昭和レトロなパチンコ屋・味噌蔵裏の呑んべえ横丁・遺跡みたいなタンク跡
真っ赤なアーチ、これもカフェー建築の一種・・・なのかも。
諏訪湖の西岸に位置する岡谷市、江戸の頃は平野村と呼ばれていました。現在の市街地の北を旧中山道が通っていましたが、当時は下諏訪宿と塩尻宿の間を繋ぐ寒村だったそうで、単なる通り過ぎるだけの場所だったようです。そんな寒村が激変するのは明治に入ってからになります。イタリアとフランスの技術を取り入れた製糸工場が進出し一気に活気付くことになります。村から町を経ないでいきなり市になったそうですから、当時の隆盛を伺えるエピソードの一つではないでしょうか。明治44年(1911)時点で、輸出生糸の出荷上位10社のうち6社が岡谷の企業だったそうです。シルクの生糸は当時の主要輸出品ですから、ある意味岡谷は日本経済を支えていた町でもあるわけです。
しかし、何処でも同じですが製糸業はゆっくりと衰退していくことになります。それに変わって進出してきたのが精密機械工業、これには諏訪湖の水が大きな役割を果たしていたのでしょう。カメラ関係ではヤシカの本社工場がありました。その様子は『東洋のスイス』と称されているそうです。これにはちょっとした逸話がありまして、実はお隣の諏訪市も『東洋のスイス』と呼ばれているそうなのです。こっちこそが本物の『東洋のスイス』だと譲らず、また諏訪地域の中心都市の座を巡って争っているそうで、両市の仲は最悪なんだとか、本当ですかね(笑)
以上のことから分かりますように、この岡谷市、歴史ある町ではないわけです。変な喩えですが、突如頭角を現した新参者みたいな町です。古くからの城下町や宿場町でしたら遊里の類が存在していたとしてもおかしくないのですが、事前の杜撰な下調べではそれらの情報は皆無でした。でも、嘗ては日本経済を牽引していた町ですから、何かあるんじゃないかと思っているのですが・・・まあ、とにかく地図上の匂う場所を巡ってみることに致しましょう。
目が覚めてビックリ、一面白銀の世界。これが困ったもので、積もるならしっかり積もってくれたほうがまだ歩きやすいのですが、薄皮一枚がへばり付いている状態のためツルッツル、用心して行きましょう。
宿の近くにある岡谷浴場さん、シンプルな造りです。おそらくかなり直されているのだと思います。
その先に立派な蔵が現れます。豊島屋さんという酒蔵のもの。昭和24年(1949)設立という新興の酒蔵ですが、前身は慶応3年(1867)創業の絹糸販売の商家なんだそうです。
はす向かいにも・・・こっちは三階建てですぞ。金上?繭倉庫、明治時代に建てられたとされています。昭和初期、岡谷にはこういった繭蔵が100棟余り建ち並んでいました。経済通産省の近代化産業遺産に登録されています。
だだっ広い駐車場みたいな処にポツンと建っているのは旧山一林組製糸事務所。大正10年(1921)竣工、寄棟屋根から突き出したドーマー屋根、外壁は煉瓦風タイルに大きめの上げ下げ窓が並ぶシンメトリーな構成です。山一林組は県内5工場、県外4工場を擁していたという岡谷を代表する製糸工場でした。戦後すぐの航空写真を見ますと、この事務所裏手に広大な工場棟と思われる建物が規則正しく並んでいるのが確認できます。現在は機織り体験などができる施設になっているようです。
昭和2年(1927)此処で発生したのが『あゝ野麦峠』にも出てくる『山一争議』です。1300名もの女工さんが起こしたストライキ、ほんと酷い扱いだったみたいですからね。結局女工さんたちは敗れてしまうのですが、彼女たちがいたからこそ日本の近代化が進んだという側面もあるわけです。ブラック企業ってこの頃からあったのですね。
車寄せ風キャノピーを支える柱は大好物の擬木です。
同じ敷地にある守衛所、事務所と合わせて国の登録文化財に指定されています。
内部の様子・・・長らく使われていないみたいですな。
イルフプラザから北東に延びる通り、これが嘗ての目抜き通りだと思われます。
脇道にあった中華屋さんの成れの果て。トタンの鮮やかな青がステキ。
テントで隠れておりますが、内側には何やら装飾がチラチラ・・・でも覗けない。
その先に昭和レトロなパチンコ屋。間違いなく手で弾いていた頃のものですな。
窓には謎の看板?コレ、内照式なのでしょうか、明りが灯った姿見てみたいですね。
こんな電飾、今や絶滅寸前だよなあ。ネオンも灯ることはないのでしょうね。
お隣は男爵とMay Queen・・・何このジャガイモ祭り(笑)
モザイクタイルで彩られたサスキチさんの外壁。一般的に現代のモザイクタイルは、工場で30センチ角の紙のシートに並べられた状態で現場に送られてきます。壁に貼った後、表面を濡らすとシートだけが剥がれるわけ。小さなタイルを一個一個貼らないで済むということですな。まあ、これは模様ではなく一色のタイル貼る場合なのですが、此処の場合は模様のシートを作ってそれを繰り返しているのかと思ったのですが・・・。クリックして拡大してみてください。模様ごとに微妙に違っているのがお分かりになるでしょうか。一個一個貼っているわけ・・・何という手間・・・。タイルばかりに気をとられていましたが、科学模型ってなんぞ???
目抜き通りの北側に入りますと、雰囲気がちょっと艶っぽくなります。間口の狭い千房さん・・・
ドアにはバーの鑑札が残っておりました。
その先に冒頭画像の真っ赤なアーチがあります。こう見ると後から造ったようにも思えるのですが、最初からこの姿であって欲しい・・・というのは私の願望です。
お隣には変な位置にメダイヨン風の装飾が残る看板建築。看板でばれちゃっておりますが、こう見えても割烹なのです。
寿々喜亭さん、洋館付割烹とでも言っておきましょうか。ネットでも一応ヒットするのですが、現役という感じはあまりしませんでした。この一画、コチラ以外にも数軒の割烹が並んでいるのです。もしかすると・・・。
塀の向こうからこんな欄間が顔を覗かせておりました。
さらに裏道へ・・・コチラはとっくの昔に退役済みと思われるテーラー。
その先には反り屋根が重なる珍しい物件、岡谷聖バルナバ教会です。昭和3年(1928)に建てられました。最近になって外壁を改修されたみたいです。
近くで見つけた半ば廃屋と化している物件、みや本荘とありますのでアパートだと思うのですが・・・。
玄関に雲を模していると思われる装飾、コレ遺構でも時折見られるものなのですが、果たして・・・。
路地に二軒の飲食店、手前は蕎麦屋、奥はうなぎ屋でしょうか。諏訪湖に面した岡谷はうなぎが名物なのです。
手前の好乃家さんには料理店の鑑札、引き戸の格子が美しい。
うな勝さんの外壁が面白いことになっております。まるで迷彩柄みたい(笑)コレ、鉄平石に見えるかもしれませんが、なんとタイルなのです。にしては随分と大判のような・・・標準品にこんなのないよなあ。特注かもしれません。
円形の造作も・・・分かりにくくて申し訳ない。路地抜けると県道14号線(岡谷街道)に出ます。
県道を下諏訪方面に少し行きますと、交差点に面しているかなり大きな近代建築が見えてきます。昭和11年(1936)に建てられた旧岡谷市役所庁舎です。市役所として昭和62年(1987)まで使われていましたが、現在は市の消防本部になっています。キャノピーの櫛状の装飾が特徴的な重厚な建物です。
傍らにはカイゼル髭を生やした老人の銅像。この方は製糸業で財を成した尾澤福太郎、この庁舎は彼が市に寄贈したものなのです。これも製糸業が隆盛を誇っていたという証ですな。
その1はここまで。情報の少ない町ですので、その2でも本能に従って心の趣くまま、地図上の匂う場所を彷徨います。
真っ赤なアーチ、これもカフェー建築の一種・・・なのかも。
諏訪湖の西岸に位置する岡谷市、江戸の頃は平野村と呼ばれていました。現在の市街地の北を旧中山道が通っていましたが、当時は下諏訪宿と塩尻宿の間を繋ぐ寒村だったそうで、単なる通り過ぎるだけの場所だったようです。そんな寒村が激変するのは明治に入ってからになります。イタリアとフランスの技術を取り入れた製糸工場が進出し一気に活気付くことになります。村から町を経ないでいきなり市になったそうですから、当時の隆盛を伺えるエピソードの一つではないでしょうか。明治44年(1911)時点で、輸出生糸の出荷上位10社のうち6社が岡谷の企業だったそうです。シルクの生糸は当時の主要輸出品ですから、ある意味岡谷は日本経済を支えていた町でもあるわけです。
しかし、何処でも同じですが製糸業はゆっくりと衰退していくことになります。それに変わって進出してきたのが精密機械工業、これには諏訪湖の水が大きな役割を果たしていたのでしょう。カメラ関係ではヤシカの本社工場がありました。その様子は『東洋のスイス』と称されているそうです。これにはちょっとした逸話がありまして、実はお隣の諏訪市も『東洋のスイス』と呼ばれているそうなのです。こっちこそが本物の『東洋のスイス』だと譲らず、また諏訪地域の中心都市の座を巡って争っているそうで、両市の仲は最悪なんだとか、本当ですかね(笑)
以上のことから分かりますように、この岡谷市、歴史ある町ではないわけです。変な喩えですが、突如頭角を現した新参者みたいな町です。古くからの城下町や宿場町でしたら遊里の類が存在していたとしてもおかしくないのですが、事前の杜撰な下調べではそれらの情報は皆無でした。でも、嘗ては日本経済を牽引していた町ですから、何かあるんじゃないかと思っているのですが・・・まあ、とにかく地図上の匂う場所を巡ってみることに致しましょう。
目が覚めてビックリ、一面白銀の世界。これが困ったもので、積もるならしっかり積もってくれたほうがまだ歩きやすいのですが、薄皮一枚がへばり付いている状態のためツルッツル、用心して行きましょう。
宿の近くにある岡谷浴場さん、シンプルな造りです。おそらくかなり直されているのだと思います。
その先に立派な蔵が現れます。豊島屋さんという酒蔵のもの。昭和24年(1949)設立という新興の酒蔵ですが、前身は慶応3年(1867)創業の絹糸販売の商家なんだそうです。
はす向かいにも・・・こっちは三階建てですぞ。金上?繭倉庫、明治時代に建てられたとされています。昭和初期、岡谷にはこういった繭蔵が100棟余り建ち並んでいました。経済通産省の近代化産業遺産に登録されています。
だだっ広い駐車場みたいな処にポツンと建っているのは旧山一林組製糸事務所。大正10年(1921)竣工、寄棟屋根から突き出したドーマー屋根、外壁は煉瓦風タイルに大きめの上げ下げ窓が並ぶシンメトリーな構成です。山一林組は県内5工場、県外4工場を擁していたという岡谷を代表する製糸工場でした。戦後すぐの航空写真を見ますと、この事務所裏手に広大な工場棟と思われる建物が規則正しく並んでいるのが確認できます。現在は機織り体験などができる施設になっているようです。
昭和2年(1927)此処で発生したのが『あゝ野麦峠』にも出てくる『山一争議』です。1300名もの女工さんが起こしたストライキ、ほんと酷い扱いだったみたいですからね。結局女工さんたちは敗れてしまうのですが、彼女たちがいたからこそ日本の近代化が進んだという側面もあるわけです。ブラック企業ってこの頃からあったのですね。
車寄せ風キャノピーを支える柱は大好物の擬木です。
同じ敷地にある守衛所、事務所と合わせて国の登録文化財に指定されています。
内部の様子・・・長らく使われていないみたいですな。
イルフプラザから北東に延びる通り、これが嘗ての目抜き通りだと思われます。
脇道にあった中華屋さんの成れの果て。トタンの鮮やかな青がステキ。
テントで隠れておりますが、内側には何やら装飾がチラチラ・・・でも覗けない。
その先に昭和レトロなパチンコ屋。間違いなく手で弾いていた頃のものですな。
窓には謎の看板?コレ、内照式なのでしょうか、明りが灯った姿見てみたいですね。
こんな電飾、今や絶滅寸前だよなあ。ネオンも灯ることはないのでしょうね。
お隣は男爵とMay Queen・・・何このジャガイモ祭り(笑)
モザイクタイルで彩られたサスキチさんの外壁。一般的に現代のモザイクタイルは、工場で30センチ角の紙のシートに並べられた状態で現場に送られてきます。壁に貼った後、表面を濡らすとシートだけが剥がれるわけ。小さなタイルを一個一個貼らないで済むということですな。まあ、これは模様ではなく一色のタイル貼る場合なのですが、此処の場合は模様のシートを作ってそれを繰り返しているのかと思ったのですが・・・。クリックして拡大してみてください。模様ごとに微妙に違っているのがお分かりになるでしょうか。一個一個貼っているわけ・・・何という手間・・・。タイルばかりに気をとられていましたが、科学模型ってなんぞ???
目抜き通りの北側に入りますと、雰囲気がちょっと艶っぽくなります。間口の狭い千房さん・・・
ドアにはバーの鑑札が残っておりました。
その先に冒頭画像の真っ赤なアーチがあります。こう見ると後から造ったようにも思えるのですが、最初からこの姿であって欲しい・・・というのは私の願望です。
お隣には変な位置にメダイヨン風の装飾が残る看板建築。看板でばれちゃっておりますが、こう見えても割烹なのです。
寿々喜亭さん、洋館付割烹とでも言っておきましょうか。ネットでも一応ヒットするのですが、現役という感じはあまりしませんでした。この一画、コチラ以外にも数軒の割烹が並んでいるのです。もしかすると・・・。
塀の向こうからこんな欄間が顔を覗かせておりました。
さらに裏道へ・・・コチラはとっくの昔に退役済みと思われるテーラー。
その先には反り屋根が重なる珍しい物件、岡谷聖バルナバ教会です。昭和3年(1928)に建てられました。最近になって外壁を改修されたみたいです。
近くで見つけた半ば廃屋と化している物件、みや本荘とありますのでアパートだと思うのですが・・・。
玄関に雲を模していると思われる装飾、コレ遺構でも時折見られるものなのですが、果たして・・・。
路地に二軒の飲食店、手前は蕎麦屋、奥はうなぎ屋でしょうか。諏訪湖に面した岡谷はうなぎが名物なのです。
手前の好乃家さんには料理店の鑑札、引き戸の格子が美しい。
うな勝さんの外壁が面白いことになっております。まるで迷彩柄みたい(笑)コレ、鉄平石に見えるかもしれませんが、なんとタイルなのです。にしては随分と大判のような・・・標準品にこんなのないよなあ。特注かもしれません。
円形の造作も・・・分かりにくくて申し訳ない。路地抜けると県道14号線(岡谷街道)に出ます。
県道を下諏訪方面に少し行きますと、交差点に面しているかなり大きな近代建築が見えてきます。昭和11年(1936)に建てられた旧岡谷市役所庁舎です。市役所として昭和62年(1987)まで使われていましたが、現在は市の消防本部になっています。キャノピーの櫛状の装飾が特徴的な重厚な建物です。
傍らにはカイゼル髭を生やした老人の銅像。この方は製糸業で財を成した尾澤福太郎、この庁舎は彼が市に寄贈したものなのです。これも製糸業が隆盛を誇っていたという証ですな。
その1はここまで。情報の少ない町ですので、その2でも本能に従って心の趣くまま、地図上の匂う場所を彷徨います。