珍しい箱型の瓦には狛犬が乗っていたみたい。でもコレ、もう見ることができないのです。
上村敏彦著『東京花街・粋な街』によりますと、根岸に三業地の許可が下りたのは大正10年(1921)のことでした。江戸の頃から続く伝統的な花街ではなく、新興勢力の部類に入るということで問題ないと思われます。元々は三河松平家の屋敷跡だったそうで、そこの2,000坪が指定地として開発されます。当時、周辺には後述する『御行の松』以外名所らしいものがない寂しい場所だったようです。地図をご覧になれば分かると思いますが、近くの上野不忍池には『池の端』という一大花街がありましたし、東に600mほど行きますと御大『新吉原』がデーンと構えているわけ。そんな巨大遊里の近くにある地味な遊里というのが最初のイメージでした。実際そんな雰囲気だったようで、粋人が好む大人の隠れ家的な遊び場だったそうです。
昭和2年(1927)時点で置屋42軒、芸妓約100名、半玉12、3名という記録が残っているそうです。戦争が始まり昭和19年(1944)になると花街は一時閉鎖という憂き目に・・・さらに空襲で一帯に被害が発生します。どんな状態だったのかと思い、終戦直後に米軍が撮影した航空写真で確認してみました。確かに被害はあったようですが、一面焼け野原という感じではなく所々に戦災を逃れた建物が残っているように見えます。興味深いのは『柳通り』を挟んだ向かい側(現在の根岸三丁目、花街があったのは四丁目)が見事なまでに戦災から逃れていること。これはもしかすると柳並木が防火帯の役目を果たした・・・なんてことはないでしょうけど。
戦後、花街は復活します。その後の料亭と芸妓の数の推移は以下のとおりです。昭和27、8年(1952、1953)料亭30軒、芸妓百数十名 → 昭和32年(1957)料亭28軒 → 昭和41年(1966)料亭20軒、芸妓70名 → 昭和51年(1976)料亭12軒、芸妓三十数名 → 昭和56年(1981)料亭9軒。どこの花街も同じですが、ゆっくりと衰退していったようです。『東京花街・粋な街』には、現在営業している料亭は『杉田』『福井』『増田』の三軒だけとあります。しかし、以下のレポをご覧になれば分かると思いますが、完全に『跡』と断言しても間違っていないかと。いつ頃消滅したのかは不明ですが・・・。その三軒のうちの一軒ですが、驚くべき変身を遂げていたのです。これは女性の皆さん必見ですぞ(笑)
前回からの続き・・・角材の車止めがある路地を覗き込むと、まず目に飛び込んでくるのがコチラ。いきなりラスボスが出現といった感じですな(笑)
すんばらしい手摺に注目ですぞ。拙ブログで度々高欄風、高欄風と馬鹿みたいに連呼しておりますが、これぞまさしく本物の高欄手摺。小口が腐食防止の銅板で包まれているのお分かりになります?小憎らしいことやっておりますなあ。
その全景、外壁の草臥れっぷりがいいですね。雰囲気からして戦災から逃れたものではないかと。
その先にも・・・入口廻りの意匠が秀逸なのです。
切妻の破風と円形の造作、おそらく山(富士山?)と満月を表しているのだと思います。風流ですなあ、こういうの大好きです。
その全景、かなり複雑な造りです。さきほどの部分は勝手口みたいですね。現在はアパートとして余生を送っているようです。
お隣、溶岩を積み上げた塀の先に雁行する外壁。冒頭画像の物件になります。
料亭すぎ田さん、前書きにある現役の『杉田』とはコチラのことだと思います。しかし、この時点(2012)で既に退役済みといった感じでした。今回レポを書くにあたって地図で確認してみましたら、なぜか建物の形が消えているのです。嫌な予感・・・禁断のストリートビューに切り替えてみましたら・・・案の定、建売住宅の基礎工事の真っ最中、今頃は新しい家主の生活が始まっていることでしょう。もうこの姿を見ることはできないのです。
界隈は迷路のような路地がクネクネ、その中に遺構と思われるものがチラホラ。コチラの洗い出し風左官仕上に群青色の洋瓦が乗った小庇がある物件もそうではないかと。お隣の真新しいアパートみたいな物件に注目、こう見えても元料亭なのです。
料亭時代の屋号は『福井』、コチラも前書きにあるお店だと思います。現在は『上野RYOTEI福井』、なんと女性専用のシェアハウスなのです。料亭から女の園へ、なんという華麗な変身・・・そして素晴らしい活用法だと思うわけです。同じような物件を新宿十二社の花街跡を再訪した際に見たことがあります。前回は連れ込み旅館だった物件がシェアハウスに変わっていました。それは待合→連れ込み旅館→シェアハウスという山あり谷ありの歴史でしたが(笑)贅沢を言わせてもらえば、もう少し往時の雰囲気を残してリフォームして欲しかった。取り扱っている不動産屋のLINK貼っておきます。建物のPLANや写真も見られます。朗報です、ちょうど空き室があるそうですよ〜。
一階の一部は小料理屋になっています。この玄関廻りはいい雰囲気、往時のままなのでしょうか。
別の路地にも・・・料亭だったのか置屋だったのかは分かりませんが、どう見ても普通のお宅には見えませんな。
花街跡の東の外れ、奥まった場所の庭木の上に古びた入母屋屋根がちらと顔を覗かせていました。そして、手前にはおでんと書かれた看板。
元気な庭木のせいで全景が捉えられない・・・。おでんの『根岸 満寿多』さん、前書きの『増田』は此処のことだと思われます。こっちは料亭からおでん屋へ、美味しい変身です(笑)中は個室が並ぶ料亭時代のままみたい、個室おでんって珍しいのではないでしょうか。まさに隠れ家的なお店ですな。
近隣唯一の名所とされる『御行の松』を目指します。途中にあったお宅、アプローチの石灯篭に石畳、玄関の袖壁には下地窓・・・コチラもそうなのでしょうか。
『御行の松(おぎょうのまつ)』は西蔵院不動堂の境内にあります。いや、あったというのが正しいかもしれません。初代は枯れちゃったから・・・。別名根岸の大松とも呼ばれ、江戸の頃から人々に親しまれ、数々の浮世絵などにも描かれた名木でした。高さ14m、幹廻り4mあまり、大正15年(1926)に天然記念物に指定されます。その当時で樹齢350年だったそうですが、直後に枯死・・・まあ、大往生ということになるのでしょうか。
幹の一部が展示されています。隣では昭和51年(1976)に植えられた三代目がスクスク生育中です。
正直言うと此処を訪れたのは『松』が目的ではありません(笑)目的は不動堂の玉垣、『根岸三業会』とクッキリ描かれております。文字部分のエメラルドグリーンって初見です。
羽二重だんごさんもありましたよ。
さて、帰りは金杉通りと並行している裏道を辿っていきましょう。この通りは戦災から逃れた根岸三丁目を貫いています。途中にあったヤバすぎる廃屋、これは危険だ。
少し行くと通りからちょっと引っ込んだ場所に妖しげな木造建築。手前にはネオン管で旅館と描かれた看板(見事なまでのブレブレで撮影失敗・・・)が立っているのです。はて、この辺りは花街ではないはず・・・。此処、ちょうどラブホ街と花街跡との中間に位置しているわけ、もしかすると連れ込み旅館の成れの果てかもしれません。
その先の路地に入ってみますと、どうやら先はどん詰まりみたい。
どん詰まりで古びた町屋が向かい合っておりました。右の『そら塾』はギャラリーです。
このまま行くとラブホ街に突入しちゃいますので、適当に裏路地を迂回していきましょう。ドクダミって名前に似合わない可憐な花を咲かせますよね。
右の石畳を行ったらこれがまたどん詰まり・・・。
迷いながらも何とか辿り着いたのはラブホ街の西の外れ、左は線路、頭上の跨線橋は言問通りです。
線路沿いにあるのが『旅館志ほ原』さん、ぶっちゃけ連れ込み旅館で間違いないと思います。電車からもバッチリ見えますのでお気付きの方も多いかと。庭木が元気すぎて入口が分からない・・・もし、この状態で現役だとしたら・・・あなたどうします?(笑)『東京花街・粋な街』に、根岸の芸妓の出先として鶯谷『志保原』とあるのです。此処のことかもしれません。
テレビ付というのを売り文句にすることができた時代の料金ですな。
以上で根岸の花街跡の探索はオシマイ。近年まで現役だったとはいえ、これだけ遺構が残っているのはかなり貴重な場所だと思います。時間の関係でゆっくりできませんでしたが、次回は戦災を逃れた区域をジックリ巡りたいですね。