築したと言えば分かりやすいでしょうか。その場所に建っていた近代建築のファサードだけを、新しいビルの外壁にペタッと貼り付けたのを見たことはありませんか?あれとは違って既存の建物には出来る限り手を加えていないのです。鞘堂方式といいます。あ、いちばん分かりやすい喩えが浮かびました。中尊寺金色堂、お堂(金色堂)をお堂で覆っていますよね、あれと同じ考え方です。しかし、様々な理由があったと思うのですが、とにかく丸柱が物凄く邪魔・・・この一言に尽きる。
更に南へ・・・市内を東西に流れる都川を渡ります。川沿いには寄棟屋根に出桁造りの商家が残っておりました。背後に見えるビルは千葉県庁です。
旧道っぽい細い通りを抜けて国道126号線から続く大通りに出ました。何かの気配を感じて振り返るとコレが・・・感想は言わないでおきます・・・。
大通りから覗き込むと突当りに十字架が見えるはずです。
日本基督教団千葉教会、明治28年(1895)に建てられました。設計はドイツ人建築家のリヒャルト・ゼール。千葉市には空襲のせいでこういった近代建築が殆んど残っていないのです。貴重な物件といえるでしょう。早朝ということで中が見られなかったのが残念です。
そろそろ遊廓跡に向かいましょうか。都川沿いを行き、JR外房線と京成千原線の高架を潜ったら線路沿いを千葉駅方面へ。
国道4号線(千葉街道)に出たら左折、そごうを通り過ぎると千葉モノレールが合流します。その先、登戸二丁目交差点でモノレールが再び国道から離れていきます。交差点の両側、神殿風の建物と奥の駐車場辺りが遊廓跡なのです。ちなみに神殿風の建物はウェディングドレス専門店、なんだか不思議な取り合わせですな。
遊廓跡と思われる界隈を一通り歩いてみましたが徒労に終わりました。
このモノレール、遊廓跡を貫通していることになります。それにしてもコレ、高所恐怖症の私にとってはちょっとしたアトラクションですな(笑)
一廓の東の外れで見つけた天満宮、何か無いかと探してみましたが全滅。記念之碑なるものをよくよく見ましたら、この神様、平成2年にこの地に移転したものなんだとか・・・ワハハ・・・。
遊廓跡から南西に300mほど、国道357号線(湾岸道路)が走っています。嘗てはこの辺りが海岸線でした。往時は妓楼の二階三階から海が望めたのではないでしょうか。今やそれも埋立てによって遥か彼方に遠ざかってしまいました。ちょっと寂しいですが、都市化の波に埋もれてしまった遊里ということなるのでしょうね。以上で千葉市の探索はオシマイ。