明夫に注意!?・もしかすると六軒町・花弁散る遊廓跡
相変わらず豚さんはウツラウツラしておりました。
前回の諏訪市(再訪編)に引き続き、今回も『実は間違っておりましたシリーズ』でございます。鹿沼市は5年前(2008)に訪れております。事前の杜撰な下調べの際、とあるブログで知った割烹や飲み屋が集まっている一画を、もしかすると此処がそうなのかもなどと適当なことを言っているわけです。まあ、そのブログ自体、既に閉じてしまったのか見つからないのですがね。その後、いただいた親切なコメントで実は全然違う場所であることが判明することになります。相変わらずのいい加減なブログで申し訳ない、この場を借りまして訂正させていただきます。というわけで、今回は正しい遊廓跡を訪ねることに致しましょう。とりあえず『全国遊廓案内』の紹介文を貼っておきます。
『鹿沼町遊廓 栃木県上都賀郡鹿沼町字五軒に在つて、日光線鹿沼駅から約十丁の処に在る。新鹿沼迄電車で行けば賃十銭。鹿沼は、天正年間から壬生氏の城下と成り、近江、北海道及鹿沼近傍は麻の三大主産地で、麻問屋が多く、鹿沼には帝国製麻の工場が駅の附近に在る。遊廓には目下貸座敷が五軒在つて娼妓は二十七人居るが、山形県の女が重である・・・娼楼には、清水、竹澤、小林、新藤等がある』
註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
今回はJR日光線の鹿沼駅で下車、駅前通りである国道293号線を真っ直ぐ西へ。こっちの方が図書館に近いものですから。
渡良瀬川を渡ると川沿いに市の文化施設が集まっています。右は鹿沼市文化活動交流館、左の立派な石蔵も交流館の一部、元々は大正元年(1912)に建てられた旧帝国繊維のものでした。今年になって国の登録文化財に指定されています。
渡良瀬川を跨ぐ既に使われていない水道橋?渡った先には帝国繊維鹿沼工場がありますので何か関係があったのかも。帝国繊維の前身は『全国遊廓案内』に書かれている帝国製麻です。いいサビ具合ですなあ。
図書館で調べ物の後、さらに西へ・・・。旧日光例幣使街道(国道121号線)を渡った先にあるのが鹿沼聖母教会。此処は前回内部も見学させていただきましたのアッサリと。
裏道に入ると私好みの光景が結構見られる町でもあります。
外壁のモルタルが程よく劣化しているお宅、手押しポンプが立て掛けてありました。
国道293号線に戻りました。コチラも前回紹介した気色悪いスタッコに包まれた建物。円形のガラスブロックに見えますが、お皿みたいな単なる鉄板です。二階は雀荘だったのですね。
雀荘への階段、使われなくなってかなり時間が経過しているみたい。
国道から分岐しているのが嘗ての目抜き通りと思われる末広通り。途中、木島用水を跨いでいるのが末広橋、親柱はステンドグラス風のガラスが使われている内照式。この木島用水、遊廓と深い関係があるのです。
近くの小さな公園で冒頭画像の豚さんがウトウトしています。此処も前回訪れています。あら、依然としてチカンに注意なのか・・・そして明夫にも。誰なんだ、明夫(笑)
その先にあるのが清林寺さん、スリランカに実在するアウカナ仏のレプリカがあります。こう見えても高さ19m、石仏ではなくFRPにセメント吹付のがらんどう仏。
末広通りに面している妻壁が大谷石積みの重厚な黒漆喰の商家。防火対策はバッチリですな。ギャラリー鈴木屋とありますが、中身は空っぽでした。
妻壁の様子・・・中間のジッパーみたいな出っ張りは何でしょう。
旧日光例幣使街道の石橋町交差点近くの路地を入ると、前回勝手に妖しいと言っちゃった一画に出ます。仕出しと書かれた梅月さん、どうやらうなぎのお店みたい。塀を突き破っている桜が相変わらず凄い。
その先、薬王寺さんのお隣にあるのが割烹喜楽さん。美しい塀ですが、かなりガタがきているようでして、目で分かるほど傾いております。
入口には料理店の鑑札、栃木県でよく見られるタイプです。風俗営業許可店に二十才未満ウンヌンと盛り沢山。
旧日光例幣使街道沿いに前回紹介できなかった近代建築があります。旧岡本歯科医院さん、大正頃に建てられたみたいです。両開き窓と柱型風の装飾、縦強調のデザインになっております。スタイルいいですね。
路地裏をフラフラしながら次の場所へと向かいましょう。
上都賀病院の裏手に真っ黒なトタンに包まれた商家があります。前身は不明ですが、現在はデイサービスの施設になっているみたい。
煙草の販売カウンターも付属しています。コレの正式名称が未だに分かりません。
裏手にはこれまた真っ黒な倉庫?何を隠そう此処の北側が嘗ての遊廓跡なのです。
路地を抜けると県道4号線、嘗てはこの通りが遊廓へと続く道でした。ちょっと行った突き当たりに御影石の大門がありました。もちろん当時はこんな幅員ではなく、通りも遊廓にぶつかって終わっていたのですが、戦後になって拡幅されたうえ、遊廓跡を貫いてしまったわけ。もうお分かりだと思いますが、ほとんど面影は残っていないのです。ただ幾つか気になる物件が・・・手前の竹澤旅館さんです。『全国遊廓案内』に同じ屋号がありますね。これは何かの偶然???
図書館で大正9年(1920)に発行されたこんな絵地図を見つけました。お手数ですがクリックで拡大してご覧下さい。赤印の部分が遊廓です。町外れの行き止まりになっているのがよく分かると思います。鹿沼市史によりますとこの遊廓、別名五軒町(新地)と呼ばれていました。由来は宿場の飯盛女、風紀上宜しくないので町外れに移転させられたわけ。明治41年(1908)のことでした。五軒の妓楼があったから五軒町なのですが、実はもう一軒移転する予定だったとか。六軒町になっていたのかも・・・。こういう絵地図を見るのは楽しいなあ。
往時の配置はこんな感じ・・・四周を囲うのは高さ2m以上の黒板塀、中央の柳の木はもちろん見返り柳です。台やと書かれた小さな建物がありますが、左から車屋(人力車)、タバコ屋、軽食仕出し。台やとは仕出し屋のことで、出前料理を乗せる台が名前の由来なんだとか、巡査の詰所も付属していたそうです。二階は週一で県医が通ってくる検梅所でした。東を流れるのは前出の木島用水、堀の役目を果たしていたということになるでしょうか。この遊廓が隆盛を誇ったのは関東大震災前だったそうで、戦争が始まり昭和18年(1943)には日本医療営団に強制買い上げとなりその幕を閉じることになります。戦後になっても復活しなかったようです。
↑の配置図に椿森稲荷とありますが、この神様は今も健在。場所は移転しているようですが。あ、そうそう、電柱に『新地幹』と書かれたプレートがあったことを追記しておきます。
遊廓跡の外れ、木島用水の脇で椿が狂ったように咲き乱れておりました。
遊廓跡に向かう途中チェックしていたレストラン藤屋さんで昼食。どういうわけか看板には『FJIYA』(笑)
小エビフライの定食、単なるエビフライではなく、あくまでも『小』なのです。甘エビとブラックタイガーの中間ぐらいの怪しい小エビ(笑)プリプリでおいしゅうございました。このレモン絞り、久しぶりに見たぞ。付け合せのビーツもポイント高いです。優しそうな老夫婦が切り盛りするお店です。
前出の絵地図をご覧下さい。右上に馬鹿デカイ鳥居がありますね。あれが鹿沼今宮神社、鹿沼の総鎮守です。前回は訪れなかったこの界隈を探ってみようかと・・・あらら、ここでカメラに異変、こんな昭和レトロ風になってしまった。何も弄っていないのに、原因不明だ・・・。まあ、これはこれで面白いですし、画像を修正するのも面倒なのでこのまま載せちゃいます。写っているのは、今宮神社参道に面している大谷好美館。明治30年頃に建てられた元写真館です。下見板張りに上げ下げ窓、軒裏に持ち送り状の装飾があります。国の登録文化財です。そんなことよりひもヌンチャクってなんぞ???
ひもヌンチャクとありますように、現在は空手の道場になっているみたい。
突当りに見える鳥居が今宮神社です。
創建は延暦元年(782)という歴史のある神様です。鳥居脇の杉の巨木、絵地図にも描かれていましたね。
参道を戻りまして、大谷好美館のお隣には駒橋歯科医院さん、大正14年(1925)に建てられました。あ、いきなり直った・・・何だったんだ・・・。
窓からキティとミッフィーが・・・。
近くにあるのが日光珈琲朱雀さん。以前、隣町の今市にある元妓楼をリフォームしたというカフェ、饗茶庵さんを紹介しましたが、それの本店?姉妹店?がこのお店。
此処でちょっと休憩・・・。古い町屋を使っていますが、もちろん元妓楼ではありません。
帰りは東武日光線の新鹿沼駅・・・駅へと向かう通り、延々と廃れきったお店が続いています。
ちょうど解体屋さんが作業に取り掛かるところでした。
駅前の富士山を模した窓がある旅館が無くなっておりました。以上、5年という歳月を感じさせる鹿沼の再訪編でした。
絵地図もそうですが、驚いたのは鹿沼市史です。あそこまではっきりと遊廓のことを記してあるのって珍しいと思います。わざとなのかは分かりませんが、花街と言い替えているのはまだしも、全く触れていない町が結構ありますから。まあ、所謂悪所ですから町からすると黒歴史になるのでしょうけど。鹿沼市の英断?私は支持しますぞ。次回は帰り道にぶっつけ本番で寄った小さな町を紹介致します。裏通りで謎の旅館に遭遇・・・お楽しみに。
相変わらず豚さんはウツラウツラしておりました。
前回の諏訪市(再訪編)に引き続き、今回も『実は間違っておりましたシリーズ』でございます。鹿沼市は5年前(2008)に訪れております。事前の杜撰な下調べの際、とあるブログで知った割烹や飲み屋が集まっている一画を、もしかすると此処がそうなのかもなどと適当なことを言っているわけです。まあ、そのブログ自体、既に閉じてしまったのか見つからないのですがね。その後、いただいた親切なコメントで実は全然違う場所であることが判明することになります。相変わらずのいい加減なブログで申し訳ない、この場を借りまして訂正させていただきます。というわけで、今回は正しい遊廓跡を訪ねることに致しましょう。とりあえず『全国遊廓案内』の紹介文を貼っておきます。
『鹿沼町遊廓 栃木県上都賀郡鹿沼町字五軒に在つて、日光線鹿沼駅から約十丁の処に在る。新鹿沼迄電車で行けば賃十銭。鹿沼は、天正年間から壬生氏の城下と成り、近江、北海道及鹿沼近傍は麻の三大主産地で、麻問屋が多く、鹿沼には帝国製麻の工場が駅の附近に在る。遊廓には目下貸座敷が五軒在つて娼妓は二十七人居るが、山形県の女が重である・・・娼楼には、清水、竹澤、小林、新藤等がある』
註)前回のレポはコチラ、酷いものですが宜しかったらどうぞ。
今回はJR日光線の鹿沼駅で下車、駅前通りである国道293号線を真っ直ぐ西へ。こっちの方が図書館に近いものですから。
渡良瀬川を渡ると川沿いに市の文化施設が集まっています。右は鹿沼市文化活動交流館、左の立派な石蔵も交流館の一部、元々は大正元年(1912)に建てられた旧帝国繊維のものでした。今年になって国の登録文化財に指定されています。
渡良瀬川を跨ぐ既に使われていない水道橋?渡った先には帝国繊維鹿沼工場がありますので何か関係があったのかも。帝国繊維の前身は『全国遊廓案内』に書かれている帝国製麻です。いいサビ具合ですなあ。
図書館で調べ物の後、さらに西へ・・・。旧日光例幣使街道(国道121号線)を渡った先にあるのが鹿沼聖母教会。此処は前回内部も見学させていただきましたのアッサリと。
裏道に入ると私好みの光景が結構見られる町でもあります。
外壁のモルタルが程よく劣化しているお宅、手押しポンプが立て掛けてありました。
国道293号線に戻りました。コチラも前回紹介した気色悪いスタッコに包まれた建物。円形のガラスブロックに見えますが、お皿みたいな単なる鉄板です。二階は雀荘だったのですね。
雀荘への階段、使われなくなってかなり時間が経過しているみたい。
国道から分岐しているのが嘗ての目抜き通りと思われる末広通り。途中、木島用水を跨いでいるのが末広橋、親柱はステンドグラス風のガラスが使われている内照式。この木島用水、遊廓と深い関係があるのです。
近くの小さな公園で冒頭画像の豚さんがウトウトしています。此処も前回訪れています。あら、依然としてチカンに注意なのか・・・そして明夫にも。誰なんだ、明夫(笑)
その先にあるのが清林寺さん、スリランカに実在するアウカナ仏のレプリカがあります。こう見えても高さ19m、石仏ではなくFRPにセメント吹付のがらんどう仏。
末広通りに面している妻壁が大谷石積みの重厚な黒漆喰の商家。防火対策はバッチリですな。ギャラリー鈴木屋とありますが、中身は空っぽでした。
妻壁の様子・・・中間のジッパーみたいな出っ張りは何でしょう。
旧日光例幣使街道の石橋町交差点近くの路地を入ると、前回勝手に妖しいと言っちゃった一画に出ます。仕出しと書かれた梅月さん、どうやらうなぎのお店みたい。塀を突き破っている桜が相変わらず凄い。
その先、薬王寺さんのお隣にあるのが割烹喜楽さん。美しい塀ですが、かなりガタがきているようでして、目で分かるほど傾いております。
入口には料理店の鑑札、栃木県でよく見られるタイプです。風俗営業許可店に二十才未満ウンヌンと盛り沢山。
旧日光例幣使街道沿いに前回紹介できなかった近代建築があります。旧岡本歯科医院さん、大正頃に建てられたみたいです。両開き窓と柱型風の装飾、縦強調のデザインになっております。スタイルいいですね。
路地裏をフラフラしながら次の場所へと向かいましょう。
上都賀病院の裏手に真っ黒なトタンに包まれた商家があります。前身は不明ですが、現在はデイサービスの施設になっているみたい。
煙草の販売カウンターも付属しています。コレの正式名称が未だに分かりません。
裏手にはこれまた真っ黒な倉庫?何を隠そう此処の北側が嘗ての遊廓跡なのです。
路地を抜けると県道4号線、嘗てはこの通りが遊廓へと続く道でした。ちょっと行った突き当たりに御影石の大門がありました。もちろん当時はこんな幅員ではなく、通りも遊廓にぶつかって終わっていたのですが、戦後になって拡幅されたうえ、遊廓跡を貫いてしまったわけ。もうお分かりだと思いますが、ほとんど面影は残っていないのです。ただ幾つか気になる物件が・・・手前の竹澤旅館さんです。『全国遊廓案内』に同じ屋号がありますね。これは何かの偶然???
図書館で大正9年(1920)に発行されたこんな絵地図を見つけました。お手数ですがクリックで拡大してご覧下さい。赤印の部分が遊廓です。町外れの行き止まりになっているのがよく分かると思います。鹿沼市史によりますとこの遊廓、別名五軒町(新地)と呼ばれていました。由来は宿場の飯盛女、風紀上宜しくないので町外れに移転させられたわけ。明治41年(1908)のことでした。五軒の妓楼があったから五軒町なのですが、実はもう一軒移転する予定だったとか。六軒町になっていたのかも・・・。こういう絵地図を見るのは楽しいなあ。
往時の配置はこんな感じ・・・四周を囲うのは高さ2m以上の黒板塀、中央の柳の木はもちろん見返り柳です。台やと書かれた小さな建物がありますが、左から車屋(人力車)、タバコ屋、軽食仕出し。台やとは仕出し屋のことで、出前料理を乗せる台が名前の由来なんだとか、巡査の詰所も付属していたそうです。二階は週一で県医が通ってくる検梅所でした。東を流れるのは前出の木島用水、堀の役目を果たしていたということになるでしょうか。この遊廓が隆盛を誇ったのは関東大震災前だったそうで、戦争が始まり昭和18年(1943)には日本医療営団に強制買い上げとなりその幕を閉じることになります。戦後になっても復活しなかったようです。
↑の配置図に椿森稲荷とありますが、この神様は今も健在。場所は移転しているようですが。あ、そうそう、電柱に『新地幹』と書かれたプレートがあったことを追記しておきます。
遊廓跡の外れ、木島用水の脇で椿が狂ったように咲き乱れておりました。
遊廓跡に向かう途中チェックしていたレストラン藤屋さんで昼食。どういうわけか看板には『FJIYA』(笑)
小エビフライの定食、単なるエビフライではなく、あくまでも『小』なのです。甘エビとブラックタイガーの中間ぐらいの怪しい小エビ(笑)プリプリでおいしゅうございました。このレモン絞り、久しぶりに見たぞ。付け合せのビーツもポイント高いです。優しそうな老夫婦が切り盛りするお店です。
前出の絵地図をご覧下さい。右上に馬鹿デカイ鳥居がありますね。あれが鹿沼今宮神社、鹿沼の総鎮守です。前回は訪れなかったこの界隈を探ってみようかと・・・あらら、ここでカメラに異変、こんな昭和レトロ風になってしまった。何も弄っていないのに、原因不明だ・・・。まあ、これはこれで面白いですし、画像を修正するのも面倒なのでこのまま載せちゃいます。写っているのは、今宮神社参道に面している大谷好美館。明治30年頃に建てられた元写真館です。下見板張りに上げ下げ窓、軒裏に持ち送り状の装飾があります。国の登録文化財です。そんなことよりひもヌンチャクってなんぞ???
ひもヌンチャクとありますように、現在は空手の道場になっているみたい。
突当りに見える鳥居が今宮神社です。
創建は延暦元年(782)という歴史のある神様です。鳥居脇の杉の巨木、絵地図にも描かれていましたね。
参道を戻りまして、大谷好美館のお隣には駒橋歯科医院さん、大正14年(1925)に建てられました。あ、いきなり直った・・・何だったんだ・・・。
窓からキティとミッフィーが・・・。
近くにあるのが日光珈琲朱雀さん。以前、隣町の今市にある元妓楼をリフォームしたというカフェ、饗茶庵さんを紹介しましたが、それの本店?姉妹店?がこのお店。
此処でちょっと休憩・・・。古い町屋を使っていますが、もちろん元妓楼ではありません。
帰りは東武日光線の新鹿沼駅・・・駅へと向かう通り、延々と廃れきったお店が続いています。
ちょうど解体屋さんが作業に取り掛かるところでした。
駅前の富士山を模した窓がある旅館が無くなっておりました。以上、5年という歳月を感じさせる鹿沼の再訪編でした。
絵地図もそうですが、驚いたのは鹿沼市史です。あそこまではっきりと遊廓のことを記してあるのって珍しいと思います。わざとなのかは分かりませんが、花街と言い替えているのはまだしも、全く触れていない町が結構ありますから。まあ、所謂悪所ですから町からすると黒歴史になるのでしょうけど。鹿沼市の英断?私は支持しますぞ。次回は帰り道にぶっつけ本番で寄った小さな町を紹介致します。裏通りで謎の旅館に遭遇・・・お楽しみに。