名水湧く小さな城下町・アーチと円と鑑札と・細くて長〜い横丁建築
円形の部分には妖しげなステンドグラスが嵌っていた・・・と妄想すると楽しいわけ。
千葉市の後、木更津市を再々訪致しました。そして以前から場所が不明だった遊廓跡をようやく現地確認することができました。これも貴重な情報をコメントしてくださった方のおかげです。その様子については後日ゆっくりレポしたいと思います。さて、木更津駅に戻って参りました。駅の路線図をご覧下さい。木更津駅を起点にして東に向かう路線が見つかると思います。それがJR久留里線、千葉県民の方はご存知だと思いますが、他県の方で知っているというのは結構珍しいのではないでしょうか。この路線、大好物である盲腸線なのですよ。千葉県内を走るJR路線の中では唯一の非電化路線でもあります。以前から気になる存在でしたが、沿線に遊里と関係がある町が無さそうでしたので手付かずのままでした。
重要なこと忘れておりましたが読みは『くるり』です。何だか妙に軽いノリの読みですな(笑)ちなみに同名バンドとは全く関係ないと思います。現在は君津市の一部になっておりますが、昭和19年(1944)までは久留里町でした。特徴としてまず挙げられるのが、町の西を流れる小櫃川が造り出した河岸段丘上に町の中心があるということになるでしょうか。河岸段丘の町って面白いところが多いのです。嘗ては黒田氏が治めた久留里藩三万石の城下町でした。町の南東に位置する山に久留里城があり、再建されたものですが天守閣が見られるそうです。また、定期的に市が開かれていたようでして『久留里市場』という町名が今も残っています。町の中心は久留里線と並行している国道410号線(久留里街道)沿いになるでしょうか、約600mにわたって家並みが続いているようです。下調べの段階では遊里に関する情報は皆無でした。城下町に市場・・・遊里が存在する条件が揃っているように思えるのですがね。ですので、今回は気ままなまちあるきといった感じで歩き出したのですが、そういうときに限って発見しちゃうのですよねえ・・・。
木更津駅を出た二輌編成の気動車は、長閑すぎる風景の中をノンビリ走り45分ほどで久留里駅に到着。実は久留里線は此処が終点ではなく、三駅先の上総亀山駅までレールが延びております。盲腸線マニアのくせに終着駅を訪れないとは何事だと思われるかもしれませんが、終点には亀山湖というダム湖があるだけなのですもの。今回はこれでお許しくだされ。久留里駅の開業は大正元年(1912)、木造駅舎は当時のものかもしれません。
広々とした駅前広場は最近になって整備されたものみたい。まず目に飛び込んできたのは左の洋館風の建物です。
クルリ運送という運送屋さんの社屋みたいです。建てられたのは昭和初期といった感じでしょうか。軒裏に持送り風の装飾が並んでいます。アルミサッシに変わっておりますが、以前は上げ下げ窓だったのではないでしょうか。外壁のトタン風サイディングがまことに残念。
短い駅前通りを抜けますと、線路と並行している国道410号線に出ます。町の目抜き通りになります。そして、丁字路には久留里城を模した大門があるわけ、凄いなこりゃ(笑)とりあえず大門側は置いといて私は左折しますよ。
すぐに駐車場に面した崩壊寸前のトタン建築が現れます。何だコレは!?と思いながら駐車場を横切っていきますと、駅前広場から続く線路と国道に挟まれた通りに出てしまいました。
そこに冒頭画像の物件がひっそりと佇んでおりました。最初は単なる廃屋かと思ったのですが、妙な違和感を覚えたわけ。
モルタル掻き落としの外壁にボーダー状の装飾、それが入口のアーチに合わせて優雅な弧を描いているところがお気に入り。取って付けたようなシャープなキャノピーとの対比が面白いですね。そして、塞がれている謎の円形部分・・・何だったのでしょう。
両開きの木製框扉、斜めハンドルだったら完璧だったのに。扉には『元固』で合っているでしょうか、それ以降が判読不能です。
そして『風俗営業(料理店)』の鑑札。千葉県で時折見られるタイプ、( )内が業態によってバーとかカフエーといった感じで変わります。ここで言うところの料理店とはいったい何を指しているのでしょう。現在の風営法に照らし合わせると『二号営業:待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興または飲食をさせる営業』というのがあります。待合とありますが、芸者さんが出入りする料亭・割烹も同じだと思います。客の隣に座ってお酌はOKなのですが、ダンスはダメなのです。ダンスがOKなのは一号営業になります。キャバレーなどがこれに当て嵌まります。それから判断すると、コチラ、料理店というよりもカフェーに近いような気がするのですが・・・如何でしょう。
あちこちで見かけるのが土管を重ねたような謎の物体。お宅の庭先などにニョキニョキ生えております。正体については後ほど・・・。
県の土木事務所の敷地内にありました。以前の庁舎でしょうか。
久留里市場(下町)交差点、此処で家並みが途切れます。交差点脇にはくるり庵といううどん屋さん。いい感じに鄙びておりますなあ。カレーうどん450円!?に物凄く惹かれましたが、木更津で頂いたあさり尽くしに謎のヤキソバがまだ未消化・・・我慢しますわ。
近くの浮戸神社、GS脇にあるという不思議なロケーションです。この神様、実は元々は仏様だったのです。当初は延命寺というお寺だったのですが、慶応年間に起きた廃仏毀釈騒ぎを恐れた町人が、本尊だった不動明王を日本武尊を祭主とする神社として届出て毀釈を逃れたのだそうです。
大門に戻って参りました。今度は潜った先を探ってみます。
最初に現れるのが明治元年(1868)に建てられたという木村屋金物店さん。土蔵造りの見世蔵、石蔵風に見えますがあれは左官による目地です。このレトロな家並みの中では最古参だと思います。
棟瓦が美しいですね。下屋の屋根は銅板の瓦棒葺きのようです。軽トラで乗りつけた老夫婦が農具を品定め中でした。
その先、お化けみたいな庭木があるのは・・・
吉崎酒造さん、寛永元年(1624)創業という老舗の酒蔵です。奥に見える橙色の三角屋根が気になります。
向かいにあるのが割烹旅館の山徳さん、かなりの大店です。
こちらも幕末創業という老舗なのです。
一軒置いた先にも金物屋があります。明治15年(1882)に建てられた紙屋金物店さんです。金物屋なのに紙屋とはこれ如何に(笑)見事な鬼瓦が載っておりますよ。
その先には明治36年(1903)に建てられた藤本屋商店さん。黒文字ようじとありますが、久留里の名産みたいです。
邸宅の立派な門の脇にあるのがニョキニョキ土管の正体・・・そう井戸なのです。この辺りは太平洋側に位置する清澄山系からの伏流水が豊富なところなんだそうです。この井戸、『上総堀り』と呼ばれる工法で掘られておりまして、名前のとおり君津市が発祥とされています。現在も井戸採掘の代表的なものとして受け継がれている工法でもあります。その技術自体が国の重文にも指定されているのです。
この清らかな水、ポンプアップしているのではありません。自噴しているのです。伏流水の水圧を利用して自然に噴き出しているわけ。数ある井戸の中には750mの深さまで掘っているのがあるとか!?この井戸群は平成の名水百選にも選定されています。では一口・・・嗚呼、うめえ。
脇道を線路方面に下っていきますと、萎れかけの椿の向こうに煙突が見えてきます。
こちらも酒蔵、享保元年(1716)創業の藤平酒造さんです。名水あるところに酒蔵ありですな。
裏道を駅方面へ・・・さきほど紹介した割烹旅館山徳さんの裏口を見つけました。鉄平石の上に銘木が立つという変わった門柱脇には、内照式の看板が残っておりました。
ここでも鑑札を発見です。嘗ては芸者さんが出入りしていたのかもしれませんね。
近くの小さな溜池の上では遅咲きの八重桜が満開でしたよ。
線路を潜って小櫃川に出る通りで見つけた謎物件、敷地に高低差があり写っているのは二階部分になります。
アプローチの階段がまるで舞台装置みたい(笑)登りきった入口廻りも興味深い造りになっているわけ。果たして正体は???トタンサイディングを引っ剥がせば分かるような気がするのです。
これが町のある河岸段丘を造った張本人、トロッとした流れです。試しにこの小櫃川を地図と航空写真で遡ってみてください。とんでもない蛇行が見られます。かなり複雑な地形を流れているわけ、千葉県の山間部を流れる川にこういうの多いですよね。本物かどうかは分かりませんが川廻しの痕跡らしきものも確認できます。
駅前広場に戻って参りました。そこで広場に面したコチラを発見。みゆき通り商店街・・・これは間違いなく横丁建築だ。それにしても細い・・・こんなの初めてです。
片側のみにお店があるタイプです。飲み屋さんらしき痕跡がありましたが、そのほとんどにはシャッターが降りたまま・・・。
そんな中、唯一現役だったのは中華の喜楽飯店さん。いやはや、それにしても物凄いロケーションですなあ。こんな感じですが地元では結構有名なお店みたいです。とんねるずの番組にも出たようで入口に写真がありました。
で、この横丁建築の出口はといいますと・・・木村屋金物店さんの真ん前なのでした。
ノンビリ気ままなまちあるきかと思ったら・・・鑑札のある謎物件に美味しい名水に激狭横丁建築といった感じで、強烈なしっぺ返しを食らったような久留里の探索でした。遊里の情報が無いからと舐めてかかるとえらい目に遭うわけです・・・良い教訓になりましたよ(笑)
円形の部分には妖しげなステンドグラスが嵌っていた・・・と妄想すると楽しいわけ。
千葉市の後、木更津市を再々訪致しました。そして以前から場所が不明だった遊廓跡をようやく現地確認することができました。これも貴重な情報をコメントしてくださった方のおかげです。その様子については後日ゆっくりレポしたいと思います。さて、木更津駅に戻って参りました。駅の路線図をご覧下さい。木更津駅を起点にして東に向かう路線が見つかると思います。それがJR久留里線、千葉県民の方はご存知だと思いますが、他県の方で知っているというのは結構珍しいのではないでしょうか。この路線、大好物である盲腸線なのですよ。千葉県内を走るJR路線の中では唯一の非電化路線でもあります。以前から気になる存在でしたが、沿線に遊里と関係がある町が無さそうでしたので手付かずのままでした。
重要なこと忘れておりましたが読みは『くるり』です。何だか妙に軽いノリの読みですな(笑)ちなみに同名バンドとは全く関係ないと思います。現在は君津市の一部になっておりますが、昭和19年(1944)までは久留里町でした。特徴としてまず挙げられるのが、町の西を流れる小櫃川が造り出した河岸段丘上に町の中心があるということになるでしょうか。河岸段丘の町って面白いところが多いのです。嘗ては黒田氏が治めた久留里藩三万石の城下町でした。町の南東に位置する山に久留里城があり、再建されたものですが天守閣が見られるそうです。また、定期的に市が開かれていたようでして『久留里市場』という町名が今も残っています。町の中心は久留里線と並行している国道410号線(久留里街道)沿いになるでしょうか、約600mにわたって家並みが続いているようです。下調べの段階では遊里に関する情報は皆無でした。城下町に市場・・・遊里が存在する条件が揃っているように思えるのですがね。ですので、今回は気ままなまちあるきといった感じで歩き出したのですが、そういうときに限って発見しちゃうのですよねえ・・・。
木更津駅を出た二輌編成の気動車は、長閑すぎる風景の中をノンビリ走り45分ほどで久留里駅に到着。実は久留里線は此処が終点ではなく、三駅先の上総亀山駅までレールが延びております。盲腸線マニアのくせに終着駅を訪れないとは何事だと思われるかもしれませんが、終点には亀山湖というダム湖があるだけなのですもの。今回はこれでお許しくだされ。久留里駅の開業は大正元年(1912)、木造駅舎は当時のものかもしれません。
広々とした駅前広場は最近になって整備されたものみたい。まず目に飛び込んできたのは左の洋館風の建物です。
クルリ運送という運送屋さんの社屋みたいです。建てられたのは昭和初期といった感じでしょうか。軒裏に持送り風の装飾が並んでいます。アルミサッシに変わっておりますが、以前は上げ下げ窓だったのではないでしょうか。外壁のトタン風サイディングがまことに残念。
短い駅前通りを抜けますと、線路と並行している国道410号線に出ます。町の目抜き通りになります。そして、丁字路には久留里城を模した大門があるわけ、凄いなこりゃ(笑)とりあえず大門側は置いといて私は左折しますよ。
すぐに駐車場に面した崩壊寸前のトタン建築が現れます。何だコレは!?と思いながら駐車場を横切っていきますと、駅前広場から続く線路と国道に挟まれた通りに出てしまいました。
そこに冒頭画像の物件がひっそりと佇んでおりました。最初は単なる廃屋かと思ったのですが、妙な違和感を覚えたわけ。
モルタル掻き落としの外壁にボーダー状の装飾、それが入口のアーチに合わせて優雅な弧を描いているところがお気に入り。取って付けたようなシャープなキャノピーとの対比が面白いですね。そして、塞がれている謎の円形部分・・・何だったのでしょう。
両開きの木製框扉、斜めハンドルだったら完璧だったのに。扉には『元固』で合っているでしょうか、それ以降が判読不能です。
そして『風俗営業(料理店)』の鑑札。千葉県で時折見られるタイプ、( )内が業態によってバーとかカフエーといった感じで変わります。ここで言うところの料理店とはいったい何を指しているのでしょう。現在の風営法に照らし合わせると『二号営業:待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興または飲食をさせる営業』というのがあります。待合とありますが、芸者さんが出入りする料亭・割烹も同じだと思います。客の隣に座ってお酌はOKなのですが、ダンスはダメなのです。ダンスがOKなのは一号営業になります。キャバレーなどがこれに当て嵌まります。それから判断すると、コチラ、料理店というよりもカフェーに近いような気がするのですが・・・如何でしょう。
あちこちで見かけるのが土管を重ねたような謎の物体。お宅の庭先などにニョキニョキ生えております。正体については後ほど・・・。
県の土木事務所の敷地内にありました。以前の庁舎でしょうか。
久留里市場(下町)交差点、此処で家並みが途切れます。交差点脇にはくるり庵といううどん屋さん。いい感じに鄙びておりますなあ。カレーうどん450円!?に物凄く惹かれましたが、木更津で頂いたあさり尽くしに謎のヤキソバがまだ未消化・・・我慢しますわ。
近くの浮戸神社、GS脇にあるという不思議なロケーションです。この神様、実は元々は仏様だったのです。当初は延命寺というお寺だったのですが、慶応年間に起きた廃仏毀釈騒ぎを恐れた町人が、本尊だった不動明王を日本武尊を祭主とする神社として届出て毀釈を逃れたのだそうです。
大門に戻って参りました。今度は潜った先を探ってみます。
最初に現れるのが明治元年(1868)に建てられたという木村屋金物店さん。土蔵造りの見世蔵、石蔵風に見えますがあれは左官による目地です。このレトロな家並みの中では最古参だと思います。
棟瓦が美しいですね。下屋の屋根は銅板の瓦棒葺きのようです。軽トラで乗りつけた老夫婦が農具を品定め中でした。
その先、お化けみたいな庭木があるのは・・・
吉崎酒造さん、寛永元年(1624)創業という老舗の酒蔵です。奥に見える橙色の三角屋根が気になります。
向かいにあるのが割烹旅館の山徳さん、かなりの大店です。
こちらも幕末創業という老舗なのです。
一軒置いた先にも金物屋があります。明治15年(1882)に建てられた紙屋金物店さんです。金物屋なのに紙屋とはこれ如何に(笑)見事な鬼瓦が載っておりますよ。
その先には明治36年(1903)に建てられた藤本屋商店さん。黒文字ようじとありますが、久留里の名産みたいです。
邸宅の立派な門の脇にあるのがニョキニョキ土管の正体・・・そう井戸なのです。この辺りは太平洋側に位置する清澄山系からの伏流水が豊富なところなんだそうです。この井戸、『上総堀り』と呼ばれる工法で掘られておりまして、名前のとおり君津市が発祥とされています。現在も井戸採掘の代表的なものとして受け継がれている工法でもあります。その技術自体が国の重文にも指定されているのです。
この清らかな水、ポンプアップしているのではありません。自噴しているのです。伏流水の水圧を利用して自然に噴き出しているわけ。数ある井戸の中には750mの深さまで掘っているのがあるとか!?この井戸群は平成の名水百選にも選定されています。では一口・・・嗚呼、うめえ。
脇道を線路方面に下っていきますと、萎れかけの椿の向こうに煙突が見えてきます。
こちらも酒蔵、享保元年(1716)創業の藤平酒造さんです。名水あるところに酒蔵ありですな。
裏道を駅方面へ・・・さきほど紹介した割烹旅館山徳さんの裏口を見つけました。鉄平石の上に銘木が立つという変わった門柱脇には、内照式の看板が残っておりました。
ここでも鑑札を発見です。嘗ては芸者さんが出入りしていたのかもしれませんね。
近くの小さな溜池の上では遅咲きの八重桜が満開でしたよ。
線路を潜って小櫃川に出る通りで見つけた謎物件、敷地に高低差があり写っているのは二階部分になります。
アプローチの階段がまるで舞台装置みたい(笑)登りきった入口廻りも興味深い造りになっているわけ。果たして正体は???トタンサイディングを引っ剥がせば分かるような気がするのです。
これが町のある河岸段丘を造った張本人、トロッとした流れです。試しにこの小櫃川を地図と航空写真で遡ってみてください。とんでもない蛇行が見られます。かなり複雑な地形を流れているわけ、千葉県の山間部を流れる川にこういうの多いですよね。本物かどうかは分かりませんが川廻しの痕跡らしきものも確認できます。
駅前広場に戻って参りました。そこで広場に面したコチラを発見。みゆき通り商店街・・・これは間違いなく横丁建築だ。それにしても細い・・・こんなの初めてです。
片側のみにお店があるタイプです。飲み屋さんらしき痕跡がありましたが、そのほとんどにはシャッターが降りたまま・・・。
そんな中、唯一現役だったのは中華の喜楽飯店さん。いやはや、それにしても物凄いロケーションですなあ。こんな感じですが地元では結構有名なお店みたいです。とんねるずの番組にも出たようで入口に写真がありました。
で、この横丁建築の出口はといいますと・・・木村屋金物店さんの真ん前なのでした。
ノンビリ気ままなまちあるきかと思ったら・・・鑑札のある謎物件に美味しい名水に激狭横丁建築といった感じで、強烈なしっぺ返しを食らったような久留里の探索でした。遊里の情報が無いからと舐めてかかるとえらい目に遭うわけです・・・良い教訓になりましたよ(笑)