塞がれた菱形の下地窓、ご丁寧にも立派な庇が付いているのが面白いですね。
下の画像は後ほど紹介する物件の脇に立てられていた案内板なのですが・・・というかしっかり丸山タンクって出ちゃっていますな(笑)
コレ、昭和11年(1936)に発行された大日本職業明細図の岡谷駅周辺になります。この大日本職業明細図、大正から昭和初期にかけて東京交通社が出版した所謂当時の住宅地図と思っていただけたら宜しいかと。訳の分からん江戸時代の古地図とは違って、街区の形が現在のものとあまり違っていない町が多いので探索の際に便利なんですよね。もちろん遊里の情報もしっかり載っています。存在していればね。でも、なかなか手にいれることができない・・・財布に余裕があるとき、一枚また一枚とお岩のようにチマチマ購入しているのですが、結構値が張るのが困ったもの。国立国会図書館でも閲覧できますが、なぜかネットでは状態が悪いとかで見ることができないのです。早急なデジタルデータ化をと切に望んでいるわけ。
この岡谷の地図、ジックリ睨めっこしてみましたが、妖しげな場所みたいなものは見つけられませんでした。その1で紹介した割烹が集まっている一画は新屋敷と呼ばれていたみたい。そんな程度の情報しか得られませんでしたので、やはりこの町には無かったのかもしれませんね。まあ、それはそれで一向に構いません。楽しむ方法はたくさんありますから。
旧市役所を通り過ぎ、引き続き県道14号線(岡谷街道)を辿ります。脇道に煙突と土蔵、コチラは高橋醸造さん。醤油の蔵元です。
お次は高天酒造さん、明治4年(1871)創業、かなり立派な酒蔵です。
お店の裏手、見事な蔵が並んでおります。
近くの小口正八幡宮の向かいにギョッとする物件を発見。どうやら歯医者さんの住宅部分のようなのですが、何なのこの欄間。
ここいらで駅方面に戻ります。コチラも歯医者さん、何となくですがキース・ヘリング的なグリル(格子)が連続しているわけ。
おやきはナス味噌がいちばん、餡子とかは邪道ですな。
途中で出会った下見板張りの洋館、トンガリ屋根の車寄せキャノピーが目印。詳細は分かりませんでした。
駅の近くに戻ってきました。スポルト岡谷の裏手、澄み切った冬空に一際目立つ真っ白な煙突が屹立しています。サスキチ味噌さんです。
創業は文化年間とのことですが、この場所、明治の頃は製糸工場だったそうで、当時はそこの醸造部門という位置づけでした。製糸だけでなく手広く商売していたということなのでしょう。
近くの喜久地旅館さん、現役です。地図上で気になっていた存在だったのですが、どうやら違っていたみたいですな。
サスキチ味噌さんの南側に、歯抜け状の更地が目立つ、廃れきった呑んべえ横丁があります。
此処も地図上で気になっていた一画なのですが、後で戦後すぐに米軍が撮影した航空写真を確認してみますと、畑か更地か・・・建物が確認できないわけ。その後に形成されたものだと思います。もちろん大日本職業明細図にも載っておりません。
端っこのお店にはバーの鑑札が残っておりました。
ダイヤに斜めライン、このドアいいね。
おそらく現役のお店は存在していないと思われる一画です。これも隆盛を誇った製糸業の名残なのでしょうか。注目していただきたいのは右の建物。
舞踊研究所とありますが、コチラも元々は飲み屋さんだと思います。舞踊ということは、もしかすると見番・・・ということはないよなあ。正統派の物干し台が大変宜しいと思います。
三角屋根の煙突がカワイイ。更地が目立ちますが、ちょっと前の航空写真にはビッシリと建物が写っていますので、さぞかし壮観だったのではないでしょうか。
並行する通りも同じような状況。こっちはハートが並ぶドア。
隣には粋な透かし彫りが残っておりましたよ。
でもこの並び、裏から見ると完全にバラック状態・・・。
イルフプラザの向かい、商店の間の此処入っちゃってもいいの?と思うような坂道を雪に足を取られながら登っていきますと、高台のてっぺんに古代遺跡のような円形の構造物が現れます。前書きに出てくる丸山タンク跡です。
造られたのは大正3年(1914)、ちょうど百年前になりますね。製糸業には清らかな水がたくさん必要になります。このタンクは近くの天竜川からポンプアップした水を貯留し、此処から各製糸工場に分配していたものになります。
直径12mの赤煉瓦の内側にコンクリートの二重円があります。赤煉瓦の厚さは60cmもあるのです。これは要するにタンクの基礎ということになります。
どんなタンクが乗っていたのでしょうね。
私の不審な行動は全部この仔に監視されていたみたい(笑)
タンク跡脇のお宅、この先は急な階段しかないのです。よくまあこんな不便な場所に建てたものですな。タンクが現役の頃は、管理人が常駐していたそうですのでそれの名残かもしれません。燈台守ならぬタンク守、それも人生なのですね。
線路を渡って駅の南側へ・・・少し行きますと諏訪湖に出ます。コチラは釜口水門、もちろん水門も大好物。此処から流れ出しているのが天竜川、源が諏訪湖だったとは今回初めて知りました。
あと少しすると湖面が氷結して神様が渡る様子が見られるわけです。
湖畔に不思議な造りの三階建てがあります。
何となくお城風なのは旧山二信州館。詳細は不明ですが、大製糸家のお宅だったそうです。妙にバランスの悪い建物です。
駅前に戻って見落としていた物件へ・・・それが翠川医院さん。昭和6年(1931)に建てられた素晴らしい造りの洋館です。下見板張り、ドーマー屋根、そして居並ぶ欄間付の両開き窓が美しいですね。もちろん現役、大切にされているようです。
建物もそうですが、私は松皮菱が穿たれた塀がお気に入りです。
最後に訪れたのは国の重文の旧林家住宅。明治8年(1875)創業の大製糸家の旧宅なのですが・・・ブハッ、なんと冬季休業中、いちばん見たかった物件なのに・・・またやっちゃった・・・。背後のとんでもない橋は長野自動車道岡谷高架橋。現場打ちのコンクリート造橋だというに、地面からの高さ約50m、いちばん飛んでいるスパン(柱と柱の間隔)約150mという化け物(笑)もちろんプレストレスコンクリートですけどね。凄まじい新旧の対比とでも言っておきましょうか。珍風景だなこりゃ。
金唐革紙が貼られた部屋やくもの巣を模した欄間なんてものがあるそうなのですが、指を咥えて外から眺めるしかない私・・・空しい・・・。
しまらないラストで申し訳ない、指を咥えていても仕方がないので次の町に向かうと致しましょう。次は岡谷市と『東洋のスイス』の座を争っている諏訪市を再訪致します。前回は体調不良で無念の撤退となってしまったのですが、どうやら今回は大丈夫そうです。