擬木フレームの飲み屋・水草揺れる水路と謎の公設市場・遺構も今やゴミ集積所
サビサビトタン屋根の船着き場跡?、ユラユラ漂う水草とのコントラストが強烈。
今回の旅で是非とも再訪したいと思っていたのが新発田市です。ずーっと心の片隅に引っかかっていたのです、本当にあそこが遊廓跡なのかということが・・・。詳しくは前回のレポを参照していただきたいのですが、私が遊廓跡ではないかとしているのは御幸町一丁目。当時のことはよく覚えていないのですが、一軒の割烹の存在と通りの形状によってそう思い込んでしまったみたい。しかし、通り沿いで見つけた明治天皇行在所址の石碑でその考えがアレレ???陛下が遊廓のそばに立寄るわけないよなあ。いくら庶民の生活を知りたいと仰っても、これはどう考えても有り得ない状況なわけ。5年前はこんな感じでモヤモヤしたまま終わってしまったのです。
で今回、戦後すぐに米軍が撮影した航空写真を眺めていますと、御幸町一丁目の西隣、現在の御幸町二丁目になりますね。そこに町の区割りから不自然に突き出した一画があることに気付きました。解像度の悪い画像に目を凝らしてみますと、通りに沿って大きめの屋根が並んでいるように見えないこともない。その後行き着いたのがこちらのブログ、やっぱり此処が遊廓だったと知り愕然。地元の方が仰っているのですからこれはもう間違いない。というわけでこの場を借りて訂正させていただきます。前回のレポは間違っておりました、ご免なさい。最近こういうのばっかり(笑)
どうやら60年代初めまでは何かしら遺構が残っていたようです。その頃の航空写真には中央に植栽帯がある特徴的なメインストリートの様子がはっきりと写っております。その後区画整理が行なわれたのか、メインストリートの形状が変わってしまったようなのが気になるところ、前出のブログでも建物的な遺構の紹介はありませんでしたし。まあ、とりあえず行くだけ行ってみましょうか。最後に前回は載せられなかった『全国遊廓案内』の文章を記しておきます。
『新発田遊廓 新潟県北蒲原郡新発田町字三宣町に在つて、羽越線新発田駅で下車すれば西へ約十三丁、乗合自動車を利用すれば「神明社前」で下車する。新発田は溝口氏の旧城下で、大地主の多い処だけに小作争議も多い地方である。新発田城址は今兵営に成つて居るが、濠と城垣のみは依然として昔の儘の懐かしい姿を残して居て、今は濠一面に蓮が繁殖して、夏の開花時節に成ると、花の開く音を聞く為めに、暁の暗い内から人が出盛ると云ふ話である。明治初年には旧藩主の許可を得て、旭町で貸座敷を営業して居たのであつたが、明治三十七年に全焼したので、間も無く本廓へ移転したものである。目下貸座敷が十九軒あつて、娼妓は百十八人居るが県下の女が多い・・・』
註)前回のレポはコチラとコチラ、先にご覧になったほうが判りやすいかと。
前回は国指定名勝の清水園でノンビリしすぎたでせいで慌しい探索になってしまったのですが、今回は違う意味で時間ありません。今回はつるべ落としの太陽と競争、急ぎましょう。
急ぎましょうと言いながら寄り道してしまう私。中央町は町いちばんの歓楽街、地元では新道(しんみち)と呼ばれ嘗ては赤線だったという噂がある処。そこで見つけた破風が美しい旅館北幸さん。
回り込んでみるとかなりの大店であることが判ります。一応ネットでもヒットしますが、雰囲気からしてたぶん退役済みかと・・・。
トタン張りの岩渕畳店さんはちょっと面白い造り。
横から見るとよく判りますね。
歓楽街の真ん中、ちょっとした広場でこの子が延々と・・・。でもこの池の造り、ちょっと間違っていません???飛距離が計算外だったか(笑)
近くに前回も訪れた妖しい造りの飲み屋さんが・・・まだ残っていた。何も変わっておりません。
地図にも載っていない路地にお母さんが入っていくのを見て後に続いていくと、仕舞いには砂利道になっちゃった。そんな処にも飲み屋さんがあるわけ。この路地抜けるとさきほどの岩渕畳店さんの脇に出ます。
歴史ある建物があまり残っていない界隈で一際目立つのがすき焼きの八木さん。此処で話好きで気さくな女将さんに捉まってしまったわけ。
元々は明治初期創業の精肉店だったそうですが、昭和10年(1935)に発生した大火で店は全焼、現在のお店はその後に建てられたものになります。それを期にすき焼き店に転業されたそうです。お店の左半分は亡くなったご主人が営んでいた写真店だったとか、往時の新道は芸者さんが50人ほど活躍されていたとか、興味深いお話を伺うことができました。まだまだ女将さんは話したがっておりましたが(笑)、先を急ぎますのでここいらで・・・。それにしても玄関廻りの造りがいいね。
ちょっと行った処で見つけた瓢亭さんがこれまたいい造り。赤紫のフレームありますでしょ?コレ、大好物の擬木なのです。
ショーケースのイラストがカワイイ。どうやら手前は食堂、奥が飲み屋になっているみたい。画像を確認しましたら奥の入口上に風俗営業の鑑札がありました。
新道を後にして駅前から続く県道32号線を渡りますと、前方に煙突が見えてきます。まずい、本当に日が暮れそう・・・。
煙突の正体は前回も訪れたいいでの湯さん。あ、なんか綺麗になっているんですけど、直されたみたい。此処で出会ったうちの近所に住んでいたというお婆ちゃん、元気かなあ・・・。
道を挟んだ小屋には燃料の薪が満載。脇を流れる水路は新発田川、上流に辿っていくと清水園があります。
私は下流へ・・・それにしても水草が綺麗。前方に見えるのが冒頭画像の船着き場跡?さらにその先、水路に跨っているのが・・・
・・・謎の公設鮮魚市場。この時間ですので既に店仕舞いしておりましたが、ストリートビューには店番をするお母さんがしっかり写っております。こんなにトリッキーな建物なのに、その成り立ちなどの情報がほとんど見つからないのが不思議。公設とありますが役所とは関係が無さそうだし・・・。
建物が乗っている梁は木製電柱なんだとか!?判ったのはそれくらい。見事なくらいシックリ納まっておりますなあ。
その先が御幸町一丁目の入口、改めて申しますが此処は遊廓跡ではありません。
前回もしやと思った独特な出窓があるコチラ、間違いなく元理容室!!と今回は断言しちゃいます。
とんでもなく長~い長屋も健在。まあ、長いから長屋なんでしょうけど、これだけのものってなかなか無いと思います。地元では白勢長屋と呼ばれており、明治10年(1877)に建てられたものだそうです。
この白勢長屋、実は一部が『ぬけられます』状態なのですよ。奥が気になるなあ。
通りからちょっと逸れると新発田川に再会。
近くにあるのが前回も紹介した謎の巨大キノコ。コメント頂いた方の情報で元GSの屋根だったと知り納得。
再び通りに戻ったところで出会った白ニャンコ。こんな酷い形相ですが(笑)とても大人しくて遊んでくれそうな雰囲気だったのですが・・・すまぬ、先を急ぐ身なのだ。
クネクネ路地を抜けると広い通りに出ます。此処が御幸町二丁目、二丁目公会堂脇に小さな名無しの神様。これが『全国遊廓案内』に出てくる神明社なのでしょうか。しかし、見回した限り遺構らしきものは皆無・・・
・・・と思った次の瞬間です。通り脇の空き地、それを仕切る塀が妙なシルエットを描いていることに気付きました。
こうしてみると判るでしょうか。門柱に表札の痕跡?○○楼などと書かれていたのではないかと。状態から判断しても遺構としても全く問題ないと思われます。良かった・・・再訪した甲斐がありました。
しかし、現状はというと黄色いネットから判りますが、ゴミ集積所・・・。新ちゃんって誰やねん・・・。
裏通りも探ってみましたが、見つかったのはこんな真っ黒な小屋だけ。中身は空っぽでした。
セイタカアワダチソウが我が物顔で生い茂る空き地にも何かがあったのかもしれませんね。
茜雲の下を駅へと向かいます。実のことを言うともうヘロヘロ・・・昨晩は下調べなどでほとんど寝ておりません。早くベッドに潜り込みたい・・・。
とりあえず遊廓跡だけでも確認できればいいやという感じだったのですが、想定外のオマケまで付いてきちゃった新発田の再訪編でした。今日は新津に一泊、明日は磐越西線沿いの町を相も変わらずフラフラ彷徨います。
サビサビトタン屋根の船着き場跡?、ユラユラ漂う水草とのコントラストが強烈。
今回の旅で是非とも再訪したいと思っていたのが新発田市です。ずーっと心の片隅に引っかかっていたのです、本当にあそこが遊廓跡なのかということが・・・。詳しくは前回のレポを参照していただきたいのですが、私が遊廓跡ではないかとしているのは御幸町一丁目。当時のことはよく覚えていないのですが、一軒の割烹の存在と通りの形状によってそう思い込んでしまったみたい。しかし、通り沿いで見つけた明治天皇行在所址の石碑でその考えがアレレ???陛下が遊廓のそばに立寄るわけないよなあ。いくら庶民の生活を知りたいと仰っても、これはどう考えても有り得ない状況なわけ。5年前はこんな感じでモヤモヤしたまま終わってしまったのです。
で今回、戦後すぐに米軍が撮影した航空写真を眺めていますと、御幸町一丁目の西隣、現在の御幸町二丁目になりますね。そこに町の区割りから不自然に突き出した一画があることに気付きました。解像度の悪い画像に目を凝らしてみますと、通りに沿って大きめの屋根が並んでいるように見えないこともない。その後行き着いたのがこちらのブログ、やっぱり此処が遊廓だったと知り愕然。地元の方が仰っているのですからこれはもう間違いない。というわけでこの場を借りて訂正させていただきます。前回のレポは間違っておりました、ご免なさい。最近こういうのばっかり(笑)
どうやら60年代初めまでは何かしら遺構が残っていたようです。その頃の航空写真には中央に植栽帯がある特徴的なメインストリートの様子がはっきりと写っております。その後区画整理が行なわれたのか、メインストリートの形状が変わってしまったようなのが気になるところ、前出のブログでも建物的な遺構の紹介はありませんでしたし。まあ、とりあえず行くだけ行ってみましょうか。最後に前回は載せられなかった『全国遊廓案内』の文章を記しておきます。
『新発田遊廓 新潟県北蒲原郡新発田町字三宣町に在つて、羽越線新発田駅で下車すれば西へ約十三丁、乗合自動車を利用すれば「神明社前」で下車する。新発田は溝口氏の旧城下で、大地主の多い処だけに小作争議も多い地方である。新発田城址は今兵営に成つて居るが、濠と城垣のみは依然として昔の儘の懐かしい姿を残して居て、今は濠一面に蓮が繁殖して、夏の開花時節に成ると、花の開く音を聞く為めに、暁の暗い内から人が出盛ると云ふ話である。明治初年には旧藩主の許可を得て、旭町で貸座敷を営業して居たのであつたが、明治三十七年に全焼したので、間も無く本廓へ移転したものである。目下貸座敷が十九軒あつて、娼妓は百十八人居るが県下の女が多い・・・』
註)前回のレポはコチラとコチラ、先にご覧になったほうが判りやすいかと。
前回は国指定名勝の清水園でノンビリしすぎたでせいで慌しい探索になってしまったのですが、今回は違う意味で時間ありません。今回はつるべ落としの太陽と競争、急ぎましょう。
急ぎましょうと言いながら寄り道してしまう私。中央町は町いちばんの歓楽街、地元では新道(しんみち)と呼ばれ嘗ては赤線だったという噂がある処。そこで見つけた破風が美しい旅館北幸さん。
回り込んでみるとかなりの大店であることが判ります。一応ネットでもヒットしますが、雰囲気からしてたぶん退役済みかと・・・。
トタン張りの岩渕畳店さんはちょっと面白い造り。
横から見るとよく判りますね。
歓楽街の真ん中、ちょっとした広場でこの子が延々と・・・。でもこの池の造り、ちょっと間違っていません???飛距離が計算外だったか(笑)
近くに前回も訪れた妖しい造りの飲み屋さんが・・・まだ残っていた。何も変わっておりません。
地図にも載っていない路地にお母さんが入っていくのを見て後に続いていくと、仕舞いには砂利道になっちゃった。そんな処にも飲み屋さんがあるわけ。この路地抜けるとさきほどの岩渕畳店さんの脇に出ます。
歴史ある建物があまり残っていない界隈で一際目立つのがすき焼きの八木さん。此処で話好きで気さくな女将さんに捉まってしまったわけ。
元々は明治初期創業の精肉店だったそうですが、昭和10年(1935)に発生した大火で店は全焼、現在のお店はその後に建てられたものになります。それを期にすき焼き店に転業されたそうです。お店の左半分は亡くなったご主人が営んでいた写真店だったとか、往時の新道は芸者さんが50人ほど活躍されていたとか、興味深いお話を伺うことができました。まだまだ女将さんは話したがっておりましたが(笑)、先を急ぎますのでここいらで・・・。それにしても玄関廻りの造りがいいね。
ちょっと行った処で見つけた瓢亭さんがこれまたいい造り。赤紫のフレームありますでしょ?コレ、大好物の擬木なのです。
ショーケースのイラストがカワイイ。どうやら手前は食堂、奥が飲み屋になっているみたい。画像を確認しましたら奥の入口上に風俗営業の鑑札がありました。
新道を後にして駅前から続く県道32号線を渡りますと、前方に煙突が見えてきます。まずい、本当に日が暮れそう・・・。
煙突の正体は前回も訪れたいいでの湯さん。あ、なんか綺麗になっているんですけど、直されたみたい。此処で出会ったうちの近所に住んでいたというお婆ちゃん、元気かなあ・・・。
道を挟んだ小屋には燃料の薪が満載。脇を流れる水路は新発田川、上流に辿っていくと清水園があります。
私は下流へ・・・それにしても水草が綺麗。前方に見えるのが冒頭画像の船着き場跡?さらにその先、水路に跨っているのが・・・
・・・謎の公設鮮魚市場。この時間ですので既に店仕舞いしておりましたが、ストリートビューには店番をするお母さんがしっかり写っております。こんなにトリッキーな建物なのに、その成り立ちなどの情報がほとんど見つからないのが不思議。公設とありますが役所とは関係が無さそうだし・・・。
建物が乗っている梁は木製電柱なんだとか!?判ったのはそれくらい。見事なくらいシックリ納まっておりますなあ。
その先が御幸町一丁目の入口、改めて申しますが此処は遊廓跡ではありません。
前回もしやと思った独特な出窓があるコチラ、間違いなく元理容室!!と今回は断言しちゃいます。
とんでもなく長~い長屋も健在。まあ、長いから長屋なんでしょうけど、これだけのものってなかなか無いと思います。地元では白勢長屋と呼ばれており、明治10年(1877)に建てられたものだそうです。
この白勢長屋、実は一部が『ぬけられます』状態なのですよ。奥が気になるなあ。
通りからちょっと逸れると新発田川に再会。
近くにあるのが前回も紹介した謎の巨大キノコ。コメント頂いた方の情報で元GSの屋根だったと知り納得。
再び通りに戻ったところで出会った白ニャンコ。こんな酷い形相ですが(笑)とても大人しくて遊んでくれそうな雰囲気だったのですが・・・すまぬ、先を急ぐ身なのだ。
クネクネ路地を抜けると広い通りに出ます。此処が御幸町二丁目、二丁目公会堂脇に小さな名無しの神様。これが『全国遊廓案内』に出てくる神明社なのでしょうか。しかし、見回した限り遺構らしきものは皆無・・・
・・・と思った次の瞬間です。通り脇の空き地、それを仕切る塀が妙なシルエットを描いていることに気付きました。
こうしてみると判るでしょうか。門柱に表札の痕跡?○○楼などと書かれていたのではないかと。状態から判断しても遺構としても全く問題ないと思われます。良かった・・・再訪した甲斐がありました。
しかし、現状はというと黄色いネットから判りますが、ゴミ集積所・・・。新ちゃんって誰やねん・・・。
裏通りも探ってみましたが、見つかったのはこんな真っ黒な小屋だけ。中身は空っぽでした。
セイタカアワダチソウが我が物顔で生い茂る空き地にも何かがあったのかもしれませんね。
茜雲の下を駅へと向かいます。実のことを言うともうヘロヘロ・・・昨晩は下調べなどでほとんど寝ておりません。早くベッドに潜り込みたい・・・。
とりあえず遊廓跡だけでも確認できればいいやという感じだったのですが、想定外のオマケまで付いてきちゃった新発田の再訪編でした。今日は新津に一泊、明日は磐越西線沿いの町を相も変わらずフラフラ彷徨います。