スクラッチタイルの長屋商店・謎の玉垣に再会・荒廃進む妖しい路地裏
一棟に床屋が二軒というのはどうなんでしょう。しかも左のお店、価格設定が変だし(笑)
前回の2013年初っ端の探索に続きますのは、2012年納めの探索。時系列が前後しておりますが、些細なツッコミはなしということでお願い致しますよ。確か前回は2008年だったと記憶しておりますので、4年ぶりになるでしょうか。本庄を選んだ理由は・・・特にございません。腕組みをして暫く地図と睨めっこ・・・結局惹かれる町が見つからず・・・とりあえずこの辺りに行っとくか・・・こんな感じ。ですので、この前書きにも書くことが思いつきませんので、早速始めさせていただきます。
『本庄町 本庄町は、埼玉県と群馬県との国境近くにあつて、鉄道に依れば、高崎線本庄駅で下車する。此処も県令に依つて公娼を廃止されて居るので乙種料理店と成つて居る事は浦和川口等と同様である。店は全部陰店制で自由に客と交渉が出来る様になつて居る。御定りは二円と定められて居るが、大抵は料理の一二品を取らねばならぬので総計三円五十銭位はかかる事だらう』
以上は『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になります。前回のレポにも記してありますが、本庄は旧中山道の宿場町、しかもかなりな規模だったようですので、たくさんの飯盛女が活躍していたのではないかという想像は容易にできるわけです。一説では最盛期で、飯盛女を置いた旅籠が54軒もあったといいます。それの名残ともいえるのが『だるま屋』と呼ばれていたお馴染乙種料理店ということになります。これも前回記しましたが、『日本全国遊廓一覧』には貸座敷という名の下、9軒51名という記録が残っているわけ。これが乙種料理店で間違いないと思うのですが、遊廓のように一廓を成していたのか、市内に散在していたのか・・・今となっては知る人も僅かなんだろうなあ。
※前回のレポはコチラとコチラ、先にご覧になったほうが理解しやすいかと。
今回も同じ物件から始めましょう。駅のすぐ近く、JR高崎線沿いに建つ旧大政商店本庄支店、赤煉瓦で彩られた商家です。個人的には本庄でいちばん美しい建物だと思っております。大正9年(1920)建てられました。
立派な卯建、これだけの逸品、特に赤煉瓦となると関東ではかなり珍しいものになると思いますよ。
北側を並行している通りへ・・・こちらも前回紹介した西沢写真館・・・って、手前のコレには気付かなかった。協立印刷さん、こういうシンプルなの大好きです。星にKの社章がカッコイイ。
で、肝心の昭和2年(1927)に建てられた西沢写真館さんですが・・・明らかに崩壊が進行しておりました。これだけの写真館ってなかなか見られないと思うのですが・・・。
たっぱのある二階が写場だと思うのですが、窓が外れ中はゴミ屋敷状態・・・震災の影響もあったのかもしれません。このお店、ウェブで検索すると一応ヒットするのですが、現役なのかなあ。
ショーケースに色褪せた写真、いつからこのまんまなんだろう。
その先の交差点に冒頭画像の看板建築の長屋形式商店が威容を誇っています。またまたになりますが、これだけの規模のものは珍しいと思います。同潤会の一連のアパートを彷彿とさせるのはなぜでしょう。手前の床屋さんの袖看板をご覧下さい。カット900円、調髪980円???それを見上げる三人組、「金額間違えちゃったよ・・・」とでもぼやいているのでしょうか(笑)
縦を眠り目地として水平ラインを強調したスクラッチタイルが綺麗だなあ。年代ははっきりしませんが、おそらくは昭和初期頃に建てられたのだと思います。それにしてはタイルの剥落がほとんど見られません。腕のいいタイル職人さんが担当したのでしょうね。
脇道で見つけた藤の湯さん、素っ気無い建物ですが現役ですよ。
藤の湯さんの向かいに建つ半ば廃墟と化しているソシアルビルの階段に、なんと美しいグラデーションが!?コレ、意図したものではなく、たぶん陽に焼けただけだと思います(笑)
なんと、天国はこんなところにあったのか・・・。
このお店、前回訪れた際、ずーっと準備中なんでしょうね・・・なんて言ってしまったわけ。現役でした。モンローさん、その節は大変失礼致しました。
前回も紹介した路地、相変わらずいい雰囲気ですなあ。赤煉瓦の建物は明治27年(1894)に建てられた旧本庄商業銀行倉庫、担保物件である繭を保管するためのものでした。現在は洋菓子店として余生を送っているはずなのですが・・・。
路地を抜け旧中山道である県道392号線に出てみると、どうも様子が変・・・なんと、もぬけの殻状態、洋菓子店は何処・・・。どうやら2011年夏に突然閉店してしまったそうです。何があったのでしょう。現在は市が買い取り、活用方法を模索中みたい・・・一応、国の登録文化財ですので、変な使い方だけは避けてほしいものです。
中央三丁目交差点を左折、今回は大して目的のない探索なのですが、とりあえず訪れておきたいという場所がこの先にあるわけ。
その目的地の手前にある文具店の丸十さん。70年代テイストの店舗部分がいいなあ。手前の駐車場、何かがあったような微かな記憶が・・・。
まあ、そのおかげで以前は見ることができなかった趣のある母屋部分をジックリ観察できるわけ。
此処が一応の目的地である普寛霊場。御岳教の開祖である修験者普寛を奉っている社です。地元の方は親しみをこめて『ふかんさま』と呼んでいるそうです。
必見なのがこの玉垣、前回偶然コレを発見したときは驚いたよなあ。刻まれているのは寄進者の名前というのはご存知だと思います。上の縦書き部分には一番組、二番組とありますので、所謂火消し関係の方々ですね。問題は下の横書き部分・・・判読できるのを以下に挙げてみます。『白山待合 仲よし とんぼ 新花』『白山 寺島家 さのみ家』『芝烏森 桝田家』白山、芝烏森とありますで、おそらく花街関係と思われます。
強烈なのが右の玉垣・・・『新吉原 角海老楼』『新吉原 一元楼』『新吉原 品川楼』『新吉原 大華』『新吉原 水常楼』『新吉原 辰金楼』『新吉原 大崎屋』『新吉原 大慶』『新吉原 鯉松』『新吉原 ○(読めず)中楼 長清楼』・・・とまあこんな感じで新吉原のオンパレードなわけ、こりゃ壮観だわ。
それだけ信仰されていたという証拠なんでしょうけど、どうしてこんなにも吉原の皆さんから支持されているわけ???
本堂の天井、龍の彫り物が見事でしたよ。
近くにあるのが、明治16年(1883)に建てられた擬洋風建築の旧本庄警察署。現在は本庄市歴史民俗資料館として余生を送っています。しかし、年末年始の休館中で入れませんでした。
前半はここまで。普寛霊場の玉垣は一度見てみる価値ありかも、かなり驚かれると思いますよ。後半もこれまた前回訪れた、妖しげな界隈のその後の様子を再訪してみます。
一棟に床屋が二軒というのはどうなんでしょう。しかも左のお店、価格設定が変だし(笑)
前回の2013年初っ端の探索に続きますのは、2012年納めの探索。時系列が前後しておりますが、些細なツッコミはなしということでお願い致しますよ。確か前回は2008年だったと記憶しておりますので、4年ぶりになるでしょうか。本庄を選んだ理由は・・・特にございません。腕組みをして暫く地図と睨めっこ・・・結局惹かれる町が見つからず・・・とりあえずこの辺りに行っとくか・・・こんな感じ。ですので、この前書きにも書くことが思いつきませんので、早速始めさせていただきます。
『本庄町 本庄町は、埼玉県と群馬県との国境近くにあつて、鉄道に依れば、高崎線本庄駅で下車する。此処も県令に依つて公娼を廃止されて居るので乙種料理店と成つて居る事は浦和川口等と同様である。店は全部陰店制で自由に客と交渉が出来る様になつて居る。御定りは二円と定められて居るが、大抵は料理の一二品を取らねばならぬので総計三円五十銭位はかかる事だらう』
以上は『全国遊廓案内』による昭和初期の様子になります。前回のレポにも記してありますが、本庄は旧中山道の宿場町、しかもかなりな規模だったようですので、たくさんの飯盛女が活躍していたのではないかという想像は容易にできるわけです。一説では最盛期で、飯盛女を置いた旅籠が54軒もあったといいます。それの名残ともいえるのが『だるま屋』と呼ばれていたお馴染乙種料理店ということになります。これも前回記しましたが、『日本全国遊廓一覧』には貸座敷という名の下、9軒51名という記録が残っているわけ。これが乙種料理店で間違いないと思うのですが、遊廓のように一廓を成していたのか、市内に散在していたのか・・・今となっては知る人も僅かなんだろうなあ。
※前回のレポはコチラとコチラ、先にご覧になったほうが理解しやすいかと。
今回も同じ物件から始めましょう。駅のすぐ近く、JR高崎線沿いに建つ旧大政商店本庄支店、赤煉瓦で彩られた商家です。個人的には本庄でいちばん美しい建物だと思っております。大正9年(1920)建てられました。
立派な卯建、これだけの逸品、特に赤煉瓦となると関東ではかなり珍しいものになると思いますよ。
北側を並行している通りへ・・・こちらも前回紹介した西沢写真館・・・って、手前のコレには気付かなかった。協立印刷さん、こういうシンプルなの大好きです。星にKの社章がカッコイイ。
で、肝心の昭和2年(1927)に建てられた西沢写真館さんですが・・・明らかに崩壊が進行しておりました。これだけの写真館ってなかなか見られないと思うのですが・・・。
たっぱのある二階が写場だと思うのですが、窓が外れ中はゴミ屋敷状態・・・震災の影響もあったのかもしれません。このお店、ウェブで検索すると一応ヒットするのですが、現役なのかなあ。
ショーケースに色褪せた写真、いつからこのまんまなんだろう。
その先の交差点に冒頭画像の看板建築の長屋形式商店が威容を誇っています。またまたになりますが、これだけの規模のものは珍しいと思います。同潤会の一連のアパートを彷彿とさせるのはなぜでしょう。手前の床屋さんの袖看板をご覧下さい。カット900円、調髪980円???それを見上げる三人組、「金額間違えちゃったよ・・・」とでもぼやいているのでしょうか(笑)
縦を眠り目地として水平ラインを強調したスクラッチタイルが綺麗だなあ。年代ははっきりしませんが、おそらくは昭和初期頃に建てられたのだと思います。それにしてはタイルの剥落がほとんど見られません。腕のいいタイル職人さんが担当したのでしょうね。
脇道で見つけた藤の湯さん、素っ気無い建物ですが現役ですよ。
藤の湯さんの向かいに建つ半ば廃墟と化しているソシアルビルの階段に、なんと美しいグラデーションが!?コレ、意図したものではなく、たぶん陽に焼けただけだと思います(笑)
なんと、天国はこんなところにあったのか・・・。
このお店、前回訪れた際、ずーっと準備中なんでしょうね・・・なんて言ってしまったわけ。現役でした。モンローさん、その節は大変失礼致しました。
前回も紹介した路地、相変わらずいい雰囲気ですなあ。赤煉瓦の建物は明治27年(1894)に建てられた旧本庄商業銀行倉庫、担保物件である繭を保管するためのものでした。現在は洋菓子店として余生を送っているはずなのですが・・・。
路地を抜け旧中山道である県道392号線に出てみると、どうも様子が変・・・なんと、もぬけの殻状態、洋菓子店は何処・・・。どうやら2011年夏に突然閉店してしまったそうです。何があったのでしょう。現在は市が買い取り、活用方法を模索中みたい・・・一応、国の登録文化財ですので、変な使い方だけは避けてほしいものです。
中央三丁目交差点を左折、今回は大して目的のない探索なのですが、とりあえず訪れておきたいという場所がこの先にあるわけ。
その目的地の手前にある文具店の丸十さん。70年代テイストの店舗部分がいいなあ。手前の駐車場、何かがあったような微かな記憶が・・・。
まあ、そのおかげで以前は見ることができなかった趣のある母屋部分をジックリ観察できるわけ。
此処が一応の目的地である普寛霊場。御岳教の開祖である修験者普寛を奉っている社です。地元の方は親しみをこめて『ふかんさま』と呼んでいるそうです。
必見なのがこの玉垣、前回偶然コレを発見したときは驚いたよなあ。刻まれているのは寄進者の名前というのはご存知だと思います。上の縦書き部分には一番組、二番組とありますので、所謂火消し関係の方々ですね。問題は下の横書き部分・・・判読できるのを以下に挙げてみます。『白山待合 仲よし とんぼ 新花』『白山 寺島家 さのみ家』『芝烏森 桝田家』白山、芝烏森とありますで、おそらく花街関係と思われます。
強烈なのが右の玉垣・・・『新吉原 角海老楼』『新吉原 一元楼』『新吉原 品川楼』『新吉原 大華』『新吉原 水常楼』『新吉原 辰金楼』『新吉原 大崎屋』『新吉原 大慶』『新吉原 鯉松』『新吉原 ○(読めず)中楼 長清楼』・・・とまあこんな感じで新吉原のオンパレードなわけ、こりゃ壮観だわ。
それだけ信仰されていたという証拠なんでしょうけど、どうしてこんなにも吉原の皆さんから支持されているわけ???
本堂の天井、龍の彫り物が見事でしたよ。
近くにあるのが、明治16年(1883)に建てられた擬洋風建築の旧本庄警察署。現在は本庄市歴史民俗資料館として余生を送っています。しかし、年末年始の休館中で入れませんでした。
前半はここまで。普寛霊場の玉垣は一度見てみる価値ありかも、かなり驚かれると思いますよ。後半もこれまた前回訪れた、妖しげな界隈のその後の様子を再訪してみます。