これも一種の終着駅への旅・新潟県最後の私鉄が走った町・有数な軍都の遊里跡
モハの意味、お判りになります???私は最近になって理解致しました。
嗚呼、よく眠れた・・・おはようございます。今日は磐越西線沿いの町を巡りますよ。初っ端は以前訪ねたことのある五泉市の南に位置する村松です。元々は村松町でしたが、平成18年(2006)の合併で現在は五泉市の一部になっています。江戸の頃は掘氏が治めた村松藩三万石の城下町でした。近代になると武士に変わって軍隊がやって来ます。明治30年(1897)に大日本帝国陸軍歩兵第三十連隊の兵営が置かれることになります。現在の石曾根辺りが練兵場や射撃場だったそうで、かなりの広範囲が軍の施設だったそうです。最盛期には2,000名もの兵隊さんが駐屯していたそうですから、村松は有数の軍都だったということになりますな。軍都に遊里有りの法則で、この町にもそういったものがあったそうなのですが、どうもはっきりしないわけ・・・。まあ、小さな町だから何か見つかるだろうと見切り発車したのですが・・・結果から先に言ってしまうと、遊廓跡一歩手前で引き返してしまったという大ポカ・・・。下調べの時間が充分に取れなかったというのが理由なのですが、今更そんなこと言っても言い訳にしかなりませんので、希有な(実はよくある(爆))失敗探索の例としてそのまんまお伝え致しますぞ。
遊里以外にもこの町を訪れた理由があります。それは嘗て五泉と村松を結んでいた超絶ローカル鉄道の存在、その名を蒲原鉄道といいます。蒲原鉄道が開業したのは大正12年(1923)、言うまでもありませんが鉄道敷設の理由として軍事物資輸送という役目があったはずです。当初は五泉-村松間という盲腸線状態でしたが、昭和5年(1930)に村松-加茂間が繋がってめでたく全線開通、国鉄との接続線という役目も担うことになります。戦後になり軍用線の必要も無くなり、さらにモータリゼーションの変化が追い討ちをかけます。元々沿線住民が少なかった村松-加茂間が昭和60年(1985)に廃止、これで元の盲腸線になってしまうわけ。五泉-村松間はたった4.2キロ、間には今泉という無人駅があるだけ・・・こんな状態が長続きするはずもなく、遂には全線廃止に至ってしまいます。平成11年(1999)のことでした。末期の乗客数は900人/日程度だったそうです。蒲原鉄道が新潟県内を走った最後の私鉄だったと知ったのは最近のこと、しかも大好物の盲腸線ですし、これは一種の終着駅への旅でもあるわけです。
現在は路線バスが唯一の足、五泉駅から南へ真っ直ぐ延びる県道7号線を行きます。道の左側、寄り添うようにして一定幅の草むらが続いています。実はこれが蒲原鉄道の線路敷きの跡になります。ほどなく村松の中心街に入り、下町の交差点で下車しました。
早朝の村松、人影は皆無。町の目抜き通りである国道290号線、途中で鉤形に曲がっています。城下町の面影だと思われます。
振り向くとこんな看板。
割烹木むらさん、一応ネットではヒットしますが詳細は不明。
目抜き通りの西側を並行している通りにも数軒の割烹が集まっています。最初地図を見たとき気になった場所になります。
こんな妙な造りのお宅もありますし。
看板はありませんでしたが、コチラは割烹松木屋さん。入口上に、この旅お馴染になった風俗営業の鑑札を発見です。発見はいいのですが、どうも探している場所とは違うような気がするのです。
その先の高い煙突は金鵄盃酒造さんのもの、明治40年(1907)創業の酒蔵です。
近くにあった小さな洋館、竹のバリケードで判りますが誰も住んでいないみたい。
何処にあったんだろう・・・ちょっと焦り始めております。
目抜き通りを戻るとまた割烹、手前の○月さん(読めない)は退役済みみたい、向こう側に現役と思われ新瀧さんがあります。これだけ割烹があるのも軍都の面影なのかもしれませんね。
○月さんの敷地内に残っていました。こちらが本館だったのかも。でも、此処も違うと思う・・・。
町中には無かったのではないかということで、南の外れのお寺が並んでいる一画を探ってみます。
脇道にあった骨組みだけのお宅、長らく放置されている様子・・・ちょっとした狂気を感じたのですが・・・。
大同元年(806)に創建され、寛文4年(1664)に村松藩主掘直吉によって現在地に移転された住吉神社。判りにくいと思いますが、境内が広大な池に囲まれております。それはいいのですが、やっぱり此処も違ったみたい。
今度は西に見える本堂山という小高い丘辺りを・・・途中にあったガレージ上の茅葺屋根、どうやら造園屋さんのものみたい。
その先の小さな集落で出会った塀。一瞬オオッとなりましたが、地図をよく見てみると、コチラは左官屋さんでした。物凄く紛らわしいぞ。
隣には小さな神様と欄間のみが放置プレイ、謎のシンメトリー・・・(笑)
町の西を流れる滝谷川を渡って本堂山へ・・・中腹に鳥居が見えてきます。
弘仁5年(814)の創建とされる春日神社。木々囲まれた静かな社です。時間の関係もありまして此処で引き返したのですが、実は此処の向こう側、本堂山を越えた先の曙町辺りに遊廓があったとは・・・。
重大な事実を知らぬまま、最後に訪れたのは村松城址、城自体は戊辰戦争で焼けてしまったそうです。現在は公園に整備されており郷土資料館があるのですが・・・って、早朝とあってまだ開館してないんでやんの。もうあかん、帰る!!と思いながらふと横を見るとコレが・・・。
蒲原鉄道モハ11保存車・・・村松-加茂間が廃止になった際に廃車されたものだそうです。雨露を凌ぐ上屋がありますが、塗装は廃車当時のままみたい。こんなのがガタゴト走っていたんだ・・・乗ってみたかった。
帰りは町の北の外れにある旧村松駅から・・・現在は路線バスの発着所ですが、当時の駅舎がそのまま使われています。停留所名も村松駅のままです。
停留所の裏手にひろがる嘗てのホーム跡、遺構らしいものは何も残っておらず砂利敷きの広場だけが秋の陽射しを浴びておりました。
肝心の遊廓についてですが、地元の不動産屋さんのHPで見つけました。写真の列の上から12番目、左から2番目に遊廓の位置を示した地図があるはずです。私は上の本堂山まで辿り着いていたわけ、見事に一歩手前で引き返していたことになります。数えてみるとお店が20軒ほどあったようです。町の規模からするとかなりのものだと思うのですが、兵隊さんが2,000名もいたとなるとこれぐらいないと捌ききれなかったのかも・・・。
その後の様子ですが、上の航空写真をクリックして下さいね。コレ、国土地理院の「国土変遷 地図・航空写真閲覧サービス」からの出典(整理番号:USA コース番号:R465-No2 写真番号:19 撮影年月日:1948/11/23 に加筆)になります。この航空写真、転載禁止かと思っていたのですが、よくよく見たら出典元を明記すればOKでした。遊廓の位置は左下、本堂山の向こう側、面白いくらい町から隠れるようにして存在していたことになります。当初は陸軍病院跡がそれだと思っていたのですがね。いかにもな形状しているでしょ?この写真、戦後すぐに米軍が撮影したものになりますが、この時点で遊廓は『跡』になっちゃっているのです。うっすらと何かがあったという感じはありますが、建物らしきものは確認できません。たぶん軍隊がいなくなったと同時に遊廓も終焉を迎えたのではないかと、ご贔屓さんが消えちゃったら商売になりませんものね。現在はというと、普通の住宅地になっているみたい。嫌々ですが(笑)ストリートビューでも確認してみましたが、何も見つけられませんでした。
もう少し下調べに時間をかければ違った結果になったのでしょうけど、相変わらず思いつきで行動してしまう人間ですのでどうかお許しを。以上、軍都村松の失敗探索でした。このまま五泉に戻り、時間に限りがありますが大急ぎで遊廓跡と思われる料亭街を再訪します。
モハの意味、お判りになります???私は最近になって理解致しました。
嗚呼、よく眠れた・・・おはようございます。今日は磐越西線沿いの町を巡りますよ。初っ端は以前訪ねたことのある五泉市の南に位置する村松です。元々は村松町でしたが、平成18年(2006)の合併で現在は五泉市の一部になっています。江戸の頃は掘氏が治めた村松藩三万石の城下町でした。近代になると武士に変わって軍隊がやって来ます。明治30年(1897)に大日本帝国陸軍歩兵第三十連隊の兵営が置かれることになります。現在の石曾根辺りが練兵場や射撃場だったそうで、かなりの広範囲が軍の施設だったそうです。最盛期には2,000名もの兵隊さんが駐屯していたそうですから、村松は有数の軍都だったということになりますな。軍都に遊里有りの法則で、この町にもそういったものがあったそうなのですが、どうもはっきりしないわけ・・・。まあ、小さな町だから何か見つかるだろうと見切り発車したのですが・・・結果から先に言ってしまうと、遊廓跡一歩手前で引き返してしまったという大ポカ・・・。下調べの時間が充分に取れなかったというのが理由なのですが、今更そんなこと言っても言い訳にしかなりませんので、希有な(実はよくある(爆))失敗探索の例としてそのまんまお伝え致しますぞ。
遊里以外にもこの町を訪れた理由があります。それは嘗て五泉と村松を結んでいた超絶ローカル鉄道の存在、その名を蒲原鉄道といいます。蒲原鉄道が開業したのは大正12年(1923)、言うまでもありませんが鉄道敷設の理由として軍事物資輸送という役目があったはずです。当初は五泉-村松間という盲腸線状態でしたが、昭和5年(1930)に村松-加茂間が繋がってめでたく全線開通、国鉄との接続線という役目も担うことになります。戦後になり軍用線の必要も無くなり、さらにモータリゼーションの変化が追い討ちをかけます。元々沿線住民が少なかった村松-加茂間が昭和60年(1985)に廃止、これで元の盲腸線になってしまうわけ。五泉-村松間はたった4.2キロ、間には今泉という無人駅があるだけ・・・こんな状態が長続きするはずもなく、遂には全線廃止に至ってしまいます。平成11年(1999)のことでした。末期の乗客数は900人/日程度だったそうです。蒲原鉄道が新潟県内を走った最後の私鉄だったと知ったのは最近のこと、しかも大好物の盲腸線ですし、これは一種の終着駅への旅でもあるわけです。
現在は路線バスが唯一の足、五泉駅から南へ真っ直ぐ延びる県道7号線を行きます。道の左側、寄り添うようにして一定幅の草むらが続いています。実はこれが蒲原鉄道の線路敷きの跡になります。ほどなく村松の中心街に入り、下町の交差点で下車しました。
早朝の村松、人影は皆無。町の目抜き通りである国道290号線、途中で鉤形に曲がっています。城下町の面影だと思われます。
振り向くとこんな看板。
割烹木むらさん、一応ネットではヒットしますが詳細は不明。
目抜き通りの西側を並行している通りにも数軒の割烹が集まっています。最初地図を見たとき気になった場所になります。
こんな妙な造りのお宅もありますし。
看板はありませんでしたが、コチラは割烹松木屋さん。入口上に、この旅お馴染になった風俗営業の鑑札を発見です。発見はいいのですが、どうも探している場所とは違うような気がするのです。
その先の高い煙突は金鵄盃酒造さんのもの、明治40年(1907)創業の酒蔵です。
近くにあった小さな洋館、竹のバリケードで判りますが誰も住んでいないみたい。
何処にあったんだろう・・・ちょっと焦り始めております。
目抜き通りを戻るとまた割烹、手前の○月さん(読めない)は退役済みみたい、向こう側に現役と思われ新瀧さんがあります。これだけ割烹があるのも軍都の面影なのかもしれませんね。
○月さんの敷地内に残っていました。こちらが本館だったのかも。でも、此処も違うと思う・・・。
町中には無かったのではないかということで、南の外れのお寺が並んでいる一画を探ってみます。
脇道にあった骨組みだけのお宅、長らく放置されている様子・・・ちょっとした狂気を感じたのですが・・・。
大同元年(806)に創建され、寛文4年(1664)に村松藩主掘直吉によって現在地に移転された住吉神社。判りにくいと思いますが、境内が広大な池に囲まれております。それはいいのですが、やっぱり此処も違ったみたい。
今度は西に見える本堂山という小高い丘辺りを・・・途中にあったガレージ上の茅葺屋根、どうやら造園屋さんのものみたい。
その先の小さな集落で出会った塀。一瞬オオッとなりましたが、地図をよく見てみると、コチラは左官屋さんでした。物凄く紛らわしいぞ。
隣には小さな神様と欄間のみが放置プレイ、謎のシンメトリー・・・(笑)
町の西を流れる滝谷川を渡って本堂山へ・・・中腹に鳥居が見えてきます。
弘仁5年(814)の創建とされる春日神社。木々囲まれた静かな社です。時間の関係もありまして此処で引き返したのですが、実は此処の向こう側、本堂山を越えた先の曙町辺りに遊廓があったとは・・・。
重大な事実を知らぬまま、最後に訪れたのは村松城址、城自体は戊辰戦争で焼けてしまったそうです。現在は公園に整備されており郷土資料館があるのですが・・・って、早朝とあってまだ開館してないんでやんの。もうあかん、帰る!!と思いながらふと横を見るとコレが・・・。
蒲原鉄道モハ11保存車・・・村松-加茂間が廃止になった際に廃車されたものだそうです。雨露を凌ぐ上屋がありますが、塗装は廃車当時のままみたい。こんなのがガタゴト走っていたんだ・・・乗ってみたかった。
帰りは町の北の外れにある旧村松駅から・・・現在は路線バスの発着所ですが、当時の駅舎がそのまま使われています。停留所名も村松駅のままです。
停留所の裏手にひろがる嘗てのホーム跡、遺構らしいものは何も残っておらず砂利敷きの広場だけが秋の陽射しを浴びておりました。
肝心の遊廓についてですが、地元の不動産屋さんのHPで見つけました。写真の列の上から12番目、左から2番目に遊廓の位置を示した地図があるはずです。私は上の本堂山まで辿り着いていたわけ、見事に一歩手前で引き返していたことになります。数えてみるとお店が20軒ほどあったようです。町の規模からするとかなりのものだと思うのですが、兵隊さんが2,000名もいたとなるとこれぐらいないと捌ききれなかったのかも・・・。
その後の様子ですが、上の航空写真をクリックして下さいね。コレ、国土地理院の「国土変遷 地図・航空写真閲覧サービス」からの出典(整理番号:USA コース番号:R465-No2 写真番号:19 撮影年月日:1948/11/23 に加筆)になります。この航空写真、転載禁止かと思っていたのですが、よくよく見たら出典元を明記すればOKでした。遊廓の位置は左下、本堂山の向こう側、面白いくらい町から隠れるようにして存在していたことになります。当初は陸軍病院跡がそれだと思っていたのですがね。いかにもな形状しているでしょ?この写真、戦後すぐに米軍が撮影したものになりますが、この時点で遊廓は『跡』になっちゃっているのです。うっすらと何かがあったという感じはありますが、建物らしきものは確認できません。たぶん軍隊がいなくなったと同時に遊廓も終焉を迎えたのではないかと、ご贔屓さんが消えちゃったら商売になりませんものね。現在はというと、普通の住宅地になっているみたい。嫌々ですが(笑)ストリートビューでも確認してみましたが、何も見つけられませんでした。
もう少し下調べに時間をかければ違った結果になったのでしょうけど、相変わらず思いつきで行動してしまう人間ですのでどうかお許しを。以上、軍都村松の失敗探索でした。このまま五泉に戻り、時間に限りがありますが大急ぎで遊廓跡と思われる料亭街を再訪します。